法王の憂鬱
長身の青年は、洋間の扉を潜るなり深々と腰を折った。改まるつもりなど少しもなかったのに、相手の慇懃な仕草に少し機嫌を損ね、呼びつけた張本人はぷいと顔をそむける。困ったように苦笑して、青年は機嫌を伺うように口を開く。
「
「
椅子から立ち上がりもせず、藤原公一郎は腕を組んでねめつけた。いかにも公家らしいその幼名は、成人してまず一番初めに捨てたものだった。やや大人気ないその言い草に、青年はくすりと微笑んで会釈する。
「すみません」
ほんの二つ違いのくせに妙に老成したその言い草は気に食わなかったが、その原因の一端を担ってしまっただけに、公一郎には為す術がない。やむを得ず座上から振り仰いで彼は青年の白面を見上げた。いつもいつも呼びつけるときにはろくでもない用事ばかりだから、今回もなぜ招かれたのかわかっていないのだろう、青年はきょとんとした無邪気な顔でこちらを見ていた。
こほん、とわざとらしく咳払いして、公一郎は尋ねる。
「ところで、この間の話は考えてくれたんだろうな。おれが言うのも何だが、なかなか悪い話ではないだろう」
ああ、と青年は困ったように声を上げる。やはりな、と公一郎は返答を確信しながら、それでも目を注いだ。何度も躊躇い、ようやくと言った風で青年は答える。
「それなのですが、申し訳ありません。やはり、まだ目立った行いは謹む方がよいかと」
「あほをぬかせ。女を一人や二人抱えたくらいで誰が咎める。第一、
はあ、と青年は言葉を持て余したように俯いた。言い過ぎたかと思いながら公一郎は、どことなく風采の上がらないこの武家の青年を見遣った。
この青年――
ともあれ、早くから幕軍につくという国元の決定は伝わっていたのだろう。開戦前夜、進退窮まった鹿瀬藩屋敷の老臣が転がり込んだ先は、よりによって有力公家である公一郎の実家だった。せめて平士郎一人だけでも助けたい、との涙ながらの訴えに動かされた公一郎の父は、既に養子先で家督を継いでいた公一郎に鹿瀬藩の若君を匿わせたのだった。当の公一郎はそもそも朝廷の臣下たる公家だから、お勤めとして東北へ参謀として派遣されてみたりもしたのだが、それとは全く別の次元の問題で平士郎のことは気に入っていた。
一見すればひょろりとした長身の優男なのだが、溝口派一刀流の免許皆伝という話で、刀を持たせれば頗る強い。にも拘らずその腕前をひけらかしもせず、よく躾の行き届いた犬のように忍耐を知っていた。居候の身で勝手に犬猫を拾ってくるのには閉口したが、公一郎の我侭に泣き言一つ言わず付き合ってくれる平士郎を私的な従者としても重宝して、遂には京都から東京へ居を移す際にも連れてきたのだった。
何より公一郎は、一度たりとも平士郎が泣いたところを見たことがない。救命歎願を行った老臣が国元への忠義を立てて腹を切ったときも鮮やかに介錯を行ったし、一族郎党の壊滅が伝えられたときもほとんど取り乱すことはなかった。鬱陶しいほど聞かされていた家族の思い出話はそれを汐に一切なくなったが、少なくとも表向きは怨詛を引き摺るような素振も見せない。公一郎は決して大人しい気質ではないが、それでも平士郎にならば討たれてもいいような気がしていた。何しろここまで顔に出なければ直前まで殺意に気付かないだろうし、あの鮮やかな刀で斬られたら傷みを知る前に絶命できるだろう。
だが、と思いながら公一郎は、困惑した平士郎の顔を不服げに見上げる。表に見せない部分で過去を引き摺ることには一向に頓着しないのだが、平士郎はよりによって一番忌々しき問題を引き摺っている。仕方ないとはわかっているのだが、どうしても公一郎はそれを許すわけには行かなかった。
「何だ、お前は未だに生き別れの女房を探しているのか」
「いえ、別にそういうつもりもないのですが……」
平士郎の言葉に僅かに訛りが混じった。図星なのだろう、抜かりのない彼がうろたえたときのいつもの癖だ。公一郎は眉をひそめる。
「生きているかどうかもわからんのだろう。維新前に決まったことなんか、全てご破算だ。第一、顔も覚えていないのに探し出せるほど世の中の女は少なくない、お前だって思い知ったんじゃないのか」
「それはそうなのですけど……」
やや頬を赤らめ、平士郎は口篭る。
東北に限ったことではないが、昨今では国の体制が大きく変わったために没落した士族が決して少なくない。まして朝敵となった会津以北では、身寄りをなくして苦界に身を沈めた娘も数知れない。花街通いは公一郎の道楽の一つだが、このところ銀座界隈の金春芸者の中には、それなりの家から出たと思われる娘がちらほらと見受けられた。それと時期を前後して、すこぶるつきの晩熟であるはずの平士郎が置屋に出入りし始めたことに、気付かないほど公一郎も鈍くはなかった。
京に来る直前、支藩を継ぐために平士郎は慌しく祝言を挙げていた。とはいえほとんど形だけのものに等しく、花嫁の顔すらろくに眺めない内に彼は京に発ったという。大名の妻子は江戸に置かれるのが通例だが、国元への返却が許可されたばかりの時期とあって、平士郎は新妻を国へ残してきていた。女どもがことごとく自害して果てたという中で、よもや生き延びているとも思えないが、未だに平士郎は妻を諦め切れていないらしい。
やがてぶつぶつと一人ごちるように、平士郎は呟いた。
「公一郎様こそ、未だにお独りではありませんか」
「おれはいいんだ、おれが身を固めたら泣く女が多すぎる」
適当に受け流し、公一郎は机に手を突くと徐に立ち上がった。数歩を隔ててなお見上げなければならないほどの長身を窄め、平士郎は遂に足元に目を落としてしまった。溜息を落とし、公一郎は微かに首を傾げた。
「何だ。今日日、操でも奉げねばならんとでも思ってるのか」
ようやく、平士郎は微かに首を振った。散切り頭がしゃらしゃらと微かな音を立てて揺れた。
「……彼女が生きているのなら、一度交わした契りを無断で反故にはできません。万一亡くなっているのであれば、わたしは夫ですから、せめて菩提を弔ってやらなければならないでしょう」
穏やかで口数の少ない彼にしては珍しく、はっきりと断言したので少しだけ公一郎は驚いた。それで少し躊躇ったが、それでも彼は歩幅を寄せるときっかりと平士郎を振り仰ぐ。
「そんなことを言っても、その名しか手掛りのないのなら探しようがあるまい。そもそも朝敵の女など十に一二生き延びたところで、苦界にでも落ちていれば、曲がりなりにも華族に名を連ねるお前とつりあうものか。それでもお前はもう一度妻にできるのか」
ようやく平士郎は顔を上げる。普段の、面倒見のよい兄のような物腰ではなく、むしろ正対する一人の男としてのその成りに公一郎は目を見開く。
「それは彼女の咎ではありません。好きで売られてゆく女など、いるはずがありません。わたし達が不甲斐なかったからがゆえのこと、詫びねばならぬのはこちらの方ですから。そんなことより、生きてさえいてくれたのならば、そのことを責める方がおかしな話です」
それから、差し出がましいことを言ったとでも言うように軽く頭を下げた。その様子に肩を竦め、言い捨てるように公一郎は呟く。少しだけ平士郎は笑った。
「物好きめ」
「公一郎様こそ、わたしなどに構っている場合でもありますまいに。留学の準備はいいのですか?」
公一郎は小さく舌を打つ。だからこそせっついているのだ、と内心で毒づきながら青年の長身を見上げた。維新後の政府の方針を定めよと、官費留学生に推薦されたのは素直に誇らしいことだが、期限のわからない海外への旅立ちを控えた今になって、この友人が不安で仕方ない。まさかそんなことを恩着せがましく口にするわけにもいかず、やきもきと公一郎は顔をそむけた。
「おれはいいんだ。平士郎、今はお前の話をしているんだ」
ふと、くすくすと平士郎の抑えた笑い声が聞こえた。怪訝そうに振り返り、公一郎は顔を顰めた。
「何がおかしい」
「公一郎様、わたしもとうに名前を改めているのですが」
控えめにそう告げる平士郎の笑顔に、公一郎は肩をそびやかした。それくらい知っている。国元の藩主が亡くなった直後、急遽名を改めさせられた騒動は今も記憶に新しい。
「それでも平士郎は平士郎だ」
ただ、新しい名前がどうしても公一郎は気に食わなかった。彼の一存でどうにかなるものではなかったが、
待合茶屋のあがり
「美麿さん、お待たせしまして」
「公一郎だ。いつまでも子ども扱いするんじゃない」
「まあ、堪忍」
わざと拗ねたようにそう言うと、彼女は優雅に笑う。他の若い半玉と比べると幾らかとうが立っている印象もないではなかったが、一度聞き出した身の上を合わせて考えれば無理もない話だろう。むしろ努めて苦労を顔に出さぬよう努力しているのだろうと思えば、ひとしおに愛着も湧くものだった。
無粋とは知りつつも、いきなり雪輪模様の袖を引いて公一郎は彼女を席に呼んだ。男衆に三味線を置くよう袖を払い、女はたおやかに腰を下ろす。酌を取る彼女に、公一郎は顔を向けた。
「ところで、身請けの話は考えてくれたのか。身寄りも年季もないならば、いつまでもそうしているわけにもいくまい」
芸そのものに取り立てたところがある訳でもなく、器量がずば抜けてよい訳でもなければ、今一つ気がきく訳でもない。よくある没落した武家の娘のなれの果てのようなこの女を、しかし公一郎は妙に気に入っていた。彼女の持つ独得の浮世離れした気配が、昼間張り詰めてきた神経を弛緩させるのによいのだろう、と勝手に思い込むことにしている。
「……そのお話なら、公一郎さんの留学でお流れになっちまったんじゃあなくって? それに公一郎さんは、お内儀さんもまだ居られないでしょうに」
「だから言っただろう、おれじゃなくておれの友人に紹介してやるんだ。おれと違って真面目な男だぞ」
「ええ、ええ。真面目な公一郎さんのお友達ざますからね」
訛りを隠す、少し無理のある江戸言葉は余り似合っている風でもなかったが、色白の面で微笑まれるといつもつい公一郎は言葉を飲んでしまう。
「それとも、まだ亭主を忘れられんか。顔もろくに覚えていないだろうに」
まあ、とわざとらしく声を上げて彼女は袖で顔を覆った。
この見るからに大人しそうな半玉芸者は、酒にもすこぶる弱い。馴染になったばかりの頃、口数の多くない彼女が饒舌になるのを面白がって飲ませている内に、公一郎は聞くつもりもなかった彼女の生い立ちを引き出してしまったのだった。
どうも彼女は、先の戦で散々に打ち負かされた会津の方の出自のようだった。没落した士族の娘にしては歳が行っていると思っていたところ、どうやら一度嫁いだこともあるらしい。京の藩屋敷に赴任が決まっていた夫は、祝言の後三日とたたずに京へと上洛していったきりで、やがて京も東北も激しい戦の舞台となり、それきり消息が絶えてしまったのだという。ほとんど夫の顔も見ないまま一族郎党も皆死に絶え、身寄りもないまま流転する内に拐かされて、遂には場末の芸者に身を落としたのだと、切れ切れの彼女の言葉を繋いで公一郎はようように把握していた。
彼女本人のおっとりとした物腰は嫌いではない。だがむしろ、そんな彼女の恐らくは語りたくもないであろう過去をいたずらに引き出してしまった後ろめたさが、公一郎の執心を煽った。
少し躊躇ってみせた後、馴染みの気安さだろう、彼女は予想外に屈託なく答えた。
「まあ……もともとちっちゃい頃から決まってたお相手だもの、とても忘れられませんことよ」
「相手は忘れているかもしれんだろう」
「それでしたらよくってよ。あたくしが覚えていればいいお話ですわ」
口に出してから、失言だったかと悔んだが、存外気にする様子もなく彼女は微笑んでみせた。或いは、そう受け流すことで自分の中の折り合いをつけているのかもしれない。
「そうやって、一生引き摺るつもりなのか。芸者の身も自由ではあるまいに」
労わるようにそう呟くと、女は少し俯いた。際立った傾城ではないのだが、横顔の愁いを帯びた目許は涼しげで、そうしてみると不思議な色気があった。心底すまなそうに、それでも毅然と彼女は告げる。
「……それでも、これはあたくしの気の問題ですもの。あのお方が息災なら、できるもんなら一目お会いしたいものではなくって? もし万一亡くなっちまったのなら、せめてちゃんとお手を合わさしてもらわないと」
思わず公一郎は苦笑する。その意味も知らず、きょとんと女は細い首を傾げた。残酷だとは思いつつ、彼は小さな彼女の顎を摘む。
「そうは言っても、あの戦で生き残った男など十に一つもあるまい。よしんば生き残ったところで、藩主であれば今頃は華族だから、まさか大手を振ってお前を迎えることもできまい。そもそもあの戦とて、元はといえば男達の身勝手な意地の張り合いだ。巻き込まれて翻弄されて、恨みに思うことはないのか」
公儀で向かったあの戦場の惨状は、今でも公一郎の脳裏に焼き付いている。戦闘は市街にまで及び、領民に至るまでが官軍に向かっては倒された。彼らの姿の一つ一つが寡黙な友と重なって見え、彼に抱くのと同様の畏怖を思い起こさせた。そして一連の戦が単なる私闘ではなく、国家のあり方と行く末を定めるべきものであると確信し、徹底抗戦を提案したのは他ならぬ公一郎だった。私情を捨て、朝廷の臣下として下したその判断そのものは今でも間違っていたとは思わない。だが、打ち破ったものと滅ぼされたもののどちらが正しかったのか、実際のところ今も公一郎にはよくわからない。
彼の心中の葛藤を見て取ったように、女は一度目を伏せる。それから膝を改めてそろえると、長い睫毛を押し上げて真っ直ぐに彼の目を見上げた。
「でもって、好き好んで血を流す人なんておられなくってよ。どうしたって抜き差しならない理由があっちまったなら、それを責めるのはずいぶんなこと。あたくしだってこんなになっちまったけど、死んでしまったらおしまい。たった一つのお命ですもの、それを守ったことを恥じることだけはできなくってよ」
堪らず公一郎は吹き出した。それから、不思議そうに瞬く彼女の鬢を指で梳く。
「物好きだな」
「公一郎さんこそ、あたくしで遊んでいる場合ではございませんでしょう? 来てくだすったのは嬉しいけど、留学の用意はおすみで?」
人の気も知らずに、と公一郎は指先で女の唇を塞いだ。一度国を発てば、恐らく数年は戻れなくなる。そうなる前に、せめて解れた二本の糸を縁り合わせてやりたいのだ、と咽喉元まで出掛かった言葉を済んでのところで飲み込んだ。
「おれはいいんだ。お
ふと、ころころと女は笑った。袖口で小さな口許を覆う優雅な笑みに、公一郎は怪訝そうに尋ねる。
「何がおかしい」
「公一郎さんに言うんじゃなかった、あたくしの本名」
公一郎は、拗ねたように軽く肩を竦めた。
「別によかろう」
ただ、彼女の夫が呼ばないだろうその名を口に出すのは、なぜだか憚られる気がしただけだ。
「差し伸べた手をなぜ振り払うのか」
「どいつもこいつも晩熟ばかりだ。人の気も知らないで」
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