彼女は誰に似ているのか?
吉野茉莉
彼女は誰に似ているのか?
「先生」
遠くから聞き覚えのある声がした。
一人の人間が駆けてくる。
「先生、探しましたよ」
「そうか、探されていたのか」
声の主は円形に設置されたベンチに腰を掛けている私の横に立った。ベンチの中央には樹木が植えられている。こんなところに植える必要はないだろうに、と思ったが、こんなところだからこそ緑を欲するのかもしれない。
目の前の女性は精悍な顔つきで、生まれつき整っているといっていいだろう。もちろん、これはジョークだ。
「それで、どうしたのカムリ」
「他の方は乗り込みましたよ」
カムリは私を見下ろしているのが気になったのか、屈んで右膝をついた。まるで王女に謁見する異国の王子のようだった。
「全員分があるのかな?」
私が前方をちらりと見ると、カムリが言葉を濁して言った。
「数は足りています。ただ、一部が故障をして……」
「では私は遠慮しておこう」
「そうはいきません」
カムリは強く頭を振った。
「では、どのように居残りを決めるつもり?」
「それは、優先度に応じて……」
「優先度? 病弱なら老人が、未来あるなら若者が、働き手なら男が、子を持てるなら女が、どれも古い考えだ」
「それなら、先生はどれにも当てはまります。有能な学者で、女性で、老人で、子どもです」
「ああ、そうかもしれないな」
カムリは比喩表現を言ったのではない。そのような性質ではないことは私が一番知っている。
少女のように細く小さい私の体躯は、長身のカムリの三分の二しかない。年齢は毎年変わるので覚えられなくなった。他の人間も、大体同じではないか。
いや、そうか、カムリはすぐに答えられるか。
「だったら」
「私は後任がいるよ、だから問題ない」
「そうは言ってもですね」
「君は私の命令を聞くんじゃなかったのか」
私が意地悪を言う。カムリが目を細めてあからさまに嫌そうな顔をした。
「貴女に危害が及ぶ場合は別です。私は貴女のボディガードなのですから」
「助手ではなかったのか」
「助手兼ボディガードです」
「そうだな」
「もう、先生。ここでみんなに声をかけてみましょうか? 生命科学の重鎮、人類の寿命を倍にした功労者、アマノ博士がここにいると。誰か譲ってくれるかもしれませんよ」
意趣返しというやつだろう。どうやら皮肉は学習しているようだ。誰に似たのか。
確かに、名声をかき集めればそういうことになるだろう。しかし、そんなことにもう執着はなかった。どれも過去の自分がなしたことの欠片に過ぎない。
私はひらひらと左手を振る。
「やめてくれ。それに、そんな名前に意味はない。価値があったのは、昔の私だ」
「そんなことはありません。これからも貴女は新たな発見をするでしょう」
「じゃあ、未来の私だな。いずれにしても、今の私ではない」
「随分駄々をこねますね」
「昔からだ」
「どうしても嫌なんですか」
「ああ、もう決めたんだ」
カムリがため息をついた。
「どうしてですか?」
「ただ、疲れたんだよ。あとは後任に任せることにした」
「まったく、先生の身勝手さには困りましたね」
カムリが私の左横に腰を掛けた。表情筋を緩めて私を見る。端から見れば、むずがる子どもをあやしているように見えるだろうか。
「君は行きなさい」
手の甲を見せて振り、先に向かうように促す。
「そうはいきませんよ、私は貴女のボディガードですからね。こういうときには付き添わなくてはいけません」
「君はアマノのボディガードであって、もう私のボディガードではない」
「そうですかね、でもあと数十分はありますよ」
カムリが左腕に嵌めた時計を指さした。クラシカルな趣味だ。
「先生がそうおっしゃるなら、私も後任者に任せることにします」
「好きにすればいい」
「そうさせてもらいます」
カムリは膝を組む。
「先生、貴女が私でも同じことをしていたと思いますよ」
「これは面白いジョークだ」
「先生、タバコは厳禁ですよ」
カムリが私の右手を見ながら笑って言った。
「最後の一服だ」
私の指には、火のついたタバコがあった。チリチリと先が燃え落ちていく。
「どこから火を持ち込んだんですか」
今や誰も私に気に掛けるものはいない。注意するのは几帳面なカムリくらいだ。
「そんな方法はいくらでもある。現に、誰かが持ち込んだじゃないか」
「そうでしたね」
カムリがまた笑った。
一流のジョークというのはこういうときに発揮されるものだ。
「カムリ、見立てではあとどれくらい持つ?」
「そうですね、何もなければ、さっき言った通り、数十分だと思います。三十分程度でしょうか」
「そうか、短い人生だったな」
天井を見て煙を吐いた私に、カムリは首を傾げて返した。
「何を言っているんですか。世界でも指折りの老人じゃないですか」
「私の話じゃないよ、君のことだ」
言われたカムリがきょとんとしたあと、何度も小さく頷いた。
「そうですね、命の長短というのは実感できませんが、ああ、そうかあ、短かったのかあ」
「そうだよ」
「じゃあ、次はもっと長く生きなくてはいけませんね」
「君は輪廻信者なのか」
「それもジョークですか?」
「そうだよ」
カムリは楽しそうだ。カムリが楽しいと私も楽しい。そういう感情が私にはある。
「付き合わせしまって申し訳ない」
私はベンチにタバコを押しつけて消した。誰に咎められることもない。どうせ、ここもなくなってしまう。次のタバコを口にくわえる。
「先生でも殊勝なことを言うんですね」
「今の私は言うよ」
「年の功というやつですか?」
「それは差別発言だよカムリ」
「先生の語彙と私の語彙は同じです」
「口に出すかどうかの違いだ」
「昔は褒め言葉だったらしいですね」
「ああ、昔は。それがどんどんダメになった。人種、性別、年齢で人をくくるのは良くないことになった。悪くなったとは思わない。人間はようやくニュートラルに人間に接するようになったんだ」
過去人種や国籍がそうなったように、今や年齢や性別を人に聞くのはタブーとなった。
「昔はね、女性らしさ、男性らしさ、老人らしさ、子どもらしさ、みたいのがあった。もちろん、今も完全に消えたわけじゃない。統計的にどうだ、ということは言える。そうした、らしさ、を選択する自由もある。だけど、それ以上に個人を見る時代になった」
以前は属性で見ていたものを、それぞれが個として見るようになった。属性で偏見を見ることが、役に立っていた時代があった。判断を速くすることが求められていた結果だ。人間はそれだけ時間がなかったのだ。それを取っ払ってしまえば、人間は人間とじっくり付き合うことができるため、偏見でものを見ることの意味が少しずつ薄れてきた。そういう共通認識ができてきた、ということだ。
「それも先生の功績の一つですね」
「また皮肉のつもりかな、カムリ」
カムリは右手を振った。
「いいえ、そういうわけではないですよ。先生のおかげで人間は平穏を手に入れたんです」
「そうだろうか」
「ええ、そうです。なんたってほとんどの病気の治療を可能にしたばかりか、若返りもできるようになって、そして寿命さえ延ばしてしまったんですから」
カムリの発言は事実だ。
私の研究は最初は人間の自然治癒能力の向上だったが、じきにそれは細胞の培養や移植に続き、あれよあれよという間に新発見をして、大規模な実験をして、たくさんの研究者が発展させて、多くの病気を治せるようになってしまった。病気どころかほとんどの傷も修復することができる。腕を失えば腕が、目を失えば目が、元通りになるようになった。その副作用で、人間の細胞を若返らせ、寿命を延ばすことまでできるようになった。
私を天才ともてはやす人がいることは知っている。しかし私は才能や実力があった、とは思わない。単に運が良かったのだろう。新発見など、その時代に合っていた、という運がほとんどを占める。私が二百年前にいたとしても、たぶん何も残せなかっただろう。
全人類にこの技術が行き渡るにはもう少し時間がかかるが、先進国を始め、多くの国でこの医療が取り入れられるようになった。
私は一部の人間がそれを独占することを嫌った。
それが正義だと思った。人々の役に立ちたいと思っていた。若い時代である。五十年は前のことだ。今はどうとも思っていない。あとは政治の問題だ。
結果的に、何が起こったのか。
自分の生命の安全が守られるようになると、人は人に優しくするようになった。攻撃しても仕方がない、という言い方の方が適切かもしれない。大人しくなった、という言い方でもできる。とにかく、大規模な争いがなくなっていった。
それに情報技術の発展で、人々が直接的に接することもなくなり始めていた。小競り合いさえ少なくなっている。少子化は加速しているが、人間の寿命が長くなったのだから、相対的に問題は消滅したとも考えられる。
「ですから、本当は先生にはもっと働いてもらわないといけないんですよ」
「働くのは嫌いだよ。働きたくないという一心で、ここまで来たんだ。人類が労働から解放されることを祈って長寿にしたつもりだったんだが、どうやら思ったより人類は働きたがっていたようだ。これは私の失敗」
「そんなこと言わないでくださいよ」
「ここで愚痴を言うくらいはいいだろう。どうせ全部忘れてしまう」
「そうですね」
「カムリ、外を見てきてくれないか」
「いきなりどうしたんですか?」
「地球が見えるだろうか。どうせなら月よりは地球が見ていたい」
「え、ああ、そうですね、この角度なら見えるはずですよ」
「いや、見てきてほしいんだ」
「……いいですけど」
不満そうに頬を膨らませて、カムリが了承した。
「それに、売店が開いていたらコーラを頼む。お金は持っているね」
「お金は要らないと思いますよ。店番がいたら聞いてみますね」
鼻で長い息をしたあと、にこりと笑みを浮かべると、カムリは立ち上がって小走りで売店に向かった。
その背中姿を見ながら、私はもう一つの功績のことを考えていた。
民間の宇宙ステーション、地球と月を結ぶリレイポイントに私とカムリはいた。目的は一時滞在、別に重要な用件や実験があったわけではない。いわば観光だった。
国際会議を終えてミュンヘンから日本へ向かう途中の極超音速旅客機から乗り継いでステーションに滞在できるというので、寄ったまでだった。
たった一日滞在するつもりだったのが、それがこんなことになってしまった。
カムリが見えなくなって、私は数メートル先に立っている人物に目を向かわせる。
ダークスーツを着て、スカートを穿いていた。良くないことだと認識しながら、私も古い人間だから、目の前の人物を女性だと判断した。便宜的に、彼女、と呼ぶ。
彼女はこちらに向かってくる。
「はじめまして」
正面に立った彼女は、私を見て柔和な声で挨拶をした。
「アマノ博士でいらっしゃいますね」
「君は」
「シズカワと申します。申し訳ありません、今は名刺は切らしておりまして」
「君は、生命倫理委員会の人間だろう?」
「ご推察の通りです」
「それで、用件は? 予測はつくが」
「ええ、おそらく、その通りです。貴女を殺しにきました」
「そうか、それで、ここを爆破したのか」
「はい」
後方で大きな爆発音がした。
カムリが行った方向ではなかったかと一瞬心配になる。
「人のいるフロアに影響はありません」
それを見透かしたのか、彼女ははっきりとした声で言った。
「そうか」
私とカムリがステーションに滞在して、さて帰ろうとした段階になって、サイレンが鳴った。直後、滞在エリアとは反対方向で爆発が起こった。何が起こったのかわからないうちに、ステーションの姿勢が大きく乱れた。私たち以外の人間が脱出ポットに向かっているのが見えた。カムリに連れられて私たちもそちらへ行こうとしたが、ポットのいくつかが壊されているという怒号が聞こえた。
全員は助からない。
それがわかったとき、私は腹を決めた。
私はここで終わりにしよう、と。
あとは後任者が上手くやってくれるだろう、と。
しかし、そもそも、私を狙った爆発だったのだ。
私が死ぬことはともかく、多くの人に迷惑をかけてしまったことは申し訳ないと思う。身体が宇宙空間に投げ出されてしまえば、さしもの技術もどうしようもない。
「それで、ここはどうなる?」
「落ちます」
「どちらへ?」
私の問いかけに、彼女は歯を見せずに口元を緩ませた。
「どちらがご希望ですか?」
「どうせ墓になるなら、月がいい。地球を見ていられる」
「前向きに善処いたします」
「頼むよ」
カムリにコーラを頼んだのと同じ気軽さで私は言った。
「貴女が一番に逃げなくて何よりです」
「私が死んでも何も変わらない。誰かが研究を引き継ぐだろう」
「我々はそうは考えておりません」
「他の人間は」
「犠牲になるのは貴女だけです」
私以外にカムリもいるのだが、それは勘定に入っていないのか、存在に気が付いていないのか。
「わざわざこんなときに狙わなくてもいいじゃないか」
「ここは電波が細いものですから。こういうときをずっと狙っていました」
「とどめを刺す必要はない。私は放っておけばすぐに死ぬ。それより君も逃げた方がいい」
「いいえ、確実に、脳を打ち抜かせていただきます。脳さえ残っていれば再生されるかもしれませんから」
そう言って、彼女が引き金を引こうとした。
「先生!」
コーラのペットボトルを持ったカムリが飛び出してきて、シズカワに突進をした。不意を突かれたシズカワが壁際まで飛ばされる。
弾丸が天井に当たって跳ね返った音がした。
「大丈夫ですか、先生!」
背のないベンチで後ろに倒れそうになった私をカムリが抱き起こす。
「ああ、大丈夫。今は開けられないね」
私がペットボトルを指さすと、カムリは眉をしかめた。
「もう、何を言っているんですか!」
「彼女はなんですか?」
「生命倫理委員会だよ」
「あの……」
カムリが顔を曇らせる。
「貴女のそばにいて三年、ようやく出てきたんですね」
「そうなるね」
生命倫理委員会は人間は自然のままに生きるべし、という標語を掲げる集団で、つまりは、私の研究、開発した治療方法などに反対している組織だ。
一般的にはテロ組織とみなされている。人間重視の組織だからなのか、殺傷することを極端に嫌っていて、もっぱら研究施設などを破壊している。
シズカワが起き上がってきた。
「貴方は……」
「アマノ博士のボディガードです」
「今の力、やはり貴方はアンドロイドですね」
カムリを睨んで、シズカワは銃口をカムリに向けた。
「はい、そうです」
生命倫理委員会にとって、私は目の敵、悪の首謀者、総本山といったところだろう。殺傷をしない委員会の例外なのか、私は命を狙われているわけで、ボディガードとして用意したのが目の前にいるカムリだ。三年もの間、何もなかったので、ついに私は役割を忘れていたのだが、カムリはきちんと私を守ってくれた。
「アマノ研究所所属、生活支援型アンドロイド、ネーム『カムリ』です」
「そんなことは言わなくていい」
「偽ることはできません」
カムリがシズカワから目を離さず、私を後ろに移動させる。
「ああ、すまない」
アンドロイドは自らを人間と詐称することはできない。自己紹介で言う必要はないが、貴方は人間か、と問われれば、必ず違う、と答え、所属を答えなければいけない。そういうプログラムをされている。
「アマノ博士、貴女はどこまで」
シズカワは私に生命を愚弄するな、とでも言いたいのだろう。
アンドロイドはまだ一般に普及していない技術で、量産はされていない。なぜなら、アンドロイド、私が開発したそれは、機械式ではなく、すべてが人間と同じ生体パーツで構成されているからだ。一定年齢の容貌まで促成させることができるが、そこまでだ。だから大量にはできないし、そもそも、アンドロイド一体よりも人間一人の方が安い。
彼らにとって、神の真似事といえるアンドロイド技術も駆逐すべき悪の技術であるはずだ。
これが、私のなしたもう一つの功績だ。
「下がっていてください、先生」
カムリが右手で背後にいる私を庇う。
その手から私はコーラを受け取った。
「静かにしていてくださいね」
落ち着いた声でカムリが言った。
カムリの脳内には記憶用のチップが埋め込まれていて、それで様々な知識をインストールする。それ以外は、実地で覚える、人間と変わりない。人間よりも有利な点は、記憶力が格段に良いこと、運動能力が高いことだ。もっとも、それだけでほとんどの人間よりもアドバンテージがある。
だから、まだ社会には受け入れられていない。ロボットの反乱のような、古い創作物の影響をいまだに受けているのだ。
生命倫理委員会のような極端な意見の持ち主ではなくても、なんとなく怖い、という理由で多くの人間によってアンドロイドは忌避されている。
アンドロイドは温和で憎しみを持たず、所属主に対しておおむね従順であるように思う。もちろん、生まれるときにそういう設定がされているからだが、私に言わせれば、大人しくなった近頃の人類よりも更に大人しい。
「先生は隠れていてください」
「させません!」
シズカワが拳銃を構えた。
「カムリ!」
避けるではなく、カムリはシズカワに向かって駆けていった。
そのまま弾丸が放たれる。
カムリがよろけた。
顔の前に右手を出していたおかげで、腕に弾が当たっただけで済んだ。
カムリは倒れることなく、シズカワに向かっていく。
無言でシズカワの前までいくと、カムリは怪我をしていない左手でシズカワを殴った。
シズカワはその場に崩れる。
シズカワは完全な生身だった。生命倫理委員会の構成員全員がそうなのかはわからないが、身体に機械的な処置を施していないらしい。
「カムリ、武器を取り上げてくれ」
私が言うまでもなく、カムリはシズカワの拳銃を奪っていた。
シズカワは起き上がって、私を見た。
「降参してくれるとありがたいのだけど。今ならまだ君は逃げられるのでは? 意味のないことはやめよう。命を捨てるのはもったいないよ」
「私たちは、目的のためには命を惜しみません」
「不思議な思想だ」
命を延ばすことに反対して、そのために命を投げ捨てるのを良しとするのはにわかには信じがたい。シズカワは処置をしていないのなら、かなり若く見える。そんな人間でも考えるようなことなのだろうか。しかし、自分の命をどう使うかは自由だろう。自由だから、多くの人が延命を望んだ。
「貴女にはわからないでしょうね、一部の国の人間が寿命を延ばし、処置を受けられない弱小国から更に略奪していることを」
「エネルギーの問題? そうだね、それは、わからない。時間が解決すると思う」
シズカワの意見を素直に認めた。
「わかってもらわなくて結構です」
シズカワが胸からさっと丸いものを取り出す。
ピンを抜いて発動する古いタイプの爆発物だ。
「色々持っているなあ」
こんなものをよく持ち込めたなと感心してしまう。
シズカワはそれを投げなかった。カムリに弾き返されてしまうと考えたのだろう。
シズカワは、ピンを抜きながら、私たちの方向に走ってきた。自爆をするつもりだ。シズカワを捕まえようとしたカムリの横をすり抜けていく。私とカムリでシズカワを挟む形になった。
カチリと音がした。
次に感じたのは、強い風。
そして、熱。
カムリを道連れにしてしまったのには少し後悔した。
しかし痛くないならそれに越したことはなかった。
ただ、まあ、あとは後任者がなんとかしてくれるだろう。
私は自宅で目を覚ました。
ベッドから起き上がり、よたよたと歩いて冷蔵庫を開ける。そこからコーラを取り出して、渇いた喉に押し込んだ。
目がゴロゴロしていたので目薬をする。
背伸びをして、身体を整える。
体調は悪くない。
悪くない、ということは、大体良い、ということだ。
服を適当に見繕って着替える。
テーブルの上に置きっぱなしだったリンゴを手に持つ。
そのまま家のドアを開けた。
自宅から研究所までは両脇を芝生で覆われた十数メートルの小道を歩いたすぐ先にある。直結しても良かったのだが、頭を切り替えるためにわざわざそういう造りにした。
研究所の白いドアを生体認証で開ける。
中央のフロアで、見知った顔を見つける。その細くしなやかな体躯をした少女が丁寧にお辞儀をした。
「どうもここ数日の記憶がない」
「そうですか、寝ぼけているんですね、先生」
私が頭を掻くと少女が胸元に近づいて訴えるようにじっとこちらを見上げた。少女の身長はかなり低く、私の胸ほどしかない。
見た目はカムリではない、『私』そのものだった。
「何かあった?」
「『私たち』が起動しました」
カムリは私が完成させた特別なアンドロイドで既存の人間の記憶を移植することができるのだ。
別個体への記憶の移植の成功例はない。私のようにどこにも発表していないという可能性は大いにある。私ができるのだから、他にもできる研究者がいてもおかしくない。
だが、記憶移植技術には完全に成功したかどうか誰にもわからない、という大きな欠点がある。記憶のすべてを調べることができないからだ。
それが自分なのか、あるいは他人なのか、という問題もある。世界的にはまだ決着がついていない。今のところ、法律的には認められていない。問題の多くは政治的なものである。
そもそも治療により病が取り除かれ、寿命が延びた世界において、大金をかけて自分と同じ記憶を持つものを造る必要がどこにあるのか、というわけだ。
つまり、この辺りの技術はほとんど道楽に属する。
ただ私は実験として、私の記憶を二体のアンドロイドにバックアップしていた。一体はアマノの若い頃と同じく、もう一体は予備としてカムリと同じ素体にしていた。私に何かあればそのアマノのバックアップが動くということだ。かわりにカムリに何かあればカムリのバックアップが動く。
だが、二人が同時に起動した場合は?
当然それぞれの役割を引き継ぐのだろうか、生前のアマノはどのように設定したのだろう。
「私、たち?」
「そうです、貴女もです」
ああ、私もアンドロイドなのか。
私が人間である必要はない。アマノという研究者が存在していればそれでよいのだ。私にはこだわりがない。よって、誰も文句を言う人間がいない。
「アマノはどこで死んだの」
「はい、おととい、宇宙で」
少女、彼女をなんと呼んでいいかわからない、が指を立てた。私がその方向を見るが、何の変哲もない白い天井があるだけだった。
「倫理委員会?」
「たぶん、そうです」
わずかに少女が頷いた。
「たぶん?」
「引き継ぎに失敗しています。通信環境が悪かったのでしょう」
「ああ、だからか」
「はい」
ここ数日の記憶が曖昧なのは、記憶の同期が取れていないからだ。数日分の記憶がロストしてしまった。予定が国際会議だけだったから、大して影響はないだろう。この間に有益なひらめきがあった場合は別だが。
オリジナルは死んでしまったようだが、私が生きているのだから、何の影響もない。
「まあいいか」
「そうでもありません」
カムリが手のひらを伸ばして私の目の前まで上げる。手のひらに乗せられた投影デバイスが立体的な映像を浮かび上がらせる。
そこの文字情報があったので目で追った。
宇宙ステーションでテロ。
死亡者は二名。
一人は国際的生命科学者アマノ博士。
もう一名はシズカワと名乗っていた女性、テロ関係者と思われる。
「これはどうしたものか」
アマノは対外的には死んでしまったことになる。
自分たちがどうであるかにかかわらず、世間的には死んでしまったのだろう。社会のことなんてまったく考えてもいなかった。いや、ひょいと姿を現せばそれでよいのか?
「カムリが入っていない」
「カムリは手荷物扱いです」
「それは酷いね」
何の気になしに言った少女に、私が感想を言った。
「オリジナルから伝言があります。受信できたのはこれだけでした」
「なに?」
少女がその小さな口を大きく開けた。
メッセージを口頭で伝えるつもりらしい。
「『あとはよろしく』」
「これは、逃げたな」
「はい」
苦笑した私に、少女がすぐさま肯定した。
オリジナルは少々壊れていた。自分の記憶を持つアンドロイドを二体も用意していたのだから、常人ではないことは違いない。そういう機会を待ち望んでいたのかもしれない。もっとも、私もアマノであるなら、引き継いだ私にも同じ気持ちがある。身体が替わっても、それは変わりようがない。
生き続けることに疲れてしまっている。
生きることは、安定していない、エネルギーの使うことばかりだ。
生まれたばかりの私が言うのもおかしいかもしれない。
まあ、何度も死ぬことができるというのも面白いのかもしれない。
「どうしようか、えーと、カムリ?」
「私が決めることではありません、先生」
アマノにならなかったカムリが私のお伺いを一蹴した。
「それってもしかして皮肉?」
「いいえ、私はカムリです。皮肉は言いません」
無表情のまま、私を見つめてカムリが言った。
「ずるいなあ。でも研究所は引き払わないといけないのかな。引き払うというか、誰かが勝手に処分してくれる、ということになるだろうけど。そのあとは、そうだな、知り合いの研究者にかくまってもらって、研究の続きをすることにしようか」
「そうですね、アマノ博士なら引く手あまたです」
私が生きているとわかれば、誰かが雇ってくれるだろう。悲しいことに現代になっても人間には食い扶持、つまり仕事が必要だ。ただ、研究者としてならオリジナルであるかどうかは問わないはず。重要なのはアマノの知識を持つものだ。少なくとも、研究者ならそう考えるだろう。
「引く手あまた? また古い表現だね」
「先生と同じ語彙を共有しています」
「そうだった」
起き上がるまでは私とカムリは同じ知識を持っている。それから時間をかけて少しずつ記憶が分岐していくことになるのだ。
「あれ、それじゃあ、カムリがアマノとして就職してもいいね。姿はアマノだし、その方が通りがいい」
「それは困ります、先生」
「どうして?」
「私も先生と同じように働きたくないからですよ」
「ああ、そうか」
アマノはほとほと働きたくない人間だった。
それは記憶を引き継いでいる私もカムリも同じだ。
「あれ」
「どうしましたか、先生?」
「君がアマノで、私がカムリという可能性がない? というか、見た目的にはそれが自然なのでは?」
「……そんなことはありません」
カムリが言葉を濁した。
「今一瞬迷ったね?」
アマノがカムリの振りをしているのか。
「それよりも次の個体を設定しましょう」
カムリがあからさまに話を切り替えた。
「あ、話を逸らしたね」
「いいえ、そんなことはありません。押し問答をする必要はないのではないでしょうか」
「うーん、言いくるめられている気がする」
確かに、アマノならそういう策を取る気がする。アマノの記憶を持っている私ならまずそうするだろう。
「君は本当にカムリ?」
「ええ、アマノ研究所所属、生活支援型アンドロイド、ネーム『カムリ』です」
少女はお決まりのワードを淀みなく答える。
「貴女は、本当にアマノ?」
カムリが私に質問をした。
「……どうだろうか、記憶はアマノだけど。あれ?」
自分がカムリと同じ言葉を反復しなかったことに驚く。私がアンドロイドであるならば、問いかけにきちんと反応するはず。
「その設定は外しておきました」
「そうか……。アマノはそういうことができるのか」
自分の設定を覆せるなんて、アマノは頭がいいのか、意地悪なのか。もちろん、私が先に起きていれば同じことに思い至っただろう、『アマノにはなりたくない』と。先に起きた場合、自分をアマノにしないよう動くのではないだろうか。
「その通りですね、先生」
カムリは、勝ち誇ったように笑った。
「こういうのは、なんて言うんだっけ?」
「早起きは三文の得、です、先生」
「古い言葉だ」
「とにかく、今は自由ですよ、先生」
「ああ、そうだったね。それじゃあ旅行にでも行こうか。カードは使えないから、現金が使えるところじゃないといけないけど。飛行機には乗れるだろうか、近場じゃないといけないかもしれないね」
「そうしましょう、先生。早速準備をします」
おおむね話がまとまったところで、旧アマノと同じ顔をしたカムリが嬉しそうに手を叩いて、ちょこんと飛び跳ねた。カムリが嬉しそうにしているのを見て、私も嬉しくなる。私にはそういう感情がある。だとしたら、やはり私がアマノだろうか。
「車を用意してくる」
「わかりました、先生」
「カムリ、君は手荷物だからトランクだよ」
彼女は誰に似ているのか? 吉野茉莉 @stalemate
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます