第8話 耽美主義
「たんび主義ですか?」
と聞きなおすと、
「そうです、耽美主義です。これは、道徳的なことを考えずに、それよりも何よりも、美の享受・形成というものに最高の価値があるんだという考え方なんですよ、美至上主義というか、とにかく美が何物にも優先するといえば少し大げさかも知れないけど、分かりやすい言い方になりますね」
と彼は言った。
それを横から聞いていた如月も、
「なるほど、旅主義ですね。それを言われると、これもどちらとも取れる言い方ですよね。ちゃんと説明してもらえればいいんでしょうが、ひょっとすると耽美主義という言葉を出した人にも説明というところで難しいかも知れないですね」
と如月はそう言った。
「如月君は、自分の作品でそう言われたことはあったかい?」
と、俊介に聞かれた如月は、
「うん、一度か二度あった気がするんだ、でも、俺の作品は、実は描いている時から、自分の作品が耽美主義という形で見られるかも知れないとは予想していたので、そこまでのショックはなかったんだけど、さすがに言われると、ショックがなかったとは言えないよ。相手が何を見てそう言っているのかというのが気にはなったので聞いてみたんだが、やはり、ハッキリとした答えは示せないようだった。もっともそれは想像の範疇だったので、怒ることはなかったけどね」
と言った。
「普通だったら、怒りそうなものだけど?」
と聞きなおすと、
「そうなんだけど、耽美主義というものが、そんなに悪いことだとは俺は思わないんだ。だから、耽美主義と言われて、実は悪い気もしなかったというのも本音なんだ。だって、ハッキリと感じたことを言ってくれたわけだろう? 人の作品について、何も言えない人が多い中でね。それを思うと、俺も耽美主義というものを俺なりに調べてみたりしたさ。絵画だけではなく、小説であったり、映画や音楽、写真の世界と、いわゆる作品と呼ばれるものに、耽美主義という言葉はくっついているんだよね。それを思うと、悪いことというよりも、いろいろな芸術を股に掛けた、大いなるジャンルであり、主義と言われるだけの市民権を持っているんじゃないかって思うんだ。実際に耽美主義と呼ばれる芸術家の中には、その名前を賞として頂く人もいたりするくらいで、俺はもっともっと、日の目を見てもいいのではないかと思うくらいなんだ」
と、如月はいうのだ。
確かに彼のいう耽美主義の作品で有名な芸術家には、そうそうたるメンバーがいる。ノーベル賞候補に何度もなりかかった人などもいるくらいで、如月のいうのも分かる気がする。
しかし、さすがに耽美主義というものが、道徳を度返ししているというところが、なかなか芸術という分野において、異端であることはしょうがないことだ。
「耽美系の小説が好きだ」
などというと、
「猟奇的だったり、変質的なものが好みなのかな?」
と言われてしまうだろう。
本当に好きなら、
「ああ、そうだよ」
と言って、堂々と胸を張ることもできるのだろうが、そこまで思い入れがない人であれば、断言するのは少し憚れるに違いない。
「耽美主義というのは、なかなか理解されにくいジャンルでもあるしね。やはり道徳を廃するところが難しいところだね。どうしても世間では道徳が最優先される。秩序、倫理、道徳はどうしてもセットになるので、道徳を廃するということは、秩序も倫理も度返しすることであって、まるで無法地帯を思わせるのは、芸術の世界では無理があるだろう。だから、自分から耽美主義だと名乗る人は、本当に自分に自信がある人なんじゃないかな? やっぱり正統派に憧れる人が多いと思うんだ」
と常連さんは言った。
「まあ、確かに、正統派に憧れるというのはありなんだろうけど、芸術家というのは得てして、他の人と同じでは嫌だという。自分だけが特別であってほしいという気持ちを心のどこかに持っているものだと思うんだ。だから、当さ熊谷のことは嫌がるし、二次創作などを絶対に受け入れられないと思っている人も多いと思う。オリジナルこそが芸術だってね。だから、芸術に親しむ人は、自分で作品を製作しない人であっても、見ている作品がオリジナルかどうかで、自分の中で作品の優先順位をつけていると思うんだ。それは、順位をつける以前の問題で、どんなにいい作品であっても、オリジナリティがなければ、駄作に過ぎないという考え方ですね。それは私にもあるかも知れない。特にここでこうやって個展を開きに来る人を見ていると分かりますよ。皆目が輝いていて、決してオリジナリティのない駄作を持ってくるような人は一人もいなかったからね」
と、マスターが言った。
「人と同じでは嫌だという考えが、耽美主義の世界を作ったということなのかな? 俺は少し違うような気がするんだけどな」
と、常連客は言った。
「そうだよ。それは違うよ、耽美主義というのは、別のところから発生していたのさ。元からあったと言ってもいいかも知れない。それはアダムとイブがイチジクの葉っぱで、陰部を隠したという話があるだろう? その頃から羞恥という考え方はあったのさ」
と如月は言った。
「じゃあ、耽美主義が発展せずに、裏のまるで闇のようになってきたのは、道徳や倫理、秩序というものがあったからなのかな?」
と、俊介がいうと。
「僕は、耽美主義というのは、ある意味でいうところの『必要悪』なんじゃないかって思うんだ」
とマスターがいうと、
「必要悪ですか?」
と、如月が訊き返した。
「うん、耽美主義というのは、確かに人間の心の裏、表に出してはいけないと言われるようなところを、表に出すために、『美』というものを使って表現しようとしていると思うんだね。だけど、耽美主義を否定してしまうとなると、『美』というものまで否定してしまいそうになる。だけど、それを芸術家の端くれであれば、否定することはできない。それはまるでキリシタン禁止令の中における踏み絵を踏むようなものだからね。だから、芸術家という人たちは耽美主義をいいものだとは思わないが、否定もできないものとして考えている。それって、結局、存在することで、どんなに悪であったとしても、必要なものだということで定義される『必要悪』と同じ理論に繋がってくるんじゃないかという考え方なんだ」
とマスターは言った。
「なるほど、そうなると、ここで出てきた『美』というのは、必要悪を定義する意味での保険というか、担保のようなものだと言ってもいいのかも知れないですね」
と、俊介がいうと、
「なかなか面白い言い方をするね。表現は少し微妙な気もするけど、概ねその考え方でいいと僕は思うよ」
と、マスターはいうのだった。
「美というものを担保にするというのも、美もさぞやお安く見られたものだね」
と俊介がいうと、
「それは違うよ。美というものと、羞恥という考え方を同じ次元で考えようとする人が多いからそうなってしまうんだと思うよ。もし、美と羞恥が違う次元であるとすれば、耽美主義は別に道徳を廃する必要なんかないんだ。それだけ道徳が美と同じ次元にあり、優先順位の絶対性を道徳に持たせようとするから、こういう考えになるんだ。最初から次元が違うということに気づいていれば、別に優先順位なんか関係ないんだ。それを思うと、芸術を語る連中に、耽美主義をどう思っているか、本音を言ってもらいたいと思うくらいだね」
とマスターは言った。
少し苛立ちを感じているようだったが、マスターは耽美主義と言われる人を応援したいと思っているのだろう。だとすると、如月や、この常連さんの両方ともに、耽美主義を見ているということかなのか?
如月は見ている限り耽美主義と言われても、別に嫌な顔はしないような気がするが、もう一人の常連はどのように考えているのか、気になるところであった。
「僕は昔、小説を書きたいと思ったことがあったんだけど、気が付いたら、頭の中の発想が、猟奇的だったり、異常性欲だったりして、ビックリしたことがあったんだけど、今から思えば、その思いを断ち切らずに書けばよかったかも知れないって、今では思っているんだ」
と、俊介は言った。
確かに俊介は小説を書きたいと思った時、どんな話にしようかと考えると、結構、ホラー的な話になっていることがあった。別に妖怪が出てくるわけではないのだが、何か不思議な世界に入り込んでしまったりする話だった。
そもそも、ドラマや映画では、怖い話は苦手だったはずなのに、どうしてなのか、自分でもよく分からなかったが、その後で考えてみると、その意味が分かった気はしていた。
「書けばよかったのに」
と言われたが、
「いや、あの時は自分でこんなことを頭に描いていると思っただけでも、気持ち悪くなったくらいだったんだ。自分がどうかしてしまったのかと思ったよ」
というと、
「いや、異常性欲も、猟奇的な感情も、皆心の奥に閉まっていて、表に出さないだけなんじゃないか? 時々猟奇的な話がニュースであるが、それも、たまたま溢れてきたんじゃないのかな? だって、何か災害が起こった時など、その後には結構そういう猟奇的なものが多いだろう? それは、きっとPTSDのようなもので、後天性のストレス障害が起こるから出てくることで、それって、ストレス障害は皆持っているかも知れないということだよね? つまりは、トラウマというのは、ストレス障害が起こった時に、一緒に生まれるわけではなく、潜在的に持っているものが表に出てくるからなんじゃないかって思うんだよ。そういう意味では、皆、オカルトやホラーのような話を書ける素質を持っているんじゃないかと思うんだ」
と、マスターが言った。
「じゃあ、五月雨君は、どういう小説を書いてみたかったんだい?」
と訊かれて。
「僕は、恋愛小説だとか、ドラマに出てくるようなトレンディドラマの原作になるような話を書いてみたいって思ったんだ。ドラマを見ている時は、何となく自分でも書けそうな気がしているのに、実際に原稿用紙に向かうと、まったく書けなかったんだよ」
というと、
「パソコンで書けばいいじゃないか」
と言われたが、
「パソコンは苦手なんだよ。指に集中しなくてもいい分、何か変なプレッシャーを感じちゃって、思ったことを言葉にする前に、前の言葉を書いてしまうので、追いつかないのではなく、追いついてしまうという感じかな?」
というと、マスターが、
「それが書けない理由なのかも知れないね。実は私も学生時代に、小説を書こうと思ったんだよ。今からもう、二十年くらい前になるかな? 当時はパソコンというよりも、ワープロと言った方がよかったかな? ワープロだと、ある意味大げさな機会が目の前にあるという感じで、却って緊張してしまって、気が散って書けないんだよ。きっと、パソコンで書くのと同じ感覚なのかも知れないな」
と言った。
「まさに、その通りかも知れないですね。書き始めって、結構気が散るものなんですよね。少しでも書けると、自己満足に浸ってしまうのかも知れないと思いました。だから、すぐに気が散ってしまって、他のことを考えると、せっかく今まで繋がっていた話の内容を忘れてしまっていて、先が続かなくなるんです。どうしてなのか分からなかったんですが、最近では分かってきました」
と、俊介が言った。
「それはどうしてだい?」
と、マスターが聞くと、
「実は少しでも書けているということは、その間、自分でも分からないほどの集中力なんじゃないかと思うんです。だから、少し書いて気が抜けてしまうと、集中力が一気に下がり、そして、その間、自分の書こうとする小説の世界に入り込んでいるにも関わらず、気を抜いてしまうから、せっかく繋がっていた内容が、そこで途切れてしまうんですよね。でも、その時は、すぐに思い出すと思うんですが、一度途切れた集中力の中の世界には、二度と戻れない。それはまるで、一度見た夢の途中を見たいと思って、眠りについても、絶対に同じ夢を見ることができないのと同じ感覚ではないでしょうか?」
と、俊介は言った。
「うん、うまいことをいうね。まさにその通りだと思うよ」
とマスターは言うのだった。
「ところで、最近、僕は気になる女性がいるんですが?」
と如月が言い出した。
「ほう、誰なんだい?」
とマスターが言ったが、マスターには分かっているのかどうなのか、何となく分かっているような気がしたから、興味本位っぽく聞いたのかも知れない。
俊介にはそれが誰なのか、創造もつけば、最初から分かっていたような気もする。
「実は、この間、ここで少しだけお話した、砂土原典子さんなんです」
というと、少し顔を赤らめていたが、俊介とすれば、
「やはり」
と思うのだった。
そもそも、如月の女性への趣味はよくは分からなかったが、二人が話をしているのを見ていると、積極的なのは典子の方で、如月はまんざらでもないと思いながらも聞き手に回っていたのは、どうも、自分が芸術家で、相手が、
「芸術家としての自分のファン」
だという意識もあったからだ。
最初からがっつくようにすると、相手を不安にさせ、ガッカリさせることになるのではないかと思った如月は、会話の中でなるべく自分から話しをしないで、相手がどれほど自分に対して前のめりなのかを見ることで、自分への気持ちがどれほどのものなのかを判断しようと思っていたのだ。
典子は本当に自分のファンのようだった。素人なのに、ファンがいるというのは、芸術家として、一応認めてくれる人が存在するという何よりも嬉しいことで、本来なら恋愛感情など、感じてはいけない相手だということも分かっているつもりだった。
しかし、その感情を浮き上がらせるのも、隠そうとするのも、恋愛感情を持っているかどうかであるのだが、その時は、ファンとして見てくれているという気持ちから、一歩下がったところでの、
「大人の対応」
ができたと思っている。
しかし、次の日から、いや、その日彼女が帰ってから少ししてからなのかも知れないが、如月の心の中に変化が起こってきた。
それまでも無口だったが、さらに無口になっていた。
まわりから見ていると、明らかに集中しておらず、絶えず何かを考えているように見えた。
そもそも如月は、絶えず何かを考えているようなタイプであったが、それ以上に集中力の欠如が感じられた。
「今話しかけたら、トンチンカンな回答をするに違いない」
と思うのだった。
こんな如月を俊介は久しぶりに見た気がした。それがいつだったのかを思い出してみると、
「そうだ、あれは中学時代だったかな?」
友達になって少ししてからのことだったと思う。
如月は明朗な性格だったので、絶えず誰かに話しかけるタイプだったのだが、その時だけは、話しかけたとしても挨拶程度で、それも明らかに上の空の挨拶だった。
それは心が籠っておらず、相手を不愉快にさせるような感じだったのだが、見ている限り、それはわざとやっているようにも感じられた。
「こっちはわざとぶっきらぼうにしているんだから、そっちからも話しかけたりしないでほしい」
という気持ちが見え隠れしているのだった。
その感情をいかに表に出しているのか、彼はあざといことができる方ではない。気持ちが顔や態度にすぐに出る方で、よく言えば、素直で実直なのだろうが、悪くいえば、融通が利かない。それこそ、どこにでも一人はいるタイプだと言えるだろう。
友達の少なかった俊介にできた友達が如月のような人間だったというのも、必然な気がするほどである。
そんな如月が好きになった女性である典子であるが、もちろん、妹の恵子の友達なので、俊介が知っているのは当たり前だ。
しかし、どんな女性なのかということまで知るわけでもなく、一人でいるところを見ることもほとんどなかった。いつも妹の恵子と一緒にいるところしか見たことがなく、しかも久しぶりに見たので、
「大人っぽくなったな」
という印象はあるのだが、どうも俊介には苦手なタイプであった。
如月の方も、最初に遭って、声を掛けられた日は、さほど彼女のことを気にしてはいなかった。
それは女性として気にしていなかったという意味で、さすがにファンになってもらったら、ファンとしての意識を彼女の中に持つのは当たり前のことだった。
それでも、如月は彼女が帰ってから、考え事ばかりしていて、
「心ここにあらず」
と言った心境は、まさに恋をしている男そのものであった。
俊介は、自分も知り合いが少ないということもあり、如月の様子を最初、どういう新教科分からずに、問い詰めてみようと思ったのだが、それを制したのは、Mスターだった。
「五月雨君」
と言って、声をかけてきたマスターは、その場で軽く睨むような顔をして、無言で首を横に振った。
それを見て、マスターの心境が分かった気がした俊介は、如月に声を掛けるタイミングを逸してしまった。
一度タイミングを逸してしまうと、次はなかなか声を掛けることのハードルを一気に上げてしまったことで、声を掛けることができなくなってしまったのだ。
マスターは、思いとどまった俊介をよそに、自分の仕事を始めた。
「これでいいいんだ」
と自分で納得したからだろうか、そんなマスターの表情を見ると、俊介も同じように、自分が声を掛けなくてよかったんだと思うようになったのだった。
「彼女、どこかのアイドルに似ているような気がするな」
と、典子のことだろうと思うのだが、如月が一人ごとのように言った。
その時、如月という男性が、自分の女性の好みをアイドルの誰かに似ているという意識で見ているのではないかと思い、その感覚に幼稚さを感じたが、まだ大学生と言っても、大人になり切っていない自分たちなので、それも十分にありえることだった。
そんな如月を見ていると、その日だけは別人のようだったが、次に会う時には前の雰囲気に戻っていた。
「典子のことは意識していないのかな?」
と思ったが、それならそれで、少し寂しい気がした。
どうせなら、もう少し気にしていてほしいという思いがあり、
「せっかくならいいものが見れたかも知れないのに、もったいなかった気がするな」
と感じていた。
そんな如月が急に、
「気になる女の子がいる」
と言った時、最初は典子ではないと思ったが、他に候補がいるわけではない、
ここまで来ると、その気持ちの相手が典子であってほしいと思うのは普通の心理ではないだろうか。思った通りの相手であったことにホッとした俊介だったが、マスターの方を見ると、これもほのぼのとした表情になっていて、心の中で、
「それはよかった」
と言っているようだった。
その様子を見ていると、
「ひょっとすると、俺も今のマスターと同じような表情をしているのではないだろうか?」
と感じたのだが、次第にそうに違いないとしか思えないほどになっていた。
「ところで、如月君は、典子さんのどこを気に入ったんだい?」
と聞いたのはマスターだった。
当然、相手が誰か好きな人がいると言った時に、最初の方で出てくる質問である。むしろ、この質問がないと会話が進まないレベルの話で、とっかかりという意味では、当たり障りのない質問だと言ってもいいだろう。
「どこを気に入っている? うーん」
と言って、少し考えているようだった。
それを見て、質問したマスターも一瞬たじろいだ感覚だったが、如月の様子も想定外ではなかったようで、すぐに平静を取り戻していた。
如月は続ける。
「どこを気に入ったのかというと、全体と言えばいいのかな? 最初の日はそこまでの意識はなくて、彼女の方からいろいろ興味を持ってくれているというのが分かったので、こちらも会話をしたかったというのが本音なんだけど、思った以上に言葉が出てこずに、後悔したくらいだったんだ」
というではないか。
これは、俊介にとっては、少し見当違いだったようで、思っていた感覚は、如月に対しては、
「もう少し、ストイックな感じなのかも知れないな」
というのだ。
そして、その後に如月の続けた言葉、何を思ってなのか分からなかったのだが、それも無意識の様子で、
「彼女に、耽美的な美しさを感じたんだよな」
というのであった。
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