皇帝の権威

 灯篭の明かりを下げていても、眼前に広がる庭園は一瞬躊躇するほど暗かった。吐息も凍りそうな闇夜に足を竦ませながら、それでも彼が踏み出したのは、それを依頼したのが他ならぬマダム・イーグルであったからだった。思慕してやまぬ美しい皇妃に頼まれて、横に振れる首を彼は持ち合わせていない。抗う術もなく彼は一人、闇に覆われた冬枯れの庭園に、彼女の夫を探して分け入った。

 あぁあ、と吐き出した溜息が灯篭の光線を含んで白く揺れる。更夜になっても屋内へ戻らない不良皇帝の捜索など、いわば雑用の仕事なのだが、居候の彼に皇妃たちは容赦も躊躇も遠慮の欠片すらも見せようとしない。実際、皇帝と未成年の皇子と宦官以外の一切の男子を禁じる後宮に居住を許されたのは、事情があったとは言えどもとてつもないことに違いない。とはいえその扱いを皇帝にも皇子にも準拠させるわけにはいかないのだから、いきおい彼が使用人扱いを受けるのも至極当然のことではあるのだが、やはり霜を吹き散らす寒風に晒されるとどこか腑に落ちないものはあった。そもそも、こんな月も出ない寒空の下で自宅の庭をほっつき歩いている皇帝に対して、一言二言申し立てたい不平は燻っている。

 通路沿いに敷き詰められた石畳をわざと外れると、寒さ避けの藁で覆われた花木の根元で、霜柱を立てた土がしゃりしゃりと微かな音を立てた。力を篭めるとざりりと足の沈む感触が面白く、薄明かりの下でわざと足跡を残している内にふと彼のものではない靴跡を見つけた。

 「アーサー」

 名前を呼ばれて顔を上げると、少し離れた花木の向こう側の四阿から身を乗り出して、つやつや光る黒貂の毛皮を着込んだ男が手を振っているのが見えた。無邪気な笑みを浮かべた端整な面差しに、これ見よがしに肩を竦めてアーサーは大股に歩み寄る。ざくざくと霜の崩れる心地よい音が響いた。

 丹塗りの四阿あずまやの手摺の下に立ち、アーサーは灯篭の光をぐいと目の前の男に押し付けた。そしてきょとんと瞬く彼に灯篭を押し付け、腕を組む。自分と年はそう変わらないはずなのに、時々ひどく幼く見えるこの青年が、自分の敬愛してやまない唯一の女性の夫であるという事実に、アーサーは軽い眩暈を覚えた。

 「こんなとこで何やってんだ。マダム・イーグルが探してたぞ」

 わざと厳しく言い放ったはずなのに、温かい灯篭の光で照らされた青年の顔は嬉しそうに綻んでいた。まさか彼が大中華を統べる皇帝だなど、何度聞いても悪趣味な冗談にしか思えない。

 皇帝は屈託なく微笑みながら、胸元に灯篭を引き寄せる。

 「ちょうどよかった。お前様は星は好きか? わたしは好きだ」

 「星?」

 怪訝そうに首を傾げるアーサーの眼前で、徐に灯篭の蓋を指先で摘み上げた皇帝は、その中へ息を吹き込んだ。蝋燭の燃え尽きる微かな匂いが漂い、緞帳を落としたように辺りに闇が降りてくる。

 「ほら、光を落とせばよく見える」

 やれやれとアーサーは肩を窄めた。急に闇の中に叩き込まれて足元も覚束なかったが、手摺を伝って向きを変えると、見上げた軒の先にちらちらと明るい星が瞬いているのがわかった。目を凝らすうちに、次第に見える星が増えてゆく。

 「ああ、本当だ。さすが見晴らしはいいなあ」

 後宮の最深部にあるこの庭園は、その広さも生半なものではない。まして平屋の建物ばかりが軒を連ねる広大な宮城の中ともなれば、その星空を遮るものは四阿の僅かな軒以外に何もなかった。

 皇帝が満足げに頷く仕草すら、星明りで見分けられるようだった。

 「黄沙が来ると星どころか月も見えなくなるから、今のうちに楽しむのがよい」

 「そういうものなのかなあ」

 「そういうものだとわたしは思う」

 晩秋に京師へ赴任したばかりのアーサーは、名に聞く黄沙の凄まじさをまだ体験したことがない。だが、わざわざ毛皮の襖を着込んで一人寒空の下で夜空を見上げている皇帝を思うと、妙にほだされるものがあった。マダム・イーグルの命令は絶対だが、厳格な期限を定められた任務でなかったことを思い出し、彼は四阿の手摺を手繰りながら上り口を探った。

 「まあいっか。ちょっと東洋式の星座ってのを教えてもらうのも一興かな」

 手探りで入り込んだ四阿は正確な方形で、黒い毛皮を着込んでいる皇帝を一瞬見失いそうになったものの、ゆらゆら揺れる白い掌に招かれて、その隣に腰を下ろした。なるほど、座ると丁度北天の星辰がよく見える。

 「北斗七星発見」

 アーサーが指差した先に目を凝らし、皇帝は頷いた。

 「ああ、魁星か」

 「科挙の神様なんだっけ?」

 どこかで聞いた知識を零すと、驚いたように皇帝は声を弾ませた。

 「詳しいな。そうだ、状元――首席合格者の頭上に印をつけるために筆を構えている姿勢なのだ」

 スプーン型の星座だ、と幼い頃に教えられて以来それ以外の見方を知らなかったアーサーにとって、その解釈は斬新だった。だが、柄杓形に七つ並んだ星を人の形に見立てるには、もう一息の想像力が必要に思われた。

 「そりゃまた随分大きく振り被ってるなあ」

 「それだけの大事ということだ」

 もっともらしく頷く皇帝に、アーサーは苦笑する。あるいはその仕草すら冗談なのだろう、皇帝はふと意味深げに肩を落としてみせた。軽く首を傾げ、アーサーは指先で星の並びをなぞる。北斗の星を見つけたら、見つけずにはいられない北天の一つ星を探す。

 「北斗七星があれだとしたら、左のあれが北極星か。あんたの星だろ」

 天上で不動の地位にある北極星が地上でいするぐことのない皇帝を意味する、という故事は、はじめて聞いたときから妙に印象に残っていた。アーサーの方を向き直り、皇帝は感心したような声を出す。

 「本当に詳しいな、星座は東西で異なるのではなかったか?」

 「ロマンだもん。全天で動かない唯一の星が、天下で揺るがない唯一の天子ってことだろ、なかなかかっこいいじゃないか」

 思わず白い息を弾ませるアーサーに、皇帝は物柔らかな眼差しを注いだ。

 「それならわたしもかっこいいと思うが、残念ながら少しずれているのだ。北極星から四番目、あの星が天帝なのだそうだ」

 皇帝の白い指がそっと星の並びを撫でるのを眺め、アーサーは瞬く。何となく肩透かしを食らったような気分だった。

 「へえ、妙なの。北極星から随分遠くない?」

 「仕方あるまい、星座が定まった頃にはあの天帝星が北極星だったのだ」

 ああ、と声を上げて得心すると、隣で満足げに皇帝は頷いた。なるほど、不変とも思える北極星も、千年の単位で見れば静かにその座を譲り合っている。古い記録に典拠を求めるならば、そうした現象も起こるのだろう。

 「そんでもって、その頃から中華には皇帝がいたってことか」

 「そうだとも。天帝が北極から離れて久しいのだ、わたしの権威が衰えるのも道理といったものだろう」

 「もっともだな」

 取りようによっては自虐的な言葉だったが、何の衒いもなく皇帝が言ってのけたので、アーサーも素直に同意した。星すらその座を譲る期間、彼の置かれている皇帝という地位は存続したのだ。些少な制度の変革が繰り返されたとはいえ、破綻が出るには十分すぎる時間と言えるだろう。

 しばらく黙って星の配置を眺め、知っている星座の名前を羅列した後、徐にアーサーは星を見たまま呟いた。

 「んで、北極を辞した天帝は、どうするつもりなんだ?」

 意味を捉えかねたのだろう、皇帝がこちらに向き直る気配がした。横目で覗いた白面は、星明りで微かに小首を傾げていた。

 「どうというと?」

 アーサーは手袋をはめたまま組んだ両手を項に当てる。冷えた指にじわりと暖が灯った。

 「あんたの計画は今のところ上手く進んでる。あんたがマダムに育てさせてる人材も使えるようになってきて、学生たちの間では色んな改革論が唱えられてる。王朝の廃止を求める声もそろそろ高まってきてるし、ここまできたらもう待ってるだけであんたの天下は終わるぜ」

 「うむ、予定通りだな」

 素直に頷く皇帝を見て、アーサーは苦笑した。

 己の政治的無能を公言して憚らないこの皇帝は、政策のほとんどをマダム・イーグルと称される己の皇妃に一任している。妃摂政という俗称は彼女の才覚と同時に、皇帝の無能を揶揄する呼称であるはずなのだが、彼はそれに一切頓着する様子を見せない。言論の弾圧も緩め、皇帝権威を脅かすはずの西洋政治学の流入にも無関心といえるほど寛容、宮中財政の大幅な縮小をおくびにも出さず鷹揚に構えている彼を見ていると、この国が置かれている状況をともすれば忘れそうになる。

 中華帝国の皇帝が無条件に世界の元勲でありえた時代は、一世紀も昔に崩れ去った。力を蓄えた列強諸国は利権をめぐって中華の広大な領土と人民を狙い、特に差し迫った危機に見舞われた南方諸地域はもはや皇帝を見限り、今や独自の勢力を築いている。この年若い皇帝が即位したとき、その権威が及ぶ範囲はもはや京師の周りのごく限られた空間に過ぎなかった。

 ある意味で彼は、この状況を最も冷静に眺めていた人物かもしれない。己が為すべき策を何も持たないことを早々に見極め、才覚を持つ人物を探し出して全てを押し付けるのは、無責任ではあるが純粋に国のためを思うのであれば善策には違いなかった。ましてその相手が女性であったところを思えば、なかなかどうして果断な人物なのだろう。

 とは言え、とアーサーは肩を竦めた。

 「言っちゃ悪いがあんたが今更皇帝以外に何か職を見つけられるとも思えない。個人的な友人としての立場から言わせてもらえば、もう少し他に方法があるんじゃないかと思うんだ」

 「それはありがたい。わたしを友と呼んでくれるのはお前様くらいだ」

 皇帝は、まさしくそれ以外の地位が似合わない優美な笑みを見せた。調子を狂わされるのを感じながら、アーサーは続ける。

 「まあ、今みたいな絶対君主制があんたに向いてるとは全然思えないし、実際ほとんどの仕事をマダムに丸投げしてるところを見ると複雑なんだが……例えば我らが栄光の大英帝国みたいな立憲君主制って方法もないわけじゃないと思うんだ」

 己を無能と呼ばわりながら、この皇帝も存外勉強そのものについては好きな性質だった。あれこれ皇帝が西欧式の政治制度を訊ねるものだから、表向きアーサーの肩書は天子の家庭教師となっていたりする。とはいえ政談を持ち出すには気安すぎたか、とアーサーはうっかり唇を舐めたが、皇帝はしかつめらしい顔で頷いた。

 「要するに、官と法にわたしの権限を代行させるということか」

 「まあ皇帝としてはお飾りみたいになるわけだが、全く存在に意味がないわけじゃない。国家を象徴して、国民の心を纏めるための偶像として鎮座するって感じかなあ」

 自分で言い出しておきながら、それはこのおっとりとした青年に妙に似つかわしい姿のように思えた。北極星はただ北天の中心にあるだけでいい、全天の星を巡らせるのは地球の自転の働きなのだ。

 少し考え込むような仕草をして、それから皇帝はぽつりと呟いた。

 「過去にほんの一時期だが行われたことがあったそうだ」

 「立憲制をか?」

 瞬いて訊き返すアーサーに、静かに皇帝は頷いた。

 「厳密にそう呼べるものではないだろうし、おまけに僅かな期間だったがな。閣議でそう決まったものの肝心の皇帝が数年で亡くなり、幼い太子が即位する際に皇太后が官から権限を奪い返したので、実質十年も持たなかったはずだ」

 「ありゃあ。そりゃ難儀なことだ」

 近代化の過渡期にはいかにもありえそうな話で、思わずアーサーは肩を竦めた。隣で肩を窄め、皇帝は苦笑した。

 「実に難儀だったそうだ。その十年で国内は荒れるだけ荒れ、皇太后は実に十年がかりで国土を立て直したらしい」

 意外な顛末にアーサーは瞬いた。

 「あれ、そっち?」

 「皇太后が悪役だと思ったか」

 「うん、まあちょっとね」

 素直に答えると、皇帝はくすりと笑う。ちょっと単純だったか、と顎を指先で摘んでいると、皇帝は口許に掌を翳して白い息を吐き掛けながら静かに告げた。

 「改めて考えれば、単純な話だ。この国は科挙によって任官が決まる、つまり自分の子が官職につける保証はどこにもない。なれば皇帝の権限を手に入れた官は、まず己の為にそれを用いて財と権威を蓄えるのだ。仮に十年先に王朝が倒れようとも、次の王朝が建てばそれにつけばよい、仕官せずとも十分な蓄えがあればそれなりに暮らしてゆけるとなれば、まず目先の己の利益が最も優先すべきものなのだ」

 穏やかな口振りではあるが、存外に冷ややかな声音だった。言葉よりその口調に驚いて、アーサーは目を上げた。

 「……そういうものなの?」

 「世襲で地位を継承するのは原則として皇帝だけだからな。愚行を行えば、己でなければ可愛い我が子にその報いが返ってくる。それを防ごうと思えば、百年先を見据えた政策も捻り出さねばならなくなるというわけだ」

 言い終わると皇帝は再び掲げた掌に息を吐き、それから指先を擦り合わせた。女のように細い指先が闇の中でひらひらと閃いて見えた。少し考え込んで、アーサーは得心する。

 「なるほど。つまり立憲制を導入したければ、まず百年先を見据えて行動できる人材を育てる必要から出てくるわけだ」

 「そして、ともすれば分裂しやすい黎明期に彼らを結束させようと思えば、わかりやすい昏君の偶像をぶら下げるのが一番手早いのだよ」

 国家の抱えるいかなる課題のどれよりも切実で、かつ解決し難い問題を前に、ひょいと皇帝は両掌を掲げて見せた。国土の収奪や列強の干渉、軍事力の不足など差し迫った問題は他にも数多いが、その全てに先行すべき課題をこの国はまだ解決していない。無能を自認する彼にとっておそらく唯一なし得る能動的な解決策が、自ら進んで悪役となることなのだろう。

 寒空の下で星を見ながら一人きりでそんなことを思っていたのか、と思えば知らずに憐憫の情も涌いた。

 「あんたも難儀な奴だなあ」

 「まあいい、玉座を退いたら皇后と清藍樹を連れて、のんびりと放浪でもすることにするよ。天帝もきっと、北極に縛り付けられているときよりも今の方が楽しいだろう」

 開き直ったような明るい口振りを皇帝はアーサーに向けた。本心なのか捉えかね、アーサーは彼の顔をまじまじと覗き込む。

 「他の妃はどうするんだ」

 皇帝は皇后と妃摂政の他に、まだ年若い二人の妃がある。実態の伴う夫婦かはともかく、彼女たちが皇帝を慕っていることには間違いない。だが、皇帝はこともなげに呟いた。

 「わたしに蓄妾する甲斐性はないよ、彼女たちの自由に任せるしかあるまい」

 大きく一度瞬き、アーサーは身を乗り出す。過去にも何度か軽口で叩いたことのある依頼を、今一度彼は口にした。

 「それならマダムをおれにくれよ」

 「あれがそう望むのならね」

 そして皇帝は過去の全てと同じ軽い調子でそれを受け流した。本気に取っていないようにも思えるし、逆に彼ならばアーサーとマダム・イーグルの二人がそう望むならあっさり叶えてくれそうな気もする。

 アーサーは身を乗り出して皇帝の顔を覗き込み、それから空を指差した。

 「いいじゃないか。せっかくだからおれの祖国に案内するよ、おれの育ったカントリーハウスは辺鄙なところにあるけど、星だけはとびきり綺麗によく見える」

 明るい色の瞳で覗き込まれ、面食らったように何度か瞬いた後、皇帝はふとくすくすと笑った。

 「それは楽しそうだな」

 「楽しいぞ。この国の黎明が明けたら、后と太子を引き連れて西の空に沈んでしまえ。仕事がないなら庭師にでも雇ってやるさ、面白おかしくみんなで暮らそうじゃないか」

 「それはいいな、そうしようか」

 やはり本気とも冗談とも取れない笑顔で皇帝は頷いた。

 と、そのとき不意に遠く背後でよく通る女の声で呼びつけられているのを二人は聞いた。慌てて顔を見合わせて耳を凝らすと、女の声は他ならぬ二人の名を呼びつけている。しまった、とアーサーは声を上げた。

 「やばい、マダムにどやされる」

 「やれやれ、鬨を作る雌鶏は男勝りだな。夜明けまではまだあろうに、容赦がない」

 「あ、しまった灯篭あんたに消されたんだ」

 「仕方あるまい、星明りで迷ったことにしよう」

 皇帝は黒貂の襖を掻き合わせながら背中を丸めて立ち上がる。手探りで灯篭を拾い上げたアーサーは、ぼんやりと星屑を反射する丹塗りの手摺に縋り、爪先で小さな石段を探った。その間にも二人を呼ぶ鋭い声は近付いてくる。

 花園を躓きつつ渡りながら、二人は小声で軽口を叩き合った。

 ――見上げれば、河漢は声無く天は正青、三三五五満天の星。




「玉座が牢獄にあるとしても?」

「それでもわたしのある場所が、世界の中心になってしまうのだからねえ」

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