魂の審判

 石造りの建物を湿らせる煙雨に、崔日輝チェ イルフィは顔を顰めた。

 古書店街の軒先には普段ならぞろりと箱に詰められた本が並んでいるが、もうとっくに店の中へ仕舞いこまれている。ただでさえ日が短くなりはじめているのに、重く立ち込めた曇天は斜陽を遮り、もう辺りは薄暗い。路面を走る都電の停留所にも人影は疎らで、瓦斯燈はまだしばらく点きそうにないが、ぼちぼち看板を下げている店もある。傘も金も持ち合わせていない崔はつまらなそうに溜息を落とした。

 同胞に呼ばれた神田小川町の支部とやらはここから間近だが、指定された時間まではまだ幾許か間がある。本郷から外神田までは都電が走っているのでそれを使えば早いのだが、その金がない崔は徒歩にならざるを得ず、余裕を持って出たところ自分の足の方が予想外に早すぎたのだった。朝から雲行きはよくなかったものの、長い傘を持ち歩くのも好きでないので着替えるついでに下宿に置いてきたところ、湯島のだらだら坂を下りきった辺りで霧雨が降りてきた。

 少しくらいなら古書店の軒先で時間を潰しても、と思っていた宛てが外れ、崔は肩を窄める。見るからに貧乏そうな崔が軒をくぐれば、古書店の主人は誰でも顔を歪める。ただでさえ学生の割には年を食っているし、おまけに少々老け顔だから、書生姿も一層胡乱に映るに違いない。

 普段ならこのくらいの雨は濡れるに任せてそぞろ歩くのだが、特に行先の宛てもないままぶらぶらとするには少々秋風も冷たかった。風邪を引くのも上手くないが、かといって今から支部へ赴いて公安に目をつけられるのも面白くない。合わせた両袖に腕を入れて、ぼんやりと崔は空を見上げた。見上げた目の中に細かい雨がぱらりと落ちてくるのを頻りに睫毛で払ったが、厚く立ち込めた雨雲はそう容易く立ち去りそうにはなかった。

 「別に、俺ァどうでもいいんだがなあ」

 わざと口に出して嘯くと、ちんちんと鉦の音を響かせながら都電が崔を追い抜いて走り去っていった。本当は全く興味がないわけでもないのだが、それでも今回の集会に参加するのは半ば以上付き合いのようなものだった。

 母国がこの国に併合されてから、もう三年ほどになるだろうか。当時母国の大学に通っていた崔は、学制のごたごたで学位が取れるか微妙な立場に置かれてしまい、やむなく東京の帝大へ入り直す羽目になってしまった。ちょっと前までは留学と呼ばれ母国からの援助金もあったはずなのだが、併合の結果こちらの帝大こそが本国の最高学府ということになり、学費こそは一応の措置を得られたもののそれ以上の公的な支援は受けられていない。欲を言うつもりもないのだが、故郷と大幅に物価の異なる場所での生活はかなり厳しいものがある。

 それ以上に気分的に辛いのが、素性を明かしたときに向けられる人々からの視線だった。浪人した学生も大学内には相当いるが、崔とそう変わらぬ歳の者となるとやはりそこまで多くはない。どうしても人目につくので出身などを問われることも増えるのだが、母国の名を告げた途端に人々の態度が急変するのは常のことだった。こちらの大学へ入らざるを得なくなったときから覚悟はしていたつもりだが、それでも場違いなものを見るような眼差しは体験してみないとわからない。おまけに下宿を借りようにも保証人がいないなどの理由で断られ、保証人を頼もうにも縁故や伝手がないとなると、いよいよ途方に暮れざるを得なかった。

 こうした東京での扱いに憤った同胞たちが、東欧で流行しているという民族革命の運動を起こしていると耳にしたとき、崔も全く感じるものがなかったとは言えない。母国が再び独立国家としての権限を回復すれば、わざわざ住み辛い異郷へ訪なう必要もなくなる。それは確かに、甘い魅力を伴って崔の耳をくすぐった。

 だが、とそこまで考えたところで彼は立ち止まってしまった。きちんと現実を見詰めて考えれば、母国が併合された最大の原因はこの国に対抗する国力を持たなかったことにあることも見えてくる。それから僅か数年の間に、ましてこの国の管理下に置かれていた母国が、どれほどの力を蓄え得ただろう。仮に今この国から独立したところで、そんな状態では別の国にすぐに取って食われるのが関の山ではないか、そう彼は思ってしまったのだった。

 理想を語るのは楽しく、むしろ若さの特権とも言えるほど興奮する。だが、その理想を支えるために必要な現実的な準備が何一つ整っていない状態で唾を飛ばしても、それはただの口上に過ぎない。ならば今為すべきことは、もっと別にあるのではないか、そう崔は思わざるを得なかった。

 とは言え帝大に籍を置く同胞の中でも年長者になる崔は、しばしば後輩たちの世話を焼いてしまう。いきおい懐かれて嬉々と語る際どい計画など聞かされては、危なっかしくて目を離せない。辛うじて今まではその手の集会への参加を断り続けてきたのだが、公安の目を盗んで決起集会を行うなどと言われては、むしろ心配で放っておけなかった。

 しっとりと濡れた袖を組んで背中を丸め、再び崔は溜息を落とす。じっとしていても身体が冷えるだけだが、古書店街は店を覗かなければあっという間に歩き切ってしまう。九段の方へ坂を上っていけば靖国神社の鳥居も見えるが、崔にとっては母国を奪いに来た軍人まで祀られている施設なのだから、あまり参る義理も感じない。

 どうしたものか、と街道で立ち尽くしていると、ふと背後から呼び止められた。

 「あの、もしかして山佳やまよしさんですか?」

 崔の文字を崩したその苗字は、やむを得ず作った自分の日本名だった。若い女性の声に訝しみながら振り向くと、そこに傘をさした海老茶袴の女学生が佇んでいた。束髪くずしにした額が広く、知的な面差しには見覚えがある。

 「覚えていらっしゃらないですか? あたし、竹中の妹です」

 「あ……ひで子ちゃんですか」

 彼女は学友によく似た端整な顔で、にこりと微笑んだ。

 出身のせいで崔には日本人の友人が少ない。その数少ない中に、竹中芳視たけなかよしみという男がいた。お互い文芸創作を志向するなど気が合うところが多く、自宅にまで招待されたことがあり、その際に何度かこの妹とも言葉を交わしたことがあった。見るからに育ちの良さそうな竹中の実家は麹町の邸宅で、子爵位を持つ兄は官僚だというのだが、その割には兄妹揃って気さくな性格だった。

 だが、竹中相手であれば幾ら華族の子弟とはいえ気安く話し掛けもできようが、相手が女性となればそうはいかない。どうしたものかと困惑していると、ひで子は踵の高い長靴で水溜りを跳ねながら近寄ってきた。そして軽く背伸びをして、袖を押さえながら傘を差しかけてくる。

 「山佳さんも本を見に来られたんですか? あたしもちょうど師範終わって、今日は本を見ながら帰ろうかなと思ってたから馬車を断って都電で来たところなんですけど、生憎もう山本さんが閉まっちゃってて」

 「ああ」

 訊ねようかと迷っていた部分を全て説明されて、ようやく崔は曖昧に笑いながら背後に目を向ける。彼も贔屓にしている書店だが、あいにくついさっき鎧戸が閉まってしまったところだった。

 「この調子だと、内山さんも厳しいかしら」

 「そうですね。おまけに俺は店に入るのも何なんで、軒だけ物色するつもりだったんですが、上手くいかないもんです」

 何の気なしに答えたつもりだったが、不思議そうにひで子は小首を傾げた。兄の芳視と瓜二つの顔をしているくせに、彼が滅多に見せないような表情をころころと見せるのが面白くて、崔は彼女の顔を眺めながら言葉を繋ぐ。

 「ほら、何しろこの通りみすぼらしいですから」

 「学生さんが小奇麗な成りをしていてもぞっとしませんわ。本当にお勉強に打ち込む方は、身形よりも何よりも本にお金を使ってしまうものでしょう」

 至極真面目にそう言うと、ひで子は同意を求めるように崔を見上げた。じっと目を見られて思わずたじろぎ、目を逸らしながら彼は言った。

 「竹中君とかもそうなんですか?」

 口に出してから、愚問だったと気付いて崔は自分を恥じる。竹中は常にこざっぱりとした身形の伊達男だし、何より本代に困窮するような家でもない。だがひで子は軽く首を傾げたまま笑った。

 「ええ、そうなんです。芳ちゃんてば、服や制帽を誂えるように預けられたお金を全部丸善に落としてきてしまうものだから、兄様によく怒られてます。あいつにだけは財布を預けてはいけないっていうのがこのところの口癖で」

 その明るい口振りがおかしくて、思わず崔は吹き出した。なるほど、その姿は浮世離れした学友に似つかわしい。彼の顔を見上げていたひで子は嬉しそうに微笑み、ようやくほっとしたように言った。

 「急に呼び止めてしまってごめんなさい、奇遇なものだから嬉しくて。どこかへ行かれるところでしたか?」

 「いえ、別に急ぎでもないのですが」

 聡明な女性だ、と崔は感心する。相手に気を遣わせないような語り方を心得ており、その実本人は相手への配慮を忘れない。母国でもこちらの国でも良家の娘はもう少し奥へ引き篭もっているものという印象があったので、ひで子の育ちのよさを窺わせる闊達さは新鮮だった。

 だが、と崔は周囲に目を配りながら声を抑える。

 「ひで子ちゃんこそ迷惑ではないですか?」

 「あら、どうして?」

 不思議そうに目を瞬かせるので、苦笑して崔は続けた。

 「人に見られて、嫁入前に相合傘をしているなんて誤解されたら困るでしょう」

 「まあ」

 ころころと声を上げてひで子は笑った。

 「そんな、あたしから呼び止めているのに。大丈夫ですよ、今時そんな頭の固い人、こちらから相手しなければいいんですもの」

 屈託のない様子に思わず崔は眉根を寄せて笑う。それから、そっと傘の端へ身を退けると九段坂の方へ足を運び始めた。自然にひで子がついてくるのを確かめて、崔は外苑沿いの道を指差した。

 「今日はもう暗いですし、構わなければ途中まで送ります。御濠までには流しの馬車も捕まるでしょうから」

 「あら、でも山佳さんのおうちは反対方向でしょう?」

 「大丈夫ですよ。この後友人と会う予定なので、彼等と駄弁りながら帰ればすぐですから」

 あ、とひで子は声を上げて、すまなそうに肩を窄めた。

 「ごめんなさい、引き止めてしまって」

 「いえ、早く着きすぎて時間を持て余していたんですよ。ちょうど具合がよいんです」

 ふと見上げた時計台を見ると、本当はもうそこまで余裕があるわけでもなかったが、雨で人気の少ない夜道を女性一人で歩かせるわけにもいかない。おろおろと言葉を選んでいると、まじまじと彼の顔を見ていたひで子は、ようやく眉を開いた。

 「それでしたら、お言葉に甘えてしまってもよろしいですか?」

 「ええ、そうさせてやって下さい」



 都電沿線をそぞろ歩いて、俎橋の辺りで拾った馬車にひで子を乗り込ませ見送った途端、霧雨は篠つく雨に変わった。ひで子に勧められた女物の傘を断ったものの、いっそ借りておけばよかったかなどと思いながら崔は坂を下っていった。下駄が水溜りを跳ねるたび、飛沫が足指を冷やしてゆくが、全身がずぶ濡れになっている崔にとってはもうどうでもよかった。

 別に自分が几帳面な気質だとは思わないのだが、それでもなぜか昔から時間だけは守らないと気が済まなかった。講義に遅れれば、一言教授に詫びて講堂へ入ればすむはずなのに、なぜかその講義に出ることすら諦めてしまうことすら少なくない。難儀な気性だと自分でも思うのだが、こればかりは性分と呼ぶしかないだろう。

 とは言え、あそこで見捨てるようにひで子と別れてしまうのも引っ掛かった。改めて考えると、都電の停留所まで送ればずっと近くてすんだはずなのだが、あのときにはそこまで気が回らなかった。第一都電に乗れない崔は、麹町の方へ連絡のよい路線があるのかもわからない。もし都合がよければひで子の方から指摘しただろう、と高を括ることにする。

 急いだ甲斐あって、神保町の時計台の前まで戻ったときにはまだ約束の時間になっていなかった。代わりに頭からずぶ濡れになってしまったものの、遅刻することやひで子を見捨てておくことよりは遥かにましだと自分に言い聞かせ、路地裏へ入り込む。予め場所は確認しておいたので、わかりいい場所でなかった割には迷わずに済んだ。

 そこは古びた下宿風の建物で、引戸を潜るや否や身元を改められた。どうしたものかと困惑していると、問答を聞きつけて奥から出てきた数人の後輩が素性を請け負ってくれた。嬉しそうな彼らに引き摺り込まれた奥座敷は、人目を憚るように窓に黒い幕が下ろされていて、既に集まった若者たちでむっとするような熱気と体臭が立ち込めている。灯りは天井に吊るされた小さな裸電球一つだが、八畳ほどの空間なのでそれで十分だった。崔より少し若い青年ばかり十数人ほどいるだろうか、後輩らが崔を紹介すると中からわっと歓声が上がった。

 崔が場に入ってからもそれなりの人数がやってきたので、座敷の中は鮨詰めになった。南京虫でもいるのかぼりぼりと誰かが肌を掻く音が時折響くが、概ね彼らは抑えた低い声で会話を交わすばかりだった。最終的には二十人を越える頭数が並んだが、まだちらほらと参加者があるらしく戸口で誰何の声が聞こえる中、予定の時間を大幅に過ぎたので代表と思しき青年が声を上げ、開会の辞を行った。努めて使わないようにしていた母国語の響きを久々に耳にすると、さすがに幾許かの感傷が湧いた。

 押し込められるように座敷に座っている青年たちは、崔や後輩を含むごく一部が学生風ではあったものの、多くは労働者風の股引姿だった。司会を行う青年は学生服姿で、その向こう側にいるのは一見務め人風の背広を着た人物だった。やや年嵩で細面の面差しを眺め、崔はようやく集会の性質を把握する。要するに、この国で最近流行している労働運動の指導を受けているものだろう。集会の主催者は同胞かもしれないが、恐らく背後で支援を行っているのはこの国の人間のはずだ。

 なるほど、と崔は得心する。完全に同胞の着想と運営の元に行われる集会であれば、彼らの多い上野の方で行えば済むはずだ。幾ら公安の目が厳しいとは言え、崔や同胞らが雑居する山谷の辺りには多くの無法地帯があるのだから、監視を掻い潜ることくらいさほど難しくはない。それを敢えてこんなところまで足を運ばせるというのは、母体となる組織の影響だろう。

 別に活動を起こすこと自体を批判しようとは思わない。それは人として予め与えられるべき正当な権利を求めることに他ならない。だが、実践の及ばない理念は虚言に過ぎず、現実の届かない理想は夢想にしかならない。こうした活動一つ自分たちで満足に行える状態にないのに、声高に叫ぶ主義主張は所詮借り物だ。

 それは同胞に限ったことではないだろう、と崔は唇を噛んで場を見渡す。この国の人々は確かに同胞より多少なりとも恵まれており、母国では信じられないほど幼い子供や下級の市民まで文字を理解することができるが、その間にもやはり歴然とした格差は存在する。それは崔の見る限り、経済的、社会的なものよりもむしろ、知的な問題において最も切実だった。知らないがゆえに求めることすら知らず、知らないがゆえに支配され、それから抗うために知ろうとすれば、別のものの下に位置付けられる。一見すれば行き詰まっていることに気付きにくい、しかし抜け出しがたい巨大な袋小路だ。

 演説が行われるたびに追従で拍手を打ちながら、崔の心中には暗澹たる雲が立ち込めていった。夢を見ることはできても、彼らは決して救われない。彼らだけではない、このままでは誰も救われない。後輩たちと共に、顔を輝かせて演説に酔いしれることのできない自分が無性に恨めしかった。

 と、その瞬間戸口の方から鋭い声が響いた。

 「警察だ! 裏口から早く!」

 きょとんとしていたのは崔一人で、見張りの声がやむ前に既に場の大半が慌しく立ち上がると、黒い幕を捲り上げ始めた。座り込んだまま目を向けると、そこに裏口と思しき扉があり、押し開けられた途端次々に青年たちは飛び出していく。その首尾のよさに思わず感心し、崔は苦笑した。

 茶番だ、と思った。そもそもこんな小さな集会にどれほどの力があるだろう。集会そのものも茶番であれば、そんなものをいちいち咎めて回る警察の行動も茶番だ。集会を潰された青年たちは自分たちの行動が国家に脅威を与えるものだと思い上がるが、警察は集会の一つ一つを潰すことが見せしめになるとでも信じているのだろうか。下らない茶番だ。

 ふと立ち上がった崔は、徐に戸口の方へと向き直った。逃げようと奥へ入ってきた見張りの青年と入れ違い、彼に呼び止められる。

 「あ、いけない。表には警官がいます」

 「ああ、別に構わないさ。ちょっと顔を見て来たいだけだ」

 「危ないです、こっちへ」

 振り向くと、後輩や数人の青年たちが不安そうにこちらを見ていた。彼らの素直な表情が居た堪れず、崔は眉根を寄せて微笑む。

 「それじゃあ俺は後から行くよ。纏まって逃げる方が目立つだろう?」

 「駄目ですよ、すぐ警官が入ってきます」

 「俺は別に構わないさ。先に行きなさい」

 諭すようにそれだけ告げると、崔は戸口へ向き直った。背後で足音が聞こえたような気がしたので、逃げたのだと勝手に判断し、彼は扉に手を掛ける。木造の引戸を開けると、軒からざあざあと雨が滴り落ちているのがまず目に入った。そして、黒い制服の警官が持つ灯りが雨にぼやけて鮮やかに目を刺す。

 暗がりにまだ慣れない目は正確な人数を捉えられないが、どよめきに似た声が辺りを構わず上がった。どうしたものか、と崔が苦笑した瞬間だった。

 「あら、山佳さん」

 思わず崔は目を瞠る。よく目を凝らすと、雨に霞む警官たちの影に、鮮やかな女物の傘が浮かんでいるのが見えた。身じろぐ警官の隙間から、ひらひらと白い掌を振る女性の顔が覗く。

 「……ひで子ちゃん?」

 「知り合いか」

 頓狂な声を上げた崔に、警官が不審そうな声を掛けた。そんな彼を押しのけ、ひで子は袴姿のまま、嬉しそうに駆け寄ってくる。警官も崔も、夜目にも鮮やかな彼女の姿を呆然と見遣った。

 「先ほど別れてから、急に雨が酷くなりましたでしょ? 間に合ったらと思って、傘をお持ちしましたの」

 「いや、でも、こんな時間ですし」

 「あら、でもあっという間ですのよ。宅の間近から都電の十系統を使えばすぐですし。間に合ってよかったわ」

 ひで子は悪びれもせずに笑い、崔に黒い蝙蝠傘を手渡した。それから首を傾げて警官を振り向き微笑む。

 「ただ、行き先を伺っていなかったので、丁度お巡りさんがたくさんおられたからお伺いしておりましたの。本当に間がよかったわ」

 半ば呆然としてひで子を眺め、それから崔は顔を上げた。警官らはひどく不服そうな顔をしているが、二人を遠巻きに眺めたままそれ以上近寄ろうとしない。ただ、その中の一人が棘のある声を投げかけた。

 「竹中令嬢、夜間の女性の一人歩きは感心しませんな」

 「ええ、でも帰りは山佳さんと一緒ですから大丈夫でしょう?」

 「令嬢とこいつは、どのようなお知り合いですかな」

 口振りから察するに、顔見知りなのだろう。高等女子師範の警備でもしているか、さもなくば要人である長兄との関係でしばしば顔をみる相手なのかもしれない。明らかに崔を怪しんでいる警官に、ふとひで子は悪戯っぽく微笑んだ。

 「兄の学友ですの。何でしたら、兄をお呼びしましょうか?」

 その瞬間、警官たちの空気が一変した。顔を顰め、それから崔は納得する。なるほど、崔の年齢はどちらかといえば次兄の芳視より長兄の方に近い。

 「は、子爵をお煩わせするには及びません。失礼致しました」

 「いいえ、お勤めお疲れ様でございます」

 にっこりと微笑んで、ひで子は数歩先へ進んだ。崔は慌てて傘を広げ、その背中を追い駆ける。警官たちの突き刺さるような視線が背中に痛かったが、軽やかに長靴で水溜りを踏むひで子に引き摺られているうちに、やがて闇に紛れるように遠ざかっていった。

 大通り沿いの街灯の下まで進み、ひで子はようやく振り向いた。今度は自分から言わなければ、と思い、崔は声を掛ける。

 「あの、ありがとうございました」

 「いいえ、偶々今日お会いしたのもご縁ですもの」

 「それにしても……」

 屈託なく微笑む彼女を見ながら、それでも崔はどこか信じられないような思いだった。街道の時計台を見上げると、やはり別れてから随分な時間が経っている。彼の混乱を微笑ましげに眺めながら、ひで子は華やかな口振りで告げた。

 「だって、お時間決めて待ち合わせをなさってたのでしょう? ご近所のお友達でしたらお家の近くでも済みそうですのに、わざわざここまでお見えなのですから、この近くで御用がおありなのだと思って。かなりお早めにお見えになっているご様子なのに、すぐに済む御用でもないでしょうから、宅へ帰ってから戻ってくる時間もあるかと当て込んでました。後は運任せのつもりだったのですけど」

 崔は唖然と彼女の聡明そうな笑顔を眺める。彼のぽかんとした表情に軽く首を傾げ、ひで子は少しだけ声を抑えた。

 「そうしたら、お巡りさんが集まってこられましたから、もう間もなく御用もお済みかなと思って。差し出がましくてごめんなさい」

 「あ……」

 思わず崔は絶句する。だが、両手で傘の柄をくるくる回し上目遣いにこちらを見るひで子の様子を眺めている内に、彼はくすりと笑みをもらした。皺の寄った眉間を押さえながら、片手で顔を覆って崔が笑うと、ひで子は悪戯っぽく肩を竦めた。

 「ご迷惑でした?」

 「いやそんなことは。それにしても本当に助けられました、この埋め合わせは必ずどこかで」

 人を食ったような可憐な仕草の才媛に、堪らず崔はかぶとを脱いだ。なるほどこの侮り難く賢明な女性は、固より傘を貸すためだけにここへ戻ってきただけでもないのだろう。好ましい女性だ、と崔は素直に感心した。

 そして何より、あの場から抜け出すことができてほっとしている自分に驚かされた。集会に参加しているより、傘を貸してくれる女性と歩く方が好ましいなどと言えば、同胞からは惰弱だと馬鹿にされるに違いない。だが、息詰まるようなあの空気の中に押し込められているよりは、遥かにこの成り行きの方がありがたかった。

 と、ふとひで子はちらりと崔の顔を見上げた。

 「でしたら、早速お願いしても構いません?」

 「は?」

 咄嗟に訳がわからず変な声を上げた崔に、ひで子は気品すら漂う笑みを向けた。

 「実は後先考えず来てしまいまして、もう宅の方へ行く都電が終わってしまいましたの。もしよろしかったら送って頂けません? 遅いですし、泊まって頂けたら結構ですから」

 あ、と声を上げて崔は左右を見遣る。馬車か人力車を、と思ったが、雨で人通り自体が疎らで、確かになかなか捕まりそうにはなかった。

 「いや、しかしそんな勝手には……」

 「大丈夫です、他ならぬ山佳さんですもの。芳ちゃんも兄様も駄目だなんて言うはずないわ」

 ね、とひで子に頼まれ、崔は頭を掻きながら雫の伝う傘の端を見上げた。確かに今から下宿へ帰ろうにも、逃げ出した同胞を追った警官が張り込んでいるのは火を見るより明らかだった。帰らなければ心配を掛けるのは間違いないが、さりとて今すぐ帰って警官にこれ以上目を付けられるのもまずかろう。

 「そういうことでしたら、どちらにしてもお宅まで送りますよ。お兄さんがいい顔をなさらなければ、そのまま帰ります」

 「まあ、ありがとうございます」

 嬉しそうに水溜りを飛び越えて、街灯の明かりの中で振り向いてひで子は笑った。

 その瞬間、崔の背中を追ってごとんごとんと重い音が近付いてくる。目を向けると、パンタグラフの青い火花を散らしながら路面電車が走り去ってゆく。擦れ違い様にちりんちりんと軽やかな鉦の音色が響いた。

 四角く切り取られた窓から洩れる光を目で追い、崔はふと訊ねる。

 「ひで子ちゃん、あの電車は?」

 「あれは宅の方へは参りませんの」

 悪びれもせずにひで子は首を傾げ、それから崔の隣に傘を並べた。

 「それに山佳さん、送ってくださると約束してくださったわ」

 「かしこまいりました」

 苦笑しながら崔は足を運ぶ。その隣に沿うように、ひで子の少し小さな傘が並んだ。

 月も星もない夜に、遠ざかるにつれて小さくなる瓦斯燈の明かりが濡れた地面にぽつぽつと落ちる。遠い夜景に溶け込むように、二つの影は御濠へ向かい再びぽつぽつと進み始めた。




「罪か徳か」

「そんな。ただ行動を起こしただけでしょう?」

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