恋人達の選択

 息もできないほどの桜吹雪だった。

 黒い土の表面を埋め尽くす花弁が西風に吹き上げられて舞い上がり、辺りの空気までも埋め尽くす。一面を白い霞のように覆い尽くし、花の香りが桜の嵐と共に押し寄せる。

 水に浮かんだ絹のような純白の花弁は熟れてゆくように色を深め、ふとした瞬間から唐突に黄色く腐り始める。その腐る直前の、まさしく滲むような濃紅に染まった花が埋め尽くす水面の下に、何者かが沈んでいた。次々と降り積もる花弁で厚く覆われているはずの水の中に、まんじりともせず沈んでいるその存在を、見えもしないはずなのになぜか彼は確信していた。

 生きているはずなどないのに、彼は確かめずにはいられなかった。そっと水面に手を触れ、掌に変色し始めた斑の花弁を絡め取り、黒く濁った水の中を覗き込む。

 ああ、と彼は歎息する。暗い水底に白々と沈んでいるのは、一人の人間だった。長く解れた髪を水に踊らせて、微かな流れに華奢な四肢を委ねた、細やかな麗人の姿だった。水泡も波紋も自らは作り出そうとでず、まさしく水のような静寂を保ち、その人は静かに沈んでいた。

 地上はまさに花の嵐、螺旋を描きながら無数の花弁が狂おしく吹き寄せる。儚げな花弁が息を塞ぐほど舞い上がり、凄まじく辺りを覆い尽くす。その苛烈さと別の世界に、佳人は黙って横たわっていた。微かに薄目を開いたまま、瞬き一つ揺らそうともせず、僅かに唇を押し開けたまま、囁き一つ零そうともせず。

 その世界を隔てる表面に、花弁の吹き寄せる水面に、彼は掌を当てていた。ほんの僅か力をこめれば簡単に超えられるはずの境界が、果てしなく遠いものに思われた。藻のような黒髪にゆらりゆらりと撫でられる水底の面差しは、冒し難いほど麗しかった。生命の片鱗も感じさせないその佇まいは、この激しく花弁を散らす無数の木々に囲まれ立ち竦む彼と決して相容れないものだった。

 ふと、彼は肌に冷たいものを感じた。花曇りの空から一滴、ぽつりと落ちてきた雨が彼の瞼を濡らした。花弁を払った後の水の滑らかな表面に、鋭い波紋が幾つも現れた。慌てて波紋を拭おうと指先を滑らせると、その先から磨かれた鏡面のような水面が崩れていった。

 不意の風が、雨の雫と共に花弁を激しく散らす。岩肌のように乱れた水中と空気の境界を、吹き寄せられた花弁が覆い始める。払っても拭っても、それを遥かに凌ぐ速さで舞い降りてくる花の欠片はもう二つの世界の境界線を曝け出すことを許さなかった。

 無数の桜花が散る瞬間の、無声の叫びが辺りを支配した。

 腐った花と春雨の匂いがむせ返り、もう息もできなくなる。払うこともできず、鎖されてしまった水底との境界を前に、呆然と彼は立ち尽くすばかりだった。



 慌てて飛び起き、彼は額に手を当てた。冷たく濡れていたので、一瞬雨に打たれた為かと訝ったが、息を整えるうちにそれがただの汗であることを確信していった。肌の表面は恐ろしいほど冷えていて、ただ身体の芯だけが焼けそうなほど熱かった。

 寝間着の袖で顔を拭おうとして、目の脇から耳の辺りにかけてがぐっしょりと濡れていることに気付いた。雨でも汗でもなく、涙であることは多分彼自身が一番よくわかっていた。

 布団の上に半身を起こし、彼は思わず掌で顔を覆う。こめかみの生え際の辺りを指先で掻き揚げ、それから重い溜息を落とす。

 (――あれは)

 生々しいあの情景が夢であったことは、彼にとっては何の救いにもならなかった。あれは夢には違いないが、それでもあの瞬間あの場所に存在する事実だった。夢であったということは、あの水底の佳人が辿ったその悲劇的な足跡を否定しうるものではなく、ある一面においては何より強固にその実存を支えるものであった。

 夢は、嘘の同義語ではない。彼が得た確信は、少なくとも彼の見聞や体験という意味で、紛れもない事実であった。他者に合理的に伝えることは恐らく適わないが、彼が得た感触や感情が偽りのものではないように、水底に沈んだかの人はそのとき紛れもなくそこに、存在、していたのだった。

 (心中だ)

 暗い水の中に横たわっていた麗人の姿は、恐ろしいほどありありと思い返すことができた。静かに横たわり、虚ろに天を仰ぐ瞳は、覚悟の末に自らの意志でそれを選んだということを物語っていた。佳人が一人きりだったにも関わらず、その確信は彼の中で決して揺るぎのないものだった。

 相方がいないということは、捨てられたかもしくは片割れだけ死にそこねたかのいずれかだろう。いずれにしても惨い話だが、その物悲しさは佳人にひどく似つかわしく、それがまた一層哀れだった。情死の道を選ぶのは共に生きることができなかったからで、それなのに共に死ぬことすら叶わなかった佳人は、如何なる思いであの静かな水の中に沈んでいたのか。

 その面影が、半ば融けるように闇に抱かれていた麗人の表情が、脳裏に焼きついたまま忘れられなかった。吹き寄せる激しい春の嵐の感触が身体中から離れず、そのまま彼は一晩中寝付けそうになかった。




「目覚めるべきか夢見るべきか」

「二度と開かない瞼の裡には、如何なる夢も描かれまい」

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