第7話 辛辣な批評
だが、小説というのは、思ったよりもハードルが高すぎた、その後いろいろ芸術を考えてみたが、一番最初に諦めたのが、小説だったような気がする、ただ、後から考えて、
「ひょっとして、もしできたかも知れないと思うのは、小説執筆だったのかも知れないな」
とも思った。
小説を書く上で一番何がハードルを高くしたのかということを考えてみた、すると、思い浮かぶのは、
「書き上げる」
ということだった。
そもそも、小説に対しては、
「書き上げることの難しさ」
というものを他の芸術で、最後までやり遂げることを最初から難しいと思っていたのは、小説だったからだ。
だから、
「俺にはできるはずがないんだ」
という思いを強く持ってしまい、書くことができない言い訳を頭の中で抱こうとしていたのかも知れない。
その思いが先に来てしまうと、できるものもできなくなってしまうだろう。つまり、最初から言い訳ありきになってしまうと、すぐに気が散ってしまい、できるものもできなくなる。それが小説執筆における一番のネックだったのだ。
最初からハードルを上げることの弊害を、その時初めて知ったような気がしていた。
結局小説を諦めて、絵画に走った。
絵画は思ったよりも描けていたような気がした。自分では満足のいくものが描けたような気がしていたが、それは他の人の作品を敢えて見なかったことで描けていたのだと思った。
自分の作品がそんなに素晴らしいなどと最初から思っていない、しかし、これは小説と違って、描き上げることができた。それは正直自信であったが、はーづるを上げていなかったことで、今度は他の人の作品を見た時、
「何かが違う」
と感じたのだ。
プロの作品と比較した時にも感じたが、プロではない人の作品と比較しても何かが違っている、その違っているものが同じであるならば、そこは個性として尊重すべきで、自信として持ってもいいのだろうが、何かが違ったのだ。
何がどのように違うのかを説明しろと言われたとしても、それは無理だった。
「それが分かるくらいだったら、もっと、違った感性で描き上げていた」
と思うからだった。
小説というものが、最初の―ハードルの高さがネックになったのであれば、絵画においては、人との比較、そこに自分の個性が感じられるかということがネックとなったのだ、
たぶん、絵画を描いている時、自分が素人なのだという意識をしっかりと持っていれば、諦めるということなく、絵画を自分の中のサブカルチャーとして生かしていくこともできたであろうに、今から実にもったいないといえるのではないだろうか。
ただ、絵画や小説執筆などの芸術を実際にやってみようと思った時、ふと感じたことがあった。
それは、最終的には続かなかったが、どちらにもやっていてふと感じた瞬間があった共通点だった。
小説にしても、絵画にしても、自分が何を求めていたかということである。それが、
「美」
というものではなかったと思うのだ。
美というものは、いろいろな捉え方がある。絵画などは、そのままキャンバスに投影する形で、色であったり、遠近法によるもの、そしてバランスというような、絵画の基本から生まれてくるのだろうが、小説の場合はそうはいかない。
文章で、美というものを表現しようとすると、相手に伝えるには、少々大げさな表現が必要になってくる。
ただ、目の前のものをそのままの描写で表現しようとしても、そこに現れるのは、ただの、
「相手に、情景を想像させるだけ」
ということになってしまう。
それでは小説を書くという意味での結果にはならないだろう、
小説を書く上でできなかったのは、どうやらハードルを上げてしまったからだけではないような気もしてきた。
小説というのは、確かに最後まで書き上げるということがどれだけ難しいかというのが、最初の難関になっていることだろう。しかし、それだけが問題ではない、描写を重ねることでどれだけ相手に伝えることの難しさを知ることが第二の難関であったのだ。
第一の難関は、小説を書く上で、よく言われることであった。特に小説のハウツー本であったり、ネットでの、
「小説の書き方指南」
などという検索で出てきたサイトを見ると、
「小説で一番難しいのは、最後まで書き上げることだ」
と書かれている。
なるほど、この感覚が俊介にとっての、ハードルの高さであり、知らず知らずのうちに諦めに入ってしまうために、言い訳を考えるという逃げに走ってしまうということになってしまった理由なのだろう、
小説を書き上げるためには、いろいろと準備がいる。まずは、書きたい小説の外枠を考えることだ。ジャンルであったり、時代背景、地理的な場面であったり、主人公のまわりの環境、そして、主人公の立場、さらには主な登場人物など、まだまだいろいろあるが、最初にそれくらいのことを考えたうえで、書き始める。
その最初の準備をまとめたものが、いわゆる、
「プロット」
と呼ばれる、小説の設計図のようなものだ。
どうしても、最初はそれを書かずに、書き始めてしまうことで、まったく先に進まなくなって、最初に感じていた、
「ハードルの高さ」
を実感してしまい、最後にはいつものパターンに落ち込んでしまう。それが小説のネックとなった。
俊介も小説を最後まで書き上げることは今のところできていなかったが、プロットまではしっかりと考えていた。
書いてみた内容としては、途中までは納得のいくものだったような気がする、正直書いていて楽しいと思ったくらいだった。
だが、最後に近づくにしたがって、思ったよりも執筆が進んでいない。内容に満足していないというのもあるのだが、最後の締めの部分でそれまで書いてきた内容の辻褄が合っていないことに気づくと、落としどころが分からなくなってきたのだ。
「こんなんじゃダメだ」
と思うと、そこで諦めてしまった。
せっかくそこまで書いてきて、最後まで書き上げることが大切であるということも分かっていたはずなのに、そこまで来て、なぜか諦めてしまったのだ。
それはきっと、
「欲が出てきたからではないか?」
と感じていた。
「ここまで書けるのだから、最後まで書けるはずだ。書けないということはどこかで道を間違えたんだ」
と思うと、それまで少しずつ積み重ねてきたはずの自信が、脆くも崩れ始めてしまうのだった。
それが、まずは大きな間違いで、間違いを意識してしまうと、それ以上進むのが怖くなってきた。
「怖い?」
この思いは小説を書いていて初めて感じた思いだった。
それまで、怖いなどと思ったことはない。怖いということを感じたのだとすれば、ただの趣味であるものに対して感じてはいけないことだと思えてきた。その怖さが、何に対しての怖さなのか分からなかったが、正直、怖いと思ったことに対して、自分が怖くなったというのも事実だった。
それを思うと小説を書いている自分が何に対して興味を持っていたのか、その指針が定まっていないことを感じた。ハードルがさらに上がってしまったのだ。
最初にあれだけ上げていたハードルを、さらに上げてしまうというのはどういうことなのか、やはりそこには、
「もっと上手になりたい」
という欲が出てきたからではないかと思えてきたのだ。
そういう意味で小説を書くのをやめてしまった最大の理由は、
「最後まで書けなかったからだ」
というのは、全体を見た、核心を突いた理由であって、実際に具体的にいえば、もっと奥の深いものだったのだ。
そのことを、絵画を諦めてから、芸術に対して自分がなかなかうまくいかなかったことを思い返してみた時に、初めて気づいたことだった。
小説を書くということと、絵画を目指すことと、どちらも同じくらい、自分には向いていないと思ったのだが、絵画の場合は、小説を書くよりも、少し馴染みがあった気がした。
それは、小学生の頃の図工、中学以降の美術の授業で、デッサンであったり、油絵などと結構、
「やらされた」
という意識が強かったからだ。
どうしてお、学校の授業にあることは、興味のないことは、
「させられている」
という意識が強くなり、自分の意志でやろうとしても、その時の記憶がよみがえり、どこか躊躇してしまうものだった。
そういう意味での学校のカリキュラムを疑問に感じる俊介だったが、
「押し付けなんて、結局何も残さないんだ」
と思ったが、果たしてそうだろうか?
確かに俊介は、押し付けに対しては、反発しかなかったが、他の人は押し付けであっても、やってみると、結構楽しいと感じ、学校の授業の経験から芸術に走る人も多いことだろう。
どちらの人が多いかということであるが、、それが本当に、
「質より量」
ということで片づけていいものなのかどうか、考えてしまうのだった。
中学生までに、
「芸術をやってみたい」
と感じる人は結構いるだろう。
だが、俊介が感じたのは、高校生になってからだった。それが遅いのか早いのかは分からないし、それによって、果たしてできるかどうかというのも怪しいものだ。
それを思うと、なかなかやる気になっても、それを継続させるまでが難しいことは、ハッキリとしているのではないだろうか。
小説と絵画の違いは、一つに、
「奥行ではないか?」
とその時に感じていた。
絵画の場合は、目の前にあることを忠実に描きだすことが、一つの成果になるのだが、小説の場合の描写であったり、写生というものはそれだけではいけない。
確かに情景を思い浮かべるには、単純な描写や写生だけではうまくいかない。そこから先の物語にどのように影響してくるかということを考えながら書くことになるのだ。
時にはないものを付け加えたり、さらには、時間帯を想像して書いたりすることもある。小説を書いていて、最初から最後まで同じ場所でのことなどというと、よほどの短編か、ショートショートでもなければないことであろう。それを思うと、小説を書く上で、その長さが問題になってくるのだ。
「短編なのか、中編なのか、長編なのか?」
それによって、使う時間の幅であったり、登場人物の数も、ある程度決まってくるのではないだろうか、
短編なのに、いきなり時代が何百年も飛んでしまうのは、SFならありきなのだろうが、そうでなければ、無理がある。短編なのに、登場人物が十人を超えてしまうと、今度は描写にもよるが、混乱してしまって、読書の醍醐味である、想像力が生かされないことに繋がっていくに違いないだろう。
そんなことを考えていると、絵画と小説ではまったく違う構成になるのだと、いまさらながらに感じさせられた。
美術の授業と違って、小説を書くということは学校ではすることはない。せめて作文というものがあるくらいで、作文というものは、実際にあったことを、自分なりに見た光景を思い出し、そこに自分の気持ちを書き加えることで表現するものだ。
国語の授業の一環として、生徒の感性であったり、モノの目の付け所というものがどこにあるのかということを学ぶという意味での作文は、重要な教科になっているのだろう。
しかし、想像力を養うという意味で作文はほとんど機能していないのではないかと思った。
だから、小説は難しいものだと、最初からハードルを上げてしまっていたのだった。
小説にしても、絵画にしても、何か共通点があり、その共通点は結界のようになって描けないのではないかと思うようになったが、それは逆にその共通点がなければ、そもそも、描いてみようなどという発想にも至っていないような気がした。
それが何なのかというのをずっと考えていたが、しばらくは分からなかった。ただ、あれは最初に小説を書こうと思った時にことだったか、
「小説を書きたいと思っている」
ということを、大学の近くの馴染みの喫茶店で話した時、マスターが、
「何とか主義」
と言っていたのだが、それが何だったのか思い出せない、
初めて聞く言葉でもあったし、イメージとしては、あまりいいイメージを思いつかなかったので、気にしてはいけないことだと感じるようになっていた。
それを思い出させてくれたのが、ギャラリー「くらげ」のマスターだった。常連客と如月、そしてマスターとの話の中でのことだった。
如月の作品展のちょうど中間くらいの頃だろうか、その頃には俊介も、この店の常連と化していた。
その頃までに結構いろいろな人と話もした。その中には、芸術についていろいろ話をする常連客もいた。
「私も以前は、ここで個展をさせてもらって、あれから他のところでもちょこちょこ、展示させてもらうようになったんだけど、自分の作品は、少し特徴が深いと言われたことがあったので、それをいい方に捉えるか、悪い方に捉えるか、考え方が二つに別れるのよね」
と言って、皮肉っぽくマスターを見ていたが、
「まあまあ、そう言わずに、あなたの作品は、個性があるという意味でそれは素晴らしいことだと思いますよ」
とマスターは苦笑いをしながら言った。
「うん、確かにそうなんだと思うけど、私の作品は以前から、結構辛辣な評価をする人もいたりしてね。怖すぎるとか、どこをどう見ればいいのか分からないとかね言われたことが結構あったんです」
とその人がいうと、
「それは、絵を描く人から言われたんですか? それとも素人の人から?」
と、如月が聞くと、
「どっちもかも知れないけど、やっぱり、素人の人の方が多いカモ知れないな」
と言っていた、
「そりゃあ、素人の方が圧倒的に多いんだろうから、それはしょうがないことだと思うけど、絵を描く人からも辛辣なことを言われたのだとすれば、それをどう取るかだと思うんだけど、たとえば、絵を描く人の中には、人の作品を批判してしまうことで、今度は自分の作品も辛辣な意見が飛ぶんじゃないかと思って、決して人の作品を酷評しない人もいると思うの。そっちの方が多いんでしょうね。でも、中には、それでも言いたいと思う人もいるんじゃないかしら? その人は得てして、相手の作品の中に自分の作品との共通点を見つけてね。その見つけた部分を素直に批評すると、結果酷評になったという。ある意味、どうせ人から酷評されることになるかも知れないんだったら、最初に自分で酷評したいと思ったとしても無理はないよね。しかも自分の作品を自分で酷評するのもおかしいので、自分の作品も含めた気持ちで、敢えてその人の作品を酷評することで、ある意味、自己満足しているんじゃないかって感じるんだけど、都合のいい考え方かな?」
とマスターが言った。
マスターの言葉には、かなりの説得力があった。
「なるおど、そういうことなら、俺も納得するな」
と、酷評されたことを気にしていた本人が、まるで目からうろこでも落ちたかのように、そういった。
「もし、相手が素人なら、それこそ聞き流せばいいんだ。絵画というのは、ただ見ているだけの人には決して分からない奥深さがある。それは、作者の人の感性であり、絵を完成させ、いくつも書いてきた人の中で育まれた、芸術への姿勢。それがあるから、自分の作品を発表したいと思えるのよ。ただ自分で描いて楽しむだけであれば、そこまでは感じない。誰だって、最初はそこから出発しているわけで、絵画という芸術は。そこが他の芸術とは違うところなんだね。だってピカソの絵だって、素人の誰があの絵を見て、素晴らしいと言えるのかと思うんだ、少しでも絵心がなければ、あの素晴らしさは分からない。よほど感性が同じでもなければね」
と、如月はいう。
「そうだね、やはり如月さんは、芸術家だと思いますよ。芸術というものをしっかり把握できていて、人それぞれの感性からできあがっているものだと感じる人は、絵画に限らず、芸術的なものに携わっていないと感じないことだと思います。それが文芸であっても、音楽であってもですよ、芸術と呼ばれるものは、それぞれに違う感性が必要なのだけど、感性というものがどういうものかを、それぞれで尊敬しあっているから、理解できるのだし、自分の中で自信となって育まれていくものだって、思うんですよね」
と、酷評を受けたという常連客が話していた。
「この店では席ごとにノートを置いていて、そのノートに展示作品についての感想であったり、自分なりの評価を書いてもいいことにしてあって、評価というのは、別のノートにしてあるんです。もちろん、展示が変わるとすべて新しくするんですけどね。その感想ノートも評価ノートも作者の人に個展終了後に渡すようにしているんだすよ」
とマスターがいうと、
「ここでは個展を開く人皆ノートを使っているんですか?」
と俊介が聞くと、
「使う人もいれば、怖くてノートを置きたくないという人もいるんです。でも、ほとんどの人がノートを置いていますね」
とマスターが言った。
「やっぱり、個展を開くということだけでも勇気がいることなので、皆さん、せっかく開く個展なので、できるだけの感想や評価をいただきたいと思うんでしょうね」
と俊介がいうと、
「でも、結構怖いものですよ、何て書かれるかと思うと、実際にもらってから見たくないと思いますからね。私の場合は実際にここで個展を開いている時は、見ようと思えば見ることもできるんだけど、怖くて見れなかったですね。最後まで終わってからでないと本当に怖いですよ」
と常連客がいう。
「そうなんだよ。今見てしまって、そこに強烈で立ち直れないほどのことが書かれていると、自分の中で絵描き生命というか、そういうものが縮んだかのように思えるくらいになるからね。せっかく個展を開いてもらっているのに、怖くて、もう個展に来れなくなってしまいそうで、それも怖いと思うことなんだよ」
と、如月は言った、
「だけど、辛辣な批評ってどんなものだったんでしょうかね?」
と俊介が聞くと、少し皆考え込んでいた。
――ああ、訊いちゃあいけないことだったのかな?
と思ったが、すでに聞いてしまったことなので後には引けなかった。
「まあ、いろいろあるけど、言われた中でひどかったのは、吐き気がしたなんていうのもあったね。でも、それはまだマシかも知れない」
と、常連客がいったが、
「どうしてですか?」
と俊介が聞きなおすと、
「それはね、吐き気がするというのは、その人の感情の表れを言葉にしただけで、他の人とは感情が明らかに違っているんですよ。しかも、それを言葉にするというのも、その人が精神的にどこかに闇を抱えているのかも知れないと思うんですよね。普通だったら、言われた相手のことを考えてしかるべきでしょう? それをしないということは、それだけ、病んでいるということなんじゃないかと、却って同情したくらいですよ」
と、常連客は言った。
そして、彼はさらに続ける。
「感情の話を批評に持ち込むのは、心が病んでいるだけではなく、いや、これも病みなのかも知れないんだけど、嫉妬の裏返しなのではないかとも思うんだ。自分にはできないことをその人ができているということで、本当の吐き気は、自分の作品が原因ではなく、その人が感じている嫉妬というものを自分の中で消化できないことが吐き気として、いわゆる自分の性格に対して拒絶反応を起こしているのではないかとも思えるんですよ。もっともこの考えは、かなり自分に都合よく考えているんですけどね」
と言って、笑っている。
その笑顔には余裕すら感じられ、相当辛辣なことを言われていて、ここまで言われると、トラウマになってしまうのではないかと思うようなことでも、それを余裕に変えられるだけの理論に対して、俊介は、
「恐れ入りました」
と思わず心の中で呟いた。
「モノは考え方っていうけど、本当にあなたの考え方はすごいと思います。それだったら、少々辛辣なことを言われても、もうびくともしないでしょう?」
と聞くと、
「そんなことはないですよ、僕だって、言われてショックが尾を引いたこともありますよ」
と、彼は言った。
「それは、どういうことですk?」
と訊かれて、
「耽美主義だといわれたことですね」
というのだった。
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