第9話 計画の主旨
国立のそんな気持ちを知ってか知らずか、さくらと一緒にいる高橋は、快楽に溺れていた。こんな快楽がこの世に存在するものかと思いながら、まるで夢のような時間だと思っていた。会話も難しい話なのに、よくさくらもついてきてくれる。
というか、彼女の方も自分の考えをよく話してくれて、お互いに、
「まるで目からうろこが落ちたような気がする」
と思っているのだった。
高橋は、このタイムスリップしてきた時代から、元の世界に戻れるという確信のようなものがあったので、これまで、さほど自分の今置かれている境遇を悲観することはなかったのだが、今回さくら嬢と出会って、初めて、
「こんなにいい快感を知ったのだから、このまま二度とさくらさんに会えなくなるくらいなら、元の世界に戻れなくてもいい」
と感じた。
そして、ふと、前の時代の自分を考えてみると、過去に戻って会いたい人などいないことに、そして、過去の時代に未練のようなものもないことに気づいた。
そう思っていると、次第に頭の中から過去の記憶が消えていくのを感じた。普通、記憶が消えていくことを感覚で分かるなど、ありえないと思っていただけに、
「これ、本当に自分の身体であり、頭なんだろうか?」
と感じるほどだった。
そして、どうしてこういう感覚になってきたのかということを考えると、二つ理由が考えられた。一つは、
「さくらと出会って、過去に戻りたくないと感じたからだ」
という思いと、もう一つは、
「さくらと出会ったことで、こちらの時代に来てから初めて過去を顧みようとしたのだが、未来にくると、過去を顧みようとした瞬間から、どんどん記憶が消えていくようになっているからではないか」
という思いであった。
高橋が感じているのは、どちらかというと、後者の方が説得力としてはあるような気がした。納得がいくことであるが、強く感じているのは前者であり、記憶が消えていくことと、過去に戻りたくないという理由が一致していないように感じられたのだった。
高橋は、さくらに愛情のようなものを感じたが、それは、恋愛感情とは違う気がした。今まで恋愛などしたことはないと思っていた高橋が、初めて感じた愛情なのに、どうして恋愛感情ではないのかと思ったかといえば、頭の中に、もう一人の女性が浮かんだからだ。
その人はまだ会ったこともない人で、しかもモザイクが薄くはあるが掛かっている。そう、この店の人で先ほど待合室で見たキャストの中の一人であるその人は、これも先ほど名前の出てきた、
「あすな嬢」
であった。
モザイクが掛かっているのに、なぜ、気になるのか、自分でも分かっていない。だが、あすなへの思いが、恋愛感情に近いものだという予感があった。
これは予感であって、予言ではないが、前述の、
「予言と記憶」
という意味での言葉で、予言を予感に変えると当て嵌まる感覚を覚えたのだった。
この気持ちは、きっと過去から繋がっているものに起因しているに違いないと思うと、過去の記憶を紐解いてみようとしたが、考えてみれば、そこには三十年という時代の開きがあったのだ。
ついこの間のことでもハッキリと思い出せないと思っているのに、時空を飛び越えてきた記憶が、そもそも無事であるわけもないと思っているので、記憶自体が、
「あてにならないものではないか」
と感じられて仕方がなかった。
そういう意味でもし過去に戻ったとして、
「未来での記憶は物理的に消えてしまうのではないか?」
と感じた。
二度と思い出すことのできない記憶であれば、
「思い出にもできない記憶など残しておきたくない」
と思ってしまう。
だが、これを記憶だけで残しておきたくないとまで思ってしまったのだから、過去に戻りたくないという道理も理解できるであろう。
だが、高橋があすなと会うことはそれからしばらくはなかった。風俗禁止法の制定が迫ってきていたからだった。
「どうして、風俗愛好家であるあなたが、こんな法律に加担するんですか? 今の世の中、こんなに犯罪が増えてきているのは、男の人のストレスを発散させる場所がないからじゃないんですか? そのために、風俗ってあると思っていたんですが、違うんですか?」
と、高橋がいうと、
「それは違うぞ。風俗にしても、癒しにしても、何か自分の中で目標があって、それを小さくていいから少しずつ達成していって、その達成感を感じることで、ストレスは解消されるものなんだ。今のままでいくと、その感覚が消えてなくなってしまい、ただ癒しを求めるだけになってしまうと、本来の目的を見失う。それが一番恐ろしいんだよ」
と国立が言った。
「本来の目的?」
と高橋が聞くと、
「うん、本来の目的というのは、その人がその時々で達成しなければいけない細かい目的があるはずなんだ。それを解決できないまま先に進むと、次第に欠点が見えてきて、ある程度のところまでいくと、その欠点を自分で自覚してしまう。その時には、もう取り返しのつかないところまで行ってしまっていて、その時に発散させられた負のストレスが、身体に影響して、婦女暴行を起こすんだよ。つまりは、犯罪というのは、その時の感情だけによるものではなく、積み重なった何かがあるんだよ。衝動的という言葉があるけど、衝動的などという考え方は、そもそも存在しないと、僕は思っているんだ」
と、国立は言った。
「だから、これを解決するために、僕は、同じ考えを持っている、清水刑事と密かに水面下で動いて、今の組織にしたんだよ。そして、歴史というのは、ずっと続いてきているものだと思うだろう?」
と聞かれたので、
「はい、一本の直線のようなイメージですね」
と高橋がいうと、
「そういう考え方もあるんだけど、僕は違うんだ。途中途中で見えない部分で切れていると思うんだ。逆に言えば、やり直しが利くタイミングというべきか、それが現在から見ると、三十年前、つまり、君がいた時代なんじゃないかなって感じたんだ」
と国立は言った。
「確かにブームは繰り返すというけど、そういう意味から、ブームが繰り返されるのは必然だったのかな?」
と高橋がいうと、
「その通りだと思うよ、だけど、歴史は本来繰り返してはいけないんだ。もし繰り返した場合には不都合が起きるかも知れない」
「どういうことですか?」
「本来歩んでくるはずの歴史と違った歴史になるかも知れないということ。だから、歴史が一本の線でずっと繋がっているとすれば、未来全部が狂ってしまうことになるけど、部分で切れているのであれば、そこから先は、別の辻褄に合った歴史が存在しているから、問題ないのさ」
と国立は、自信満々で答えた。
「何か、プログラムの世界でいう、レスポンスのようなものに思えますね?」
と高橋がいうと、
「まあ、そんなものかな? だから、この時代が本当に君がいた三十年後の未来なのかどうか、それも怪しいと思っていいかも知れない。ただ、辻褄が合って見えているだけで、実は鏡の中の世界のように、左右が対称なのかもしれない。分かっているけど、理解することができない。それはまるで道端に落ちている石を見ても、何も感じないというのと似ているのかも知れないな」
と、国立は言った。
「じゃあ、僕は過去の世界に戻れないかも知れないということでしょうか?」
と高橋が聞くと、
「戻れるかも知れないよ。それは時間、いや、距離的にね。でも、それが本当に君のいた世界なのだかどうかというのは、保証がないということだ」
「どうしてですか?」
「それは、君は未来に来たので、未来の歴史が変わる分には君にとって、問題はないのだが、一度未来に関わった君が過去に戻るということは、時代の逆行であることに変わりはない。逆にいえば、未来には末広がりの可能性が広がっていると言えるだろうけど、過ぎ去った過去は一つしかないが、戻ろうとする過去はたくさんあるんじゃないかということさ。それがタイムスリップであり、もう一人の自分に会ってしまうとビックバンが起こると言われるだろう? 大げさだとは思わないかい? それはあくまでも過去に対して無限に広がる世界を創造してしまうからなんじゃないと思うんだ。それだけ大きなエネルギーだね」
と国立議員は言った。
「じゃあ、国立さんは、僕に子の時代で生きればいいとおっしゃるんですか?」
「そうは言ってない。君が何かの理由があってこっちに来たのであれば、逆に向こうに戻る必然性があるなら戻るというだけのことだよね、ただ、その世界が本当に君のいた世界がどうかは分からないと言っているだけだ」
相手の冷静さがこれほどゾッとするものだとは、高橋も思っていなかった。
「それは、確かにそうですが」
「それに君がこっちの時代にやってきた理由の中に、向こうの世界で嫌なことがあり、逃げ出したいと思ったりしていないかい?」
と言われて、
「確かにそれはあったかも知れませんが、そんなのは僕に限らず、皆にもあるんじゃないですか? それに僕にだって何回もあることだし……」
というと、
「そうなんだよね。だから、どこまでが偶然で、どこまでが必然なのか分からない。だけど、私は運命には逆らえないと思うんだ。これから先、何が起こっても、偶然かも知れないし必然かも知れないけど、偶然も含めたところで運命なんじゃないかって思うんだ」
という国立に対して、ここまで冷静になれる彼が羨ましいし、自分もあれくらいの年齢になると、ある程度悟りが見えて、冷静になれるのだろうかと思った。
「不惑の四十代」
というが、本当に迷わないようになるのだろうかと思うと、ここからの二十年が、相当長く感じられる。
しかし、実際には三十年を一気に飛び越したのだ。今は二〇二一年、昭和ではなく、次の年号は平成というらしいが、それも飛び越して、令和という時代になったというではないか。三十年という月日を考えると、それほど世の中が変わったような気はしない。
考えてみれば、昭和でも自分がいた時代から三十年前というと、まだ戦後のバラックが残った街並みで、やっと区画整理ができ始めたくらいの頃だろうか? その頃とは明らかに時代は違うが、昭和から令和ともなると、何が違うのか、人の考え方など疑問に感じてしまう。
ただ、今やろうとしている風俗禁止令は何を意味するのか分からなかった。
「この禁止令に何の意味があるんですか?」
と聞くと、
「これは世の中を変える起爆剤になってくれればいいと思っているんだ。徐々に厳しくしていく中で、最後に蓋を開けると、このような結末が待っていたということを世間に考えさせて、そこで政府に対しての反感を起こさせるためなんだ。風俗を禁止するとなると、女性や、真面目だと自負している人には関係のないことであるが、実際には、真面目だと自負している人の中には、人知れず風俗に通っている人もいるだろう? そういう人たちが人たちがあぶり出されてくるのさ。そうなると、それまで不満を自分で隠そうとしていた人たちが世の中の矛盾に気が付いて、政府に対して問題提起をするようになる。一種のクーデターのようなものだけど、心理的に追い詰めることになる。それが目的さ。そして、政府の方が、焦れてしまって、相手に発砲する口実を与えるようなことをするだろうね。何しろ政府の連中は特権階級だと思っていて。少々のことは許されると思っている連中が多いから、そういう連中が焦れ始めると、そもそも政府なんて烏合の衆のようなものなので、自分の保身ばかりを考えるようになる。国民を見ずに自分たちの利権を最優先に政治をするような連中だから、心理的に揺さぶるのは、そんなに難しいことではない。だから、最初、そんなに騒ぎが大きくならない程度の事件を起こす必要がある。それが、風俗を利用する人だけが困るので、たいして問題にはならないと思っていると、禁止することで、性犯罪が増えてくる。実際には、警備を強化すれば、防げるのだが、事件が増えるということは社会問題になって、政府にその矛先がいくよな? 今の政府にそれを何とかできる力もないし、根拠のある言葉も言えない。言えば言うほど、世間は騒ぎ出すからな。特にこういう性的犯罪などは男女平等の問題にも絡むから、発言するのも難しい。今の政治家はバカな連中が多いので、そのあたりを考えずに発言すると、マスコミから攻撃されて、窮地に陥るというわけさ。それが俺たちの狙いとでもいうところかな?」
と、国立議員は言った。
「なるほど、そこまで考えていたんですね?」
「ああ、そこまでしないと、政府をぶっ潰すことはできないからな。本当にぶっ潰さなければいけない政府というのは、自分たちが危機に直面していても、言葉で乗り切れると思っているお花畑思想の連中ばかりだということだ」
と、国立議員はいうのだった。
そこまで聞くと、もう高橋には反対する意識はなかった。
高橋は、今回の計画とは別に、いや、今回の計画を分かっているから余計に、あすな嬢に会ってみたくなった。さっそく予約を入れて、会ってみることにした。
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