甘い節制

 美麿よしまろは家業の琵琶が嫌いだった。

 家督を継ぐためにもらわれていった白雲寺はくうんじの家は、清廉を絵に画いたような貧乏公家だった。だがそれは生家も変わらず、むしろ次男に生まれていた分だけ、早くに養子先が決まったのは幸運と言えた。養母は美麿の叔母にあたる未亡人で、病弱で早くに亡くなったが大層優しかった。養子先は生家のほんの近所だから、典礼の際には実家の父が後ろ楯になってくれたし、友人や兄弟とのつきあいにも不便はなかった。

 数え十で家督を継いだ頼りない当主を守り立ててくれる家の者にも不満はなかった。実父が手配する手習の教師もそれなりに厳しかったが、勉学そのものは面白かった。何より他ならぬ周囲が、名門公家の名を残すためにやってきた幼い美麿を歓迎してくれた。都の遠近では不逞の輩が日々血刀を振り回しているとはいえ、美麿は取り立てて不自由もなく、面白おかしい少年の日々を過ごしていた。

 ただ、美麿は琵琶が嫌いだった。

 白雲寺は代々の琵琶司で、当主の琵琶は家の大切な収入源だった。多くの家臣を抱えながら四百石そこそこの石高しか持たない白雲寺にとってそれは大変切実な問題で、五つで養子に行くことが決まったときから美麿は琵琶の稽古を仕込まれた。まだ健在だった頃の白雲寺の先代にも撥捌きを教えられたし、毎日のように宮中の楽師らは実家の邸を訪れていた。

 だが、それがいけなかったらしい。生来闊達な性質の美麿は、大人しく座り込んで楽を爪弾くといったことが滅法苦手だった。おまけに逃げようとするたびに押さえつけられて強要されるうち、どうにも耐え切れなくなってしまった。太夫五家、侍四家の家臣を持ち、他にも多くの臣下を擁する名家の当主として、彼らに碌を下すのは義務だと割り切ろうとしたが、それでもどうしても琵琶だけは耐えることができなかった。

 「ちぇ、雨なんか降ってきやがった」

 わざと乱暴な言葉を呟き、無人の拝殿の軒で美麿は頭を払った。琵琶の稽古を逃げ出したはいいが、いつも逃げ込む友人の家には全て父の追撃が先回りしていた。頼れる友人との連絡を絶たれ、一人で逃走している最中に雨が降り始め、やっとの思いで逃げ込んだのは白雲寺の当主が代々祀る小さな祠だった。遊び場としてよく使うので、追手がきても咄嗟に逃げ込める隙間は幾らでも知っている。

 ただ、無人の薄暗い社の中に一人で膝を抱えているのは面白くなかった。あっという間に本降りになった雨はざあざあと音を立てて軒を滴り、辺りの景色は靄で煙っていく。雨音で追手が名を呼ぶ声も聞こえなくなると、ほっとすると同時に物悲しさが湧き上がってきた。

 「しょうがねーよ、おれの琵琶でお碌もらうわけにいかねーもん」

 学問は好きだし、それなりに身に就いていると思う。公家としての振舞も、窮屈に感じることがないわけではないが余り苦に感じることはない。ただ、琵琶を持つとどうしても自分の才覚というものを意識せざるを得なかった。隠れて練習はしてみたものの、どうしても指の捌き方がわからず、腐心している間に構えが崩れてしまう。構えを崩すまいとすればするほど指先が疎かになって、音色が壊れていく。

 何より美麿にとって一番辛いのは、自分の奏でる音色の余りの酷さだった。幼い頃から数多の師について曲を聞かされてきたせいで変に耳の肥えてしまった美麿は、自分の指先から洩れ出る拙い音色がどうにも我慢できなかった。鍛錬すれば美しい音色を奏でられるようになるのかとも思ったが、それまでを耐えることができず、そのうち美しい琵琶の音色そのものまでが許せなくなってきてしまったのだ。

 元々勉学も武道も挫折を知らなかった美麿である、技芸で躓いたことを一番信じられないのは自分自身だった。多分自分の腕前でも、人前で披露すれば家計の足しにはなるだろう。だが、それで銭金を受けるのは何か間違っている気がした。鴨川の河原乞食でも、相応の芸を披露しなければ食い扶持にはありつけない。自分の幼さで同情を買うのは、どうしても矜持が許さなかった。

 雨脚は次第に強くなり、外からしんしんと冷たさがしみこんで来る。社殿の奥へ潜り込んだ美麿は、小さく蹲ってくしゃみをした。

 「江戸だけじゃなくて、こっちでも富籤やんないかなあ」

 呟いた言葉の惨めさに泣きそうになる。父が代行している家臣への碌の支払も数年来滞りがちで、実家への借金は嵩む一方だった。望んで養子にきたわけではないと言ってしまえばそれまでだが、どうせ長男以外に生まれた以上はどこかへ婿に行くか養子に行くか、それ以外の道はない。父や兄が自分より楽をしているとは思えないし、だとすればこの窮状は自分の不徳の成せる業だろう。

 富籤などその場しのぎにすぎないだろうが、それでも掛け借りをしながら誠心誠意仕えてくれる近習どもの姿を思うと涙が零れた。明日のわからない時勢に、土倉や商人たちに足元を見られて惨めな思いをしている臣下たちを思うと悲しくなった。

 「富籤なぞ、焼け石に水ではないかえ?」

 「うるさい、それくらい切羽詰ってるんだい」

 不意に聞こえた女の声に言い返し、それから美麿はぞっと周囲を見渡した。人の気配などどこにもなく、おまけに女の声は余りにも近かった。それなのにどこを見ても、それらしき姿は見当たらなかったのだった。

 「哀れなものよのう、かような幼な児にべそをかかせるほど困窮したか」

 女の声は哀れみの色を湛えながらも、からからと愉快そうに笑う。まさしく鈴を振るような美声に、美麿は背筋を凍らせた。

 「お前、誰だ」

 「お前とは異な。そちこそ、わらわがもとへ参り出てきたのであろ?」

 女はからかうように美声を揺らし、それからくすくすと笑いながら言った。

 「技芸と発財こそわらわが本分。そちが望めば、わらわはそちに妙音を奏でる指先を授けてやろうぞな?」

 「え」

 美麿は瞬く。琵琶が弾けるようになる、というのは彼にとって凄まじく魅惑的な言葉だった。

 「思えば幼な児とはいえそちこそ今代の当主と。ならばわらわの夫も同じ、そちに惨めな目を見せるのは、わらわにとっても名折れ」

 女の声はくすぐるように美麿の耳に滑り込む。彼女が何者なのか薄々美麿は勘付いたが、なれば一層その言葉には縋りたかった。

 「一声願ってみよ、すぐさまそちは琵琶の名手になろうぞ」

 「……願いを叶えてくれるのか」

 「勿論だとも」

 声は苦もなく答える。姿の見えない女を前に膝を正し、ふと美麿は薄闇の中を仰いだ。

 「それなら、琵琶じゃなくて弁舌を授けてくれ」

 「弁舌?」

 女の笑い声が止んだ。咄嗟に飛び出した自分の言葉に驚きながらも、美麿は必死に這い蹲る。

 「琵琶は銭になるけど、琴瑟相和する仲間ばかり周りにいるわけじゃない。おれは家を興さなくちゃいけない。おれが家を潰すわけにはいかない。それなら、もし世の中がどっちに傾いても上手いこと流れていかなきゃいけないんだ」

 確かに銭は欲しい。今の窮状を凌げる琵琶の腕を得られるのであれば、それは何にも代えがたい。だが、もしもできるのであればそれは敢えて引き換えなければならなかった。琵琶の音は人の心を動かすかもしれないが、世は楽の音に耳を傾けるほど平穏とは思えない。ならばむりやりにでも人々の耳を傾けさせなければ、再びジリ貧に逆戻りするだけなのだ。

 「つまり上手く言い逃れる舌先が欲しいと?」

 「舌先があれば、銭金だって丸め込めるじゃないか」

 真顔で美麿が言うと、女の声は突然高らかに笑い始めた。それでも真剣に這い蹲る美麿に、女は愉快そうに告げる。

 「ああ、そちは賢い。実に聡い子じゃ。気に入った、わらわはそちを気に入った。白雲寺三十三代、そちほど好ましい子は初めてじゃ。その願い叶えさせてたも」

 「本当か?」

 「わらわは言葉を違わぬ。そちにはわらわの持てる全ての加護を賜ろう。人並み外れた弁才も、生涯変わらぬ財運も、水の護りも道中の安泰も艶福の希ももはや全てそちが手の中よ。ゆえにそちも誓うがよい、わらわの嫉妬は一味も二味も違うゆえに。のう?」

 女の声はあくまで麗しく、軽やかで華々しい。だが、美麿の表情は強張った。

 「……わかった、約束する」

 「あな嬉し、頼もしき婿を得たものよ」

 女の声は嬉しそうにころころと響き、やがて祠の中を反響するように次第に薄れて消えていった。遠ざかる雨脚と共に薄日が差し、見上げた美麿の視線の先に、神前に掛けられた一幅の掛軸が垂れていた。

 ふと、昔から語られる言い伝えを思い出した。恋人同士の逢瀬で弁天の祠を参ってはならぬ、嫉妬深い女神は恋する二人の仲を裂いてしまうから、と。

 白雲寺の当主は、古くは妻帯しないのが倣いであった。琵琶を司る白雲寺の主人が妻帯すると、琵琶の守護天が嫉妬して祟りが起こると言われていたためだ。没落の言い訳に使いたくはないが、それでも美麿の先代以前は数代続けてその禁を破っていた。

 古びた掛軸の中で嫣然たる白面の微笑を浮かべているのは、しどけなく裳を着崩した膝に琵琶を構えた優美な天人。三代目の白雲寺家当主がこの神社をかまえた折に奉納したという、艶やかな女の肖像。

 技芸と発財と弁論と色事と水を――雨を司るその女仙の名を、妙音弁財天という。



 「随分立派になったもんだねえ」

 雅臣は身を屈めて恐縮する。祖父の代からの親交という藤原公一郎ふじわらきんいちろうは、名門公家の出自という格式ばったところもなく、いっそ雅臣の実父よりも砕けた調子で彼を可愛がってくれる。帝都東京での官僚生活に嫌気をさして郷へ逃げ帰ってしまった父よりも会う機会が多いかもしれないが、何となく雅臣はこの老人を苦手としていた。

 そもそも雅臣の祖家といえば、戊辰戦争の朝敵たる奥州の小藩である。藩主以下、女子供に至るまで一族郎党自害して果て、京都へ置かれていたため辛うじて生き延びた藩主の末子が雅臣の祖父に当たる。だが彼がなぜ天皇の学友まで務めた公爵に懇意にされたのか、その経緯は不明のままで、その引き立てで子爵にまで取り立てられた雅臣としてはどうしても居心地が悪い相手であった。

 「そろそろ帝大も卒業だったね。どうだね、いい人はそろそろいるのかい?」

 「いえ、その、まだ弱輩でございますから」

 雅臣はたどたどしく答えて俯く。彼の無愛想とも取れる態度を十分理解しておきながら、それでも弄りにくるのだからこの公爵も人が悪い。とりわけ、恋愛絡みの話題を俄然好むところが、何よりこの老人の困ったところだった。

 「いやあ、それはいけない。和臣くんが隠居してしまう以上、家督を継ぐのは雅臣くんなんだろう? 格好がつかないのもいけない、よし、わたしの知り合いで適当な子を見繕ってあげようじゃあないか」

 「いえ、まだわたしには早いので」

 慌てて顔を赤くする雅臣を愉快そうに眺め、ふと思い出したように藤原卿は手元のベルを取った。涼しげな音色が響き、同時に部屋の障子が開く。

 「すっかり忘れていた。えつ子、煎茶の用意を。雅臣くんに振る舞うよ」

 「はい御前様、こちらに」

 慣れた調子で茶道具を持って現れた見慣れぬ女中に、ふと雅臣は首を傾げる。その視線に気付いた藤原卿は、くすりと笑った。

 「おはなの代わりに新しく入れたのだよ。おはなも気が利く娘なんだが、如何せん素行が止まんでねえ……」

 「素行?」

 「運転手や御用番だけならともかく、出入りの男をくわえ込むようじゃあさすがに見過ごせんよ」

 明け透けに言われ、雅臣は顔を真っ赤にする。その様子を眺め、愉快そうに藤原卿は笑う。

 「えつ子、ご覧よ。初心だねえ」

 「この調子ですと御前様がお世話をしてさしあげないと、当分ご縁は遠そうな」

 「これこれ、本当のことを言ってはいけない」

 雅臣が最も苦手とするのが、藤原卿のこういうところである。

 藤原卿が正妻を持たないのは周知の事実なのだが、その代わりに寵愛する女中や芸者の数が半端ではない。週刊誌で大奥と揶揄されるほどの女性を囲っている藤原卿は、晩熟な性質の雅臣にとって余りにも不可解な存在だった。

 正妻を持たない理由は定かではない。卿の家は代々妻帯できない掟があるとの噂もあるが、彼がそういう迷信の類に拘泥する性質でないことは他ならぬ雅臣が痛いほどよく知っている。今の若者に多い独身主義者かとも思ったが、その割には雅臣の縁を取り持とうと画策してくるのだからわけがわからない。

 藤原卿はうら若い女中に何か話し掛けながら、鮮やかな手付きで煎茶を立ててゆく。特別な来賓にしか振舞わない茶をこともなげに差し出されて、雅臣はいつものように畏まって頭を下げた。

 ふと、思い出したようにえつ子と呼ばれた女中は、藤原卿の耳元に声を掛けた。

 「そう言えば、御前様。陛下から、いつになったら琵琶を披露してくれるのかと督促がございました」

 「来客の前で控えなさい」

 女性に甘い藤原卿にしては珍しく、ぴしりと厳しい声になった。女中は失礼しました、と声だけ掛けて爽やかに部屋を出てゆく。不思議そうに見遣る雅臣の眼前で、藤原卿は頭を掻いた。

 「先生は、琵琶を嗜まれるのですか?」

 「いやいや、嗜まない」

 肩を竦め、藤原卿は叱られた子供のように上目遣いに雅臣を見遣った。

 「どうしたものかねえ、今上ときたらどこで噂を聞きつけたのか、このところそればかりで」

 ああ、と雅臣は頷いた。

 「先生の祀っておられる、弁財天のことですか」

 「そうそう。弁天の旦那が技芸はからっきしなんて、様にならないよねえ」

 おどけるように肩を竦めた仕草に、雅臣は思わずくすりと吹き出した。




「足りないのは何?」

「そんなこと言われても、苦手なものは苦手なんだ」

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