おしなべて文明というものは水際に現れますものと相場が決まっております。また文明のはじめの萌芽はしばしば小さな火の種でありますこともよく語られる次第であります。水と火は相容れぬものの喩えとされますが、志つのところ両者は非常に近しい関係にあるのです。

 何分互いに隣組同士の間柄でありますから、水の精の恋に堕ちた相手が炎でありましたことも、皮肉とはいえもとより大いにあり得る話ではありました。気紛れな水の精は頻りに洪水や旱魃を起こします大変な悪戯ものでしたが、ひと掬いばかりに掬い上げられまして小さな炎の前に遣られますと、いつもすぐさま恥しさから泡へ姿を変えて逃げ出してしまうのでした。と申しますのもその小さな炎は元々は太陽の輝きの中から生まれ出でました稀なる貴種で、しかもたいそう眩く愛くるしい娘でありました。触れようとするものどもの指先を焦がしたりなど炎なればこその気質の烈しさはありますれども、取り乱し暴れ野山を焼き尽くすようなこともなく、よく己を弁えていつも灰に埋もれるようにし乍ら里の賑やかしを温かく見詰めておりました。そうして、人里寂しい片隅で細々と小さな光を放つ炎の娘の姿を遠目に映しながら、とろとろと闇の中でまどろむのが水の精の何よりの幸せでありました。

 とはいえ想いが募るほど愛するものを手許へ引き入れたくなりますのが情というものでございます。水の精も彼我の特質すら忘れ、ただ小さな炎の娘を手に入れんと欲するようになりました。そして遂に月暉げっこうの眩い夜の最中、愛する娘を拉致しましたのでございました。

 己が腕にしかと掻き抱き水底へと連れ去りますその最中、漸く水の精は自我を取り戻しましたのですが、とき既に遅し、哀れ小さな炎の娘は水の中で小さな銀色に輝く泡となりまして腕の中を擦り抜けてしまいました。慌てふためき水の精はその泡を掻き集めましたが、もはやそれは元の炎の娘の姿とは似ても似つかぬものでありました。忘我の哀しみに打ちひしがれながら、水の精は泡の粒の一つ一つに恰も己の命を吹き込むような長い長い接吻を致しました。するとあな不思議、水の精に抱かれた泡は炎の娘の面影その侭にきらきらと輝いたのでございます。

 それより、月の艶やかな夜になると決まって水の精は泡を掻き抱き、その面影に語りかけながらさよさよと笑いさざめくのでありました。月夜の水面に白い光暉がふわりと浮かんでおりますのは、水の精が何ものよりも深く慈しむ娘のひやりと冷たくなりました亡骸なのでございます。

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