希望の星

 「みこちゃん、何をしているの、昆布! 早く昆布!」

 「あ、はい!」

 甲高く叫んだ姉の声に急き立てられ、慌てて鏡子かがみこは俎板から離れて竈にかけた鍋へ走る。その瞬間、濡れた土間で雪駄が滑った彼女は小さく悲鳴をあげた。裏漉し器を扱っていた茜子あかねこは、すぐさまそれを放り投げて妹へ走る。鍋に飛び込む直前の鏡子に身当てを食らわせると、姉妹は揃って土間の床に倒れこんだ。

 その衝撃かはたまた袖が引っ掛かったのか、出汁昆布を入れていた鍋が竈の上に転がる。茜子は一瞬しまったという顔をしたが、すぐに鏡子を抱え込んで蹲った。火の入った竈に煮立った湯をぶちまけ、凄まじい灰神楽が台所を襲う。賄い方や女中たちが騒ぎに気付いたらしく、激しい足音と叫び声だけは聞こえたが、二人の視界は舞い上がる灰で完全に遮られていた。

 「姫様方、とりあえずこちらへ!」

 「は、はい」

 返事をしようとした鏡子は嫌というほど灰を吸い込んでしまい、苦しそうに咽る。灰をものともせずに飛び込んできたまかない六平太ろっぺいたと姉の茜子に庇われて、やっとの思いで勝手口から外へ這い出したものの、鏡子はまだ目も開けられないような有様だった。

 「姫様! お怪我はございませんか!」

 悲鳴のような叫び声と共に駆けつけてきたのは婆やのふきだろう。濡らした布で顔を拭われようやく目を開けた鏡子は、ばつが悪くて慌てて顔を伏せた。茜子は煤と灰で真っ黒な顔をしてこちらを心配そうに覗き込んでおり、若い大柄な六平太は吹き出す灰から姉妹を庇うように勝手口に背中を向けて、白髪に黒い灰をまぶしたふきは今にも泣き出しそうな顔で土に膝を突いていた。

 「……あ、あの。ねこ姉さまは? 六さんとふきは大丈夫?」

 三人は顔を見合わせ、それから口々に言う。

 「ですから姫様、言わずもがなのことを。人には向き不向きがございますの、ご無理をすることはないのですよ」

 「ねえみこちゃん、何なら姉様も口添えしてあげるから、しばらくお家から六さんを借りていきなさいな。このままでは先様の御宅がいつ燃えてしまうことか」

 「そうですとも。もし三の姫様が厨房に立たれるおつもりなら、使用人をもう五人は多めにお連れ下さいまし」

 ええと、と鏡子は地面に座り込んだまま、身を乗り出す三人の姿をおずおずと見上げた。困ったのでとりあえず微笑んで見せたが、姉たちの険しい表情は相変わらずだったので、仕方なく再び俯いた。



 鏡子の父である浦安宮うらやすのみや額久ぬかひさ親王は、皇族きっての子沢山で知られる伏見宮の十二男であった。曲がりなりにもかつての世襲親王家の一端であったため粗略に扱われることはなかったが、早々に新たな宮家を作られ独立させられたのは、悪く言ってしまえばいてもいなくても大差ない存在ということだろう。公家から迎えられた妃との間に娘はあったが息子はおらず、皇族の養子禁止令が出された以上一代で絶えることの決まっている分家ではあったが、親王はまるで頓着してみせる様子もなかった。

 ともあれおおらかな親王の性格を反映してか、竹芝の屋敷は常に宮家らしからぬ賑やかな笑い声に満ちていた。長女は嫁いだとはいえしばしば里帰りにやってくるし、行かず後家の次女と出戻りの三女にまだ学生の四女が残っているとなれば、それも当然と言えたかもしれない。爛漫の花のような女王たちは、先進的で賑やかな浦安宮の象徴のような存在であった。

 「あらまぁ、みこちゃんってばまたやっちゃったの。ねこちゃんもよくつきあえるわよね」

 「きこ姉様、またではなくてよ。前はお釜の空ぶかし、それに比べたら灰神楽なんて可愛いものですわ」

 俯いて畳を突付いている張本人の鏡子を挟んで、二人の姉は賑やかに語り合う。四音を持つそれぞれの名前の下二音を取って互いを呼び合うのは幼い頃からの姉妹の慣わしで、それに従い鏡子かがみこは姉妹から「みこ」と呼ばれていた。ちなみに長女硴子みかきこは「きこ」、次女茜子あかねこは「ねこ」、四女の熾子さかえこは「えこ」となり、子供じみていると苦笑しながらも両親もまた未だにその呼び名を用いている。

 長女の硴子が嫁いだ公爵家はこの宮家に輪をかけた開明派であるらしく、しばしば硴子も洋装で身を固めて自分で四輪自動車を運転しながら里帰りにやってくる。一番母親に似ておっとりとした彼女が自動車を運転できるのか、と誰もが肝を冷やしたものだが、本人に言わせれば乗馬よりも易しいらしい。乗馬服に似たドレス姿で微笑む彼女は、薄紅の差した胡蝶蘭のような居住まいだった。

 片や茜子は普段通りの和装姿だが、髪型ばかりはおかっぱを通り越して当世風の断髪にしている。父に似て細かいことに拘らない彼女は、行かず後家との誹りにもめげずに家に残っているが、別に婿を取るつもりもないらしく、深窓の令嬢としては珍しいことにしばしば厨房に立って料理の腕を揮っている。頭から被った灰を払い落とした彼女は、さしずめ銀朱の山百合のような風情である。

 間に挟まれた鏡子は立場をなくして俯いた。茜子ほどの闊達さは微塵も持たず、かといって硴子ほど達観することもできず、姉妹の中で一番地味でつまらない気質だと自分でも情けなく思う。しばしば谷間の菫に擬えられる彼女は、身形も無難な和装に束髪となれば、ますます人目にも印象に残りにくいだろう。

 ふと硴子は不思議そうに首を傾げて鏡子を見遣り、それから茜子に向けて訊ねた。

 「ことに、どうしてみこちゃんは急にお台所に立とうと思われたの?」

 「白雲寺の伯父様が先だって縁談を持ってきて下すってね、みこちゃんに是非にって仰って、みこちゃんってばもう先様と顔まで合わせてきてしまって」

 「まあ素敵、どちらの方かしら」

 「わたくしも不躾ながらお名前は存じてなかったのだけど、ええと、竹内子爵とか仰ったかしら」

 「……竹中雅臣たけなかまさおみ男爵様です」

 ようやくおずおずと鏡子は口を挟んだ。二人の姉は驚いたような顔をしたが、それは返答の内容に対してではなく、大人しい鏡子が発言したことに対するものだろう。

 再び俯く鏡子を覗き込むようにしながら、茜子はそっと言った。

 「随分素敵な方だったらしくて、その後急にみこちゃんってばお料理を覚えたいと言い出しなすったの。それはもう、みこちゃんの良縁のためならわたくし一肌でも二肌でも脱ぐつもりでしたけど……もう少し覚えてからでないと、竹中様のお台所には立たせられないわね」

 耳まで真っ赤になる鏡子に、不思議そうに硴子は訊ねた。

 「あら、でもわたくしとて嫁いでからもほとんど賄に立ったことはなくてよ。竹中様は確かにお武家様らしく質素な方だったと存じているけれど、確か家督を継がれてからはご兄弟でずっと麹町にお住いだから、使用人ならおられるでしょうに」

 「きこ姉様、竹中様をご存知なのですか?」

 驚いて顔を上げる鏡子に、硴子は微笑む。

 「それはもう、白雲寺の伯父様のお気に入りですもの、わたくしも社交界でお目にかかったことくらいならね。そうね、伯父様とは正反対の真面目そうな方だったでしょう?」

 こくりと鏡子は頷いて、それから顔を伏せた。

 ――母方の伯父に帝劇での歌劇鑑賞へと誘われて、つい乗ってしまった自分を鏡子は今更ながら恥じた。まさか、日比谷のカッフェーでいきなり見知らぬ男と引き合わされ、そのまま二人きりで帝劇に送り出されるなど、誰が想像し得ただろう。断ると鏡子の不名誉だと思い先方も付き合ってくれたのだろうが、あの伯父に無理矢理押し切られていた様子だったから、本心は迷惑だったはずだ。

 仕事上の付き合いもあるだろうし、何より外務官僚だという先方が内閣総理まで務めた伯父の勧める縁談を断れるはずがない。ここは鏡子が気を回して遠回しに断らなければならなかったはずなのに、観劇の席で彼女は大変な失態を犯してしまった。その結果、先方を断ろうにも断れない事態に追い込んでしまったのである。

 「あら、あららららら……みこちゃんどうしたの」

 「きこ姉様、苛めすぎよ。みこちゃん、そんな泣くことないじゃないの」

 茜子の袖で頬を拭われながら鏡子は俯く。言葉にならない思いが全部涙になってしまうのは、昔からの困った癖だった。姉は顔を見合わせて、それから溜息を吐いた。彼女たちまでも振り回している自分が情けなくなり、鏡子は袖を噛んで涙を堪えた。



 鏡子は出戻りである。

 暇を出されたのではなく、先夫とは死別だった。元々、祝福された結婚ですらなかった。

 その結婚が決まったのは十年も前――中華との戦に勝ってひどく浮き足立った日本が、巨大な大陸に勢力を伸ばそうと日々画策しているような時代だった。既に西欧列国は古の体制を保ったままの帝国から租界や租借地と銘打った利権を毟り取っていて、日本も何とかその一角に参入しようと目を光らせている、そんな時節だった。

 中華の皇帝と日本の皇女との縁組を最初に提案したのが誰なのか、実は鏡子本人よく知らない。ただ、大時代な政略結婚の計画を明治の政府は着々と推し進め、年頃の姫君が数多の宮家の中から選び出されていった。何しろ鏡子の祖父は男女合わせて三十三の子を儲けていたから、選択肢に不自由はなかっただろう。

 最初に選ばれたのは、実は次姉の茜子だった。当時十六だった彼女は年齢的にも頃合で、おまけに活発で社交的な性格は当時の社交界でも評判だった。だが、情勢も安定しない遠い異国へ娘を嫁がせることに不安を覚えた両親は、伯父に密かに掛け合って早々に別件で婚約の話を進めてしまった。相手は海軍大尉に任じられた伯爵家の令息で、茜子どころか両親すら顔もろくに知らないような相手だったが、そのおかげで茜子は候補から外れることができた。

 だが、まさかそのお鉢が十一になったばかりの鏡子に回ってくるとは家族の誰も思わなかったに違いない。国が違うのだから若いうちに作法見習をつけてもらう方がよかろう、と、余りにも後付にしか見えない口実を言われたとき、鷹揚な父親王ですら屋敷ごと震えるような大声で怒鳴り、当時外務省にいた伯父も危うく辞職の一歩手前まで至ったという。蓋を開けてみれば、既に茜子が嫁ぐ方向で話を進めてしまっていた外交部の不備によるもので、つまり茜子が駄目になったからすぐ下の鏡子を代役に立てたという不手際極まりない話であった。両親も姉も――特に茜子など号泣しながら抵抗し、船出のときも輿入れなのか死出の旅立ちなのかわからないような有様だった。

 おまけに嫁いだ先の異国の皇帝には既に皇后と側室がおり、鏡子が後宮に入ってからももう一人彼女より若い娘が妃に迎えられていたりした。当時国内では外交問題にまで発展するか、というほどの騒ぎであったらしいのだが、鏡子の耳にはもはや入るよすがもなかった。

 結婚生活はそれでも不幸だったとは思わない。皇帝は大変穏やかで寛大な人柄で、まだ子どもも同然の鏡子とはついぞ本当の夫婦にはならなかったが、まるで優しい兄のように接してくれた。皇妃達も鏡子を大変可愛がってくれて、姉妹のように或いは古くからの友人のように親しく日々を過ごしていた。言葉の壁には難儀しそうだと思っていたが、皇妃の一人がひどく堪能な日本語を扱い、また鏡子も積極的に語学に勤しんだ。当時の中国では排外感情がかなり根強かったというが、九重の城壁で囲まれた宮城の内側ではそんなことも関係なく、夢のような日々を過ごしていた。

 そんな不思議で夢のような結婚生活は、僅か三年で幕を下ろされた。帝国で革命が起こり、京師に反乱軍がなだれ込んだのだった。鏡子の護衛として京師に置かれていた日本の師団は逸早く動き、彼女の身柄だけを保護して本国へ送還した。皇帝と皇后は反乱軍に殺され、皇妃や数多くの侍従たちは散り散りとなった。鏡子を口実に京師に据えられた日本の師団はその後も駐留を続け、中国北方に広大な勢力圏を作り出すに至った。

 ――その後の処理が原因で起こったロシアとの戦によって茜子の許婚が戦死し、彼女は結局嫁ぎそびれてしまうのだから、運命とはまさしく数奇で計り難いものだろう。

 かくして鏡子は出戻りの身として、茜子は行かず後家のまま、実家の宮に住まい続けていた。縁談で娘二人の運命を狂わされた親王がかなり慎重になっていたということもあるだろうが、ともあれ鏡子にとって今回の縁談はまさしく降って湧いた青天の霹靂であった。



 「伯父様も、みこちゃんのことが一番心配なんでしょうね」

 硴子は涙を拭う鏡子の背を撫でながら優しく告げる。

 「よかったじゃない、好い方だったのでしょう?」

 やっとの思いで頷き、それから鏡子は呟いた。

 「でも、順番で言えばねこ姉様の方がお先ですもの」

 「あらいやだ、みこちゃんってば仕返しのつもり?」

 「そうよ、ねこちゃんがお嫁に行かないのは、そのうち駆け落ちするつもりなだけなんだもの。みこちゃんとは関係ないのよ、あなたが気にすることないわ」

 冗談めかした口調だったが、鏡子は真に受けて顔を上げる。硴子は悪戯っぽく笑っていたが、目が合った瞬間に茜子はぱっと朱を散らす。あ、と鏡子は口許を掌で覆った。

 「……もしかして、賄い方の六さん?」

 「誰にも言っちゃ駄目よ」

 茜子の代わりに答えたのは硴子だった。灰神楽を省みず飛び込んできた若い板長の姿を思い浮かべ、思わず鏡子は口許を綻ばせる。茜子の料理上手に一人で納得していると、硴子は再び鏡子に目を向けた。

 「でも、ねこちゃんがお台所に立つのはともかく、みこちゃんはどうしてなのかしら。まさか、竹中男爵様がお料理をして欲しいと仰ったわけではないでしょう?」

 鏡子は俯く。事情を知っている茜子は苦笑したまま、妹の背中を突付くばかり。じっと黙っていれば容赦されるだろうかと思ったが、普段の鏡子のだんまりに慣れている姉の忍耐強さも半端ではなかった。遂に根負けして、鏡子はおずおずと重い口を開く。

 「……今度、ピクニックに誘われましたの」

 まあ、と硴子は嬉しそうな声を上げる。一度口火を切ってしまった以上、途中で止めさせてもらえるはずもなく、最後まで顛末を説明せざるを得なくなる。

 「それでお弁当……竹中様が妹様に頼んで作って頂くと仰って」

 「素敵ではないの。竹中様のお宅のお嬢様ってひで子様のことよね、あの方ならきっと喜んで仲を取り持って下さるわよ」

 「何を言ってるのきこ姉様、ちょっとそれって寂しくありません? 賄い方のお弁当ならともかく、妹様のお手をお煩わせするのも複雑ですし」

 「そういうものかしら」

 不思議そうに頬に手を当てる硴子と、眉を吊り上げる茜子の間で、鏡子は所在なさげに肩を窄めた。

 ――本当は、鏡子は再婚などしないつもりだった。

 実家に出戻ったとはいえ、鏡子は「中華の皇帝の元妃」であり、彼女の肩にはあの大陸の利権が圧し掛かっている。中国への駐屯軍は日本が用意した鏡子の嫁入道具で、中国東北の広大な植民地は手切れ金代わりに毟り取ってきたものだ。鏡子の意思に関わらず、彼女は滅びた帝国との繋がりを残し続ける生きた証のようなものだった。鏡子の使い方次第で、彼女の夫となる人物は大きな権力を手にし得る。それを警戒したからこそ、父は悉く持ち込まれる縁組を断り続け、伯父は再婚相手を厳選したのだろう。そしてあの伯父が選んだからには、竹中は十分信頼に足る青年に違いない。しかしそれは、扱い方次第で大変な火薬となる鏡子を封印するための、言わば犠牲だ。

 鏡子はそれを知られる前に断らなくてはならなかった。それなのに鏡子は、泣虫の鏡子は、歌劇を見ながら泣いてしまった。騙され殺される哀れな王の物語に先夫を思い出して泣いてしまい、心配してハンカチーフを差し出してくれた竹中に縋りつき、優しく頷いてくれる彼に全てを話してしまった。竹中が知ってしまえば断れなくなることに気付いていたはずなのに、あのときばかりはそれをすっかり忘れてしまった。

 思い出すと、再び涙が零れた。あらあら、と姉たちが覗き込む。

 「要するにみこちゃん、竹中男爵様のことが大好きになってしまったのね」

 顔から耳まで真っ赤に染めて、目元を袖で押さえながら鏡子はこくりと頷く。

 伯父に連れて行かれたカッフェーで一目見たときから、本当はひどく好ましいと思ってしまった。どこか先夫に似た穏やかそうな物腰を、けれど彼の持たなかった生真面目そうな表情の変化を、ずっと見詰めていたいと思ってしまった。だから迷惑をかけてはいけないと思った。そのためには縁組を断らなくてはいけなかった。本当は、その人の妻になってはいけなかった。もしどうしてもというのなら、今度こそ茜子に譲るつもりでいなければならないはずだった。

 鼻を啜る鏡子を覗き込んで、姉たちは微笑ましげに苦笑する。どうして笑うのだろう、と鏡子はいぶかしむ。不甲斐ない自分は一生に一度の大失態で、あの人にこんなにひどい迷惑をかけてしまっているのに。

 べそべそと涙を拭っていると、不意に前触れもなく障子が開く。軽やかな足音が高い天井に響いた。

 「ただいまー。あら、きこ姉様もお見えだったのね」

 「えこちゃんおかえりなさい」

 「お台所が凄いことになっていると思ったら、案の定またみこ姉様だったのね」

 涙を拭って鏡子は顔を上げる。見ると、開き掛けた障子に身体を預けた妹の熾子が、コルセットで締め上げた腰に片手を当てて佇んでいた。末妹が通う女学校は洋装が義務付けられているらしく、腰の後ろを高く掲げたバッスルドレスを鮮やかに着こなしているが、鏡子の到底真似できない華やかさを持つ彼女はさしずね喩えるならば真紅の薔薇だろう。

 ぐすりと鼻を啜った鏡子は、ふと目を見開く。熾子の肩越しに、洋装姿の男性が脱いだ帽子を胸元に当てて佇んでいるのが見えたのだった。

 「門の前にいらっしゃったの、みこ姉様へだと思ったから連れてきちゃった」

 屈託なく熾子は笑うが、鏡子は慌てて背筋を整えて顔をごしごしと擦る。もしかして先ほどの灰がまだ残っているかもしれない、と自分の頭をぱたぱたと叩いたら、束髪が壊れてぱさりと肩に髪の束が落ちてしまった。

 「あ、あの、申し訳ありません。出直して参ります」

 大方熾子に見付かって無理矢理連れ込まれたのだろう、所在なさげに佇んでいた男性はくるりと踵を返して、足早に廊下を立ち去ろうとする。鏡子は慌ててつんのめるように立ち上がり、障子の桟に片手を突いて廊下へ飛び出す。たん、と鋭い音を立てて障子が開いた。

 「あの、竹中様!」

 広い廊下の中程でこちらを振り向くのは、あの歌劇の夜に別れたきりの竹中雅臣だった。穏やかそうな目を大きく見開いた表情は、鏡子がその過去を暴露したときに見せたものとよく似ている。つまり、驚いたのだろう。

 「あ……か、鏡子女王、不躾ながら急に訪れてしまい申し訳ありません」

 「いえ、妹が失礼をしてしまい……」

 「あらみこ姉様、あたくしのせいにするおつもり? 毎晩夜空を見ては溜息ばかりおつきになっているの、まさかなかったとは言わせませんわよ」

 「えこちゃん!」

 顔から耳から首まで真っ赤になって鏡子は妹に叫ぶ。熾子は小さく舌を出して微笑むと、ひょいと部屋へ入ってしまう。どうしたものかと躊躇いながら、鏡子は俯いて竹中の方へ向き直った。

 「あの、それで竹中様……」

 「いえ、お電話かお手紙でも済む用件だったのですが」

 口篭りながら竹中は言葉を選ぶ。廊下で立ち話になっているということにも気付いていない様子で、彼もまた相当あがってしまっているようだった。

 「今度のピクニック、鏡子女王は和食と洋食のどちらがお好みか訊きそびれてしまったと思いまして」

 「え」

 鏡子は目を見開く。向かい合う竹中も真っ赤になって俯いた。

 「……弟妹にもせっつかれてしまい、ご迷惑も顧みずに申し訳ありません」

 「あの!」

 自分でも驚くほど大きな声を出してしまい、鏡子は口を抑えた。だが、一度言い出してしまったことは引っ込められない。やむを得ず、彼女は続ける。

 「……わたくし、サンドイッチが好きですの。チーズのサンドイッチが大好きですの」

 「あ」

 竹中は一瞬呆気に取られたような顔をする。だが、真っ赤な顔をした鏡子におずおずと目を向けて、それから彼は微笑んだ。鼓動が一瞬止まったような気がして、鏡子は息を呑む。

 「それはよかった。わたしも好きなんです」

 「まあ」

 「ベーコンとハムはお好きですか?」

 「ええ、大好きです」

 ぽう、とまどろむような眼差しで見上げる鏡子に、竹中は目を細めた。

 「鎌倉にチーズやハムの美味しい牧場があるんで、取り寄せておきます。よかった、わたし和食は不器用なのですが、サンドイッチなら得意なんです」

 え、と表情を取り落とす鏡子の前で、竹中は慌てて口を噤む。それから慌てて頭を巡らせると、言い捨てるように早口に呟いた。

 「す、すみませんお忙しいところを。またお便り致します、ではまた」

 「あ……」

 呆然と見送る鏡子の前で踵を返し、ほとんど駆け足で竹中は廊下を去ってゆく。引き止める言葉もわからないまま、鏡子はその場に立ち尽くしていた。

 「つまり、竹中様もみこちゃんがまんざらではなかったということでよろしいかしら」

 「そしてお弁当は竹中様ご本人のお手製ということみたいですわね、素敵なこと」

 「あらー……おまけにわざわざ会いに来て下すったってことですの。みこ姉様、ごちそうさま」

 障子の影から顔を覗かせた三人の姉妹の目前で、鏡子はぺたんとへたり込む。あらあらと次々に姉妹が近寄って突付いていると、鏡子は桜色に染まった指先を顔の前で合わせてぼんやりと呟いた。

 「……なきゃ」

 「みこちゃん? こらこらみこちゃん、早く戻っていらっしゃい」

 「サンドイッチ、竹中様お好きだって。……わたくしも覚えなきゃ」

 熱に浮かされたような口調で呟いた鏡子に、姉妹は顔を見合わせて、あらまあと驚嘆のような歓声のような声を次々に上げた。

 「いけないわ、六さんにお台所を死守して頂かないと」

 「みこ姉様、これ以上ご飯が食べられなくなるのはあたくしごめんでしてよ」

 「あらまあどうしましょう、それじゃあわたくしそろそろおいとましなくては」

 「まあきこ姉様ずるいわ、えこも今日はきこ姉様のお宅で夕餉を頂くわ」

 「お待ちなさいえこちゃん、わたくしを見捨てるの」

 きゃあきゃあと賑やかな囃し声の真ん中で、すっくと立ち上がった鏡子は真っ直ぐに台所を目指して歩き始める。もう俯いている場合でも、躊躇っている場合でもなかった。迷惑を掛けることが免れられないのなら、それを覆す何かを身につけてゆけばいい。

 「ご迷惑をおかけするのは承知の上ですわ。わたくし、覚悟を決めました」

 「待って頂戴みこちゃん、後生だから堪忍して」

 「みこ姉様が覚悟したって、あたくしたちのお腹はまだ覚悟できていなくってよ」

 悲鳴のような姉妹の声を振り切り、廊下を下りながら鏡子は強く首を振った。首周りで揺れる髪をばさりと束ね、緩みかけた襷を今一度締め直す。

 断る機会は、その気になれば今までの間に作れたはずだ。迷って悩んで決断を引き伸ばしていたわけではない、どうしてもそうすることができなかったのだ。

 そしてもう引き返せるところにいない。それなら、ただ前に進むだけだ。




「本当に輝いている?」

「顔を上げないと、輝いているかもわかりませんわね」

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