第9話 幽体離脱
「ん? 耽美的な美しさ?」
と聞きなおしたのは、マスターだった。
「ええ、道徳的なものを廃して、美を追求するという、あの耽美主義的なですね」
というではないか、確かに人を好きになるというのは、究極はそういうことなのかも知れないが、知り合って間もない相手に感じることであろうかと思えた。
如月の言いたいことが何なのか、俊介は少し考えていた。
「耽美的というのは、少し大げさなのかも知れないんですが、僕の中で彼女に対してのイメージというよりも、自分自身が耽美主義だったのではないかと思うようになったんです」
という言い方を、如月はした・
「ますます分からないんだけど?」
とマスターがいうと、
「俺は、あの日、彼女と話をしていて、彼女が俺の芸術のことをいろいろ話してくれるのを聞いて、俺を男としてというよりも、芸術家として見てくれていると思ったんだよね。そのせいか、その思いを壊してはいけないという思いの強さからか、絶えず彼女主導の会話になっていたんだよね。だから、その日の俺の態度は、本当に大人の対応だったと思うんだ」
と如月は言った。
「うんうん、俺もそうだと思っていたよ」
と、俊介は言った。
その横でマスターも頷いていたが、それを聞いた如月は、
「でもね。彼女が帰ってから、考えることは彼女のことばかりで、そのうちに、こんな思いをするなら、もう少し前のめりで話せばよかったって思っているんだ。あの時に彼女に対して前のめりにならなかったのは、また彼女と近いうちに遭えるという思いがあったからなんだけど、よく考えてみると、どこにそんな根拠があるかって話だよね? この店にまた来てくれるという保証もないし、でも、名前まで教えてくれたということは、やはり彼女の方としても、もっと自分のことを見てほしいというアピールだったのかな? って思ってしまうんだよね。思い込みが激しいのかな?」
というのだった。
「うーん、そんなことはないと思うよ。誰かを好きになれば、そんなものさ。日に日に気持ちが高ぶって行って、ひょっとすると初めて感じる感覚なのかも知れないのに、以前にも感じたことがあるという既視感というか、デジャブのようなものがあるのは、恋愛あるあるだと思うんだよ」
とマスターが言った。
「マスターにもそんな経験あるのか?」
と、俊介がいうと。
「そりゃあそうさ。君たちよりも少なくとも長くは生きているからね。経験という意味では豊富なところがあるのさ。
というではないか。
「人を好きになったら、そんなにどんどん思いが深くなるものなんですか?」
と、俊介がマスターに聞いた。
「うん、抑えられなくなるほどになるものさ。段階を追って次第にという人もいれば、最初に身体に変調を感じるくらいの思いの強さを感じ、その後は、その感情の後遺症のようなものがジワジワとこみあげてきて、あたかもどんどん気持ちが深まってくるかのような錯覚に陥るのも、無理もないことだと思うんだ」
とマスターがいうと、
「俺は、最初に、そんなに強い思いがあったわけではないんだけど、そのうちに意識がどんどん強まって行って、その原因がどこにあるのかということが分かるまでに少し時間が掛かった気がする。最初に気持ちが強く持たれているとすれば、それは最初から原因も分かっていたということになるのかな?」
と、如月はいうのだった。
「次に会ったら、どんな話をするかということはシミュレーションできているかい?」
と、マスターに言われたが、
「そんなシミュレーションなんかできていないよ。そもそも、どんな人なのかというのも知れないんだからね」
というと、
「いやいや、だから聞くんじゃないか? 何を聞いていいのか分からないと思っていると、ずっと会話ができなくて、悶々とした日々を過ごすことになるかも知れないよ」
と、マスターに言われたが、
「でも、その間というのも、意外と楽しいカモ知れないよ。そのうちに何かが出てくると思うんだ」
と、俊介がいうので、
「俊介はそんな経験があったのかい?」
と如月に言われて、
「うん、俺にもそういう経験はあるんだけどね。でも、会話ができるようになった時には、彼女には彼氏ができていたようで、他の人から話を訊いてみると、俺がぼやぼやしている間に彼氏ができたっていうんだ。しかも、彼女は俺からの声を待っていたようで、その様子が物欲しそうな雰囲気に見えたんだろうな、他の人で勘のいい人がいて、その人が話しかけると、彼女の方もその気になったということだったんだよ。さすがに、誰でもいいというわけではなかったんだろうけど、彼女自身も悶々としていたとすれば、その心の隙間に入り込みさえすれば、彼女の心を捉えることは、それほど難しいことではなかったのかも知れないな」
と俊介は言った。
「後期したかい?」
と、如月に言われたが、
「後悔? そうだな、後悔もあっただろうし、ホッとしている自分もいたんだよ。あの頃は自分が悶々としていることで、やり切れない気持ちもあったので、彼女が心変わりしてしまったように思うと、悪いのは自分なのに、彼女がそういう目移りするタイプの女性だったんだと思うと、後悔というよりも、そんな相手を好きになりそうにはなったけど、ならなかったのは、よかったという意味でのホッとした気持ちだったんじゃないかな?」
と、俊介は言った。
「さっきの耽美主義の話だけど、皆は耽美主義の感覚と恋愛感情は切り離して考えるものだと思うかな?」
と、マスターが少し話を変えてきた。
「俺は少し違うと思うんだ。耽美主義というのは、あくまでも感情というよりも、美というものを感性として感じ取ったことが、第一だと思うことでしょう? だから、切り離すというよりも、次元が違うような気がするんだ」
と、俊介が言った。
「でもね、昔の、大正から昭和初期にかけての探偵小説などを読むと、恋愛感情の行き過ぎが耽美主義に行きついて、そこで犯罪が起こるというような猟奇的な部分があるという気がするんだけどな」
と、如月は言った。
「それは違うと思う」
と、マスターがいうと、二人はほぼ同時にマスターを覗き込むと、
「どういうことですか?」
と、声を重ねて聴いた。
「そもそも、耽美主義という考え方は、ある瞬間に目覚めるものではなく、生まれながらのものではないかと思うんですよ。つまりは、恋愛感情の発展形にならないわけではないと言えるでしょうね、だから、あったく次元が違うというわけではなく、恋愛感情の歪な感覚が、耽美主義と言ってもいいんじゃないだろうか?」
と、アスターは言った。
「なるほど、確かに、昔の探偵小説の猟奇的な犯罪というと、恋愛感情の歪んだ感覚という意識があったけど、読んでいるうちに、次元の違いを感じたんだ。それに探偵小説というのは、その後に、SFやホラーに派生していくので、元々猟奇的であったり、異常性癖などが盛りだくさんなのはありえることだと思う」
と俊介がいうと、
「でも、昔の探偵小説というと、恋愛はご法度だという定説があったと思うんだけど、そこに恋愛を絡めるという新たな発想を描こうとすることで、それが無理がいかないように、耽美主義の考え方を交えることで、理由付けにしているんじゃないかと思うんだ」
と、マスターが言った。
「でも、それは探偵と犯人というか、登場人物の間の恋であって、事件の発端になるところは普通の恋愛だったりするじゃないかな?」
と俊介がいうと、
「確かにそうなんだけど、時代が進むにつれて、そのあたりが曖昧になってきてしまったところもあってか、耽美主義と探偵小説を結び付ける発想が、その後に続く、ホラーやオカルトに関わっていくところではないかとも思うんですよ」
とマスターが言った。
「じゃあ、恋愛感情というのは、探偵小説における耽美主義とは、どう関係してくるんでしょうかね?」
と聞くと、
「恋愛関係と恋愛感情の違いのようなものではないかと思うんだよ。恋愛関係というと、耽美主義的な、猟奇的なドロドロとした恋愛も含むが、果たして、そんなドロドロとした猟奇的な恋愛も、恋愛感情に含めるのかどうかですよね。恋愛小説としては、純愛以外に、愛欲というものも含むかも知れないが、感情となるとどうなんでしょうね?」
と、マスターは言った。
「じゃあ、恋愛感情に基づかない恋愛が、耽美主義の中に答えがあるということですか?」
「そう考えると、納得がいくようなところがあるんじゃないですか?」
と、マスターは言った。
「そういえば、相手のことを好きになったわけではないと思うのに、気になってしまった相手というのがいたような気がする。好きになったわけではないという感覚は、付き合ってほしいとか、付き合ってみたい、そして、その後の結婚などということがまったく結び付かないということであって、だけど、女性として気になるんですよ、このまま秘めている気持ちが何であるか、ハッキリさせて、それをちゃんと相手に伝えないと、まったく何も進まない。それどころか、何もできなくなってしまうような、言ってみれば、自分だけ時間が止まってしまったという感覚でしょうか?」
と、言ったのは、ここの常連客であった。
「うんうん、そういうことはあるかも知れない。特に相手のことを何も知らないのに、気持ちだけが先行して、自分のことを知ってもらいたいと思ってしまうんですよね。相手を知りたいと思う前にね」
と、如月がいうと、
「そこまで来ると、たぶん、相手のことを好きなんじゃないかと思いますよ、ただ、それは第一印象によるものなので、そこから先の進展によって、その時点なら、まだまだ変わるかも知れないですけどね」
というのは、マスターだった。
「如月君がね、さっき好きになった典子さんがいるでしょう? 見るのは本当に初めてだと思っているのかい?」
と、俊介は如月に聞いた。
「さっきまでは、初めてだと思っていたんだけど、今の恋愛や他暗日主義や探偵小説などの話を訊いていると、前にも典子さんを見たことがあるような気がするんだ。最初の時は、本当に美というものを感じて、見えたのが美だけだったので、印象に残ってしまったんだけど、実際には印象に残っただけで、心の中に響くものではなかったんだよ。だから忘れていたと思うんだけど、でも、話をしたこともなく、感情だけでそこまで印象に残っているということは、やはり、感情として覚えていたということになるんじゃないかとも思えるんだ」
と如月は言った。
「実は、彼女は俺の妹の恵子がいるだろう? その妹の友達なんだ。親友だと言ってもいい。兄貴の俺から見ても、恵子は魅力があるだろう? だから余計に二人を見ていると、二人の美人というだけではない、何かプラスアルファのような感情があるんだよ。それがきっと二人が一緒にいると、耽美主義的なものを感じるのかも知れない」
と、俊介がいうと、
「それは、ひょっとすると、君が妹に恋愛感情を抱いていて、それが禁断であることで、道徳や倫理を廃する美だけを優先するという耽美主義で、気持ちを証明しようと思っているからではないかな? 確かに典子さんも美しいが、その美しい典子さんよりもさらに自分の妹の方が美しいということで、さらに自分が誘惑されても仕方がないという、二重三重の言い訳、そのようなものが渦巻いていることから、耽美主義ということに対して、造詣が深いのではないかと思うんだが、違うだろうか?」
と、マスターは言った。
ここまで来ると、さすがに俊介も平常心ではいられなかった。顔が完全に赤面していて、まわりから責められているという感が激しくなり、額からも汗がダラダラ出てきていて、憔悴感がハンパなかった。
まさか、耽美主義の話になってから、我を見牛穴ってしまって、その話にもめり込んでしまうとは思ってもみなかった。耽美主義のような論理的な話は確かに好きで、のめり込んでしまうのは昔からのくせではあったが、墓穴を掘ってしまうようなことになるとは、穴があったら入りたい気分であった。
顔がカーッと熱くなり、次第に、顔に当たる風を感じてくるようになる。その風に爽やかさを感じてくると、スーッと何かが右から左に通り抜けていくのを感じた。
――これは精神的に落ち着いてきているということなのかな?
と考えると、よく見れば、まわりが自分を別に追い詰めているわけではないことを感じる。そして、目の前に、後ろを向いて、自分の前に立ちはだかっているその人が自分であることに気づいた。
「幽体離脱なのか?」
とも思ったが、こちらを振り向かないのは、その正体を自分には絶対に見せたくないという気持ちの表れのようであり、それが、自分だということを証明していることであり、後ろにいる人物が自分だということが分かっているから、決して後ろを振り向かないという強い意志を持っているように感じるのだ。
普段は、媒体がなければ見ることのできない自分。そして、その自分というものが一旦身体から離れてしまうと、まったく別の存在が目の前にいるということは、録音した声でその違いを知った時に思い知ったのを思い出した。例の弁論大会の時である。
まるで夢でも見ているような感覚、それも、耽美主義の小説に出てくるような話ではないか。耽美主義が自分の異常な妹への愛を浮き彫りにする恰好になってしまったという皮肉なことに、夢が、どう自分を導いてくれようというのか、
ただ、そんな感情を考えていると、目の前にいる自分が見ている相手が違うような気がした。
目の前にいるのは、妹の恵子と、友達の典子である、もう一人の自分はずっと典子の方ばかり見ていて、妹の方を見ようとしない。二人は視線で愛し合っているかのように見えるのは、見つめられた典子の満足そうな顔を見るとよく分かる。
いかにも満面の笑みというところである。
では、妹の方はどうであるか?
その表情には焦りが感じられる。見てはいけないと思いながらも、後ろ向きの俊介を見つめている。
諦めなければいけないという思いの次の瞬間に、
「そんなことを思ってしまった自分が許せない」
とばかりに、相手に対してではない、自分に対しての憤りを感じている洋だった。
「それにしても、俺はどうしてこんなにも人のことが分かるのだろう?」
と感じていた。
普段であれば、
「もっと、人のことを思いやれよ」
と言われるくらいに、他人に関して無関心だった。
いや、自分と気が合う人とであれば、十分なくらいに気を遣っているのだが、そうでない人には全くと言っていいほど気を遣うことはない。それだけ極端なのだが、そんな極端な俊介は、
「俺なんか、誰からも好かれることはないんだろうな」
といじけるほどだった。
ただ、俊介の考え方としては、
「好きだから好かれたいと思うよりも、好かれたから、好きになるという方が俺らしいんだよな」
と思っていた。
それは、思春期が晩生だったことから感じることであったが、嫉妬心を感じることが、まず好かれることで、まわりに嫉妬心を感じさせ、なるべく長く、
「俺のことでイライラさせたい」
と思うのだった。
この感情も、異常性癖から来ているのかも知れない。だから妹を好きになり、禁断の恋だと思いながらもその思いを抱いている自分を戒めるというよりも、いとおしんでいるような気持ちになっている。そこで、耽美主義という隠れ蓑も出てくるわけだ。
そんなことを考えていると、如月も、二人いるように見えた。自分が幽体離脱のようなことになっているのは夢だと思えば、まだ理解できるところがあるが、如月が二人いる理由がよく分からない。
さっきまでいなかった如月が現れたのは、きっと夢の中で何か俊介の心境が変わったからなのか、それとも、ステージが一つ進んだからなのか、目の前に現れた如月は、その視線を、一人は典子に、一人は恵子に向けていた。
視線を向けられた恵子は、今度は視線を如月の方に向けているように思えたが、こちらを見ているのにも変わりはなかった。
「こんなことってあるんだろうか?」
と思っていると、今度は目の前で、恵子が幽体離脱していく。
どちらが、元だったのかが分からないほど、見事な離脱である。
典子の方もよく見ると離脱しているようで、そこには、それぞれ二人ずつが存在しているという不思議な世界を形成していた。もっとも、すべては俊介の夢の中でのことなので、潜在的に感じていることなのだろう。そこに何かの答えが潜在しているのは分かり切ったことであり、それを誰が証明できるか、また頭に耽美主義という言葉がのしかかってきた気がした。
夢の中の幽体離脱。最初はこんな夢を見ているのは自分だけだと思っていたが、途中から、
「本当にそうなのか?」
と感じた。
それはいつからかというと、それまでいなかった如月が現れ、如月が二つに分裂、いや幽体離脱したことで感じた。
「如月も、もう一人の自分は夢を見ている自分なんじゃないだろうか?」
と感じたのだ。
それがどんどん繋がっていって、恵子も典子も同じように、幽体離脱をしている。それはきっと夢を共有しているからではないだろうか。
夢の共有を俄かには信じられるわけもない。もし、信じられるとすれば、耽美主義というものを理解できていないとできないのではないかと思うのだった。
俊介は今までに、
「誰かと夢を共有しているのかも知れないな」
と感じたことがあった。
普段なら忘れてしまうような夢を覚えている時である。それは怖い夢を見た時に限ってのことだと思っていたが、そうではなく、誰かと夢を共有していることで、相手もきっと忘れてはいないのではないかと思うのだ。
そんなことを感じていると、俊介は次第に夢から覚めていくのを感じていた。
「ああ、このまま目を覚ましたくない」
という思いが強く、一度覚めてしまうと、二度と同じ夢を見ることができないということは分かっているだけに、何とか踏みとどまりたかったが、できないことは百も承知だったはずだ。
だが、目を覚ましてしまった。この思いはどこにいくのだろうか?
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