第四話 ハチノジ

 その日の学校は早退した。

 毎朝ランニングをしていたおかげで、息は絶え絶えになったが病院へ真っ直ぐ辿り着き、そのまま病室へと急ぐ。


「……っ」


 そこには、命だけは助かった子供が、深すぎる眠りへと沈んでいた。

 打った場所が悪かったらしく、意識は未だ戻らない。

 脳や脊髄が損傷している可能性があり、最悪目覚めないかもしれない、と。


「……」


 生きているだけで、ここに居てくれるだけでよかった。

 片道一時間走ろうとも、毎日会えるならそれでいい。


「……一、一、二、三、五、八」


 ただ眠り続けるだけの姿は、ときおり彼女が読んでいた絵本の姫のようだった。

 この人工呼吸器を外して接吻せっぷんすれば、目覚めて結ばれるのだろうか。


「一、一、二、三、五、八」


 お金、どうしよう。

 天涯孤独の子供は治療費なんて払えないし、借金することになるのかな。それとも、さっ処分になるのだろうか。


「一、一二、三、五八」


 これだけ毎日走れば、虐められないくらい体力が付くだろうな。

 寝ている彼女は本当に可愛らしい。

 こんなことならラジオで競馬の結果を覚えておくべきだった。


「一。一。二。三。五……八!」


 違う。俺が為すべき事は、奴への復讐だ。

 なにがループしていない、だ。関係ない、どんな状態だろうとも、アイツが居るから俺たちは幸せになれないんだ。

 どうしてお前を想っていた莉世が、こんな目に遭わなければならない。


「え、何この子?」


「ぼく、頭のお医者さん行く?」


 思い出せ。あの屈辱を。

 そして何十年とかけて練ってきた、奴へ復讐するための手段を。


〜〜〜〜〜〜


 ある日、俺は大人への立ち振る舞いを覚えた。


「先生、手伝いますよ」


「はいはい、これ頼むね」


 最初はひだまり園出身なこともあり気味悪がられたが、段々と俺は名誉を手に入れていった。


〜〜〜〜〜〜


 またある日、俺は愛嬌を覚えた。


「おいゴブリン、宿題の解き方おしえて!」


「へへっ、あっしは勉強が苦手でやんすがねぇ〜」


「でもテストいつも百点じゃん!」


 この醜い顔も笑いのネタへと変えてやったおかげで、立場は以前よりも圧倒的に良くなった。


〜〜〜〜〜〜


 今まで積み上げてきたものは全て無駄ではない。

 バイトの経験も、親に殺された経験も、難関校に受験した経験も。

 全て注ぎ込み、ようやく人並みの生活を手に入れられた。これを人生初見でやれというのは、あまりにも酷が過ぎるだろう。


「莉世。やっと、俺は人並みになれた気がするよ」


 三年生になっても、いまだ目覚めない彼女の手を取り、撫で、言葉を投げかける。

 やっと彼女に胸を張れる男へと近付いてきた。だからこそ、この姿を誰よりも見てほしかった。


「……友達もできた。アイツほどじゃないけど、地位も築けてきている」


 裏では復讐の段取りを進めている。色んな人に聞き込み、ナナセフーズの周りへ足を運び、調査だってしている。

 情報整理や人脈構築にかけた二年間なんて、奴に虐められ続けた時間に比べれば屁みたいなものだ。


(ちょっと掘り下げれば、色々と出てきた。なんで早くにやっておかなかったんだろう)


 なにせ、俺の繰り返してきた人生の集大成なのだから。アイツの人生をぶち壊すほどの火力があると自負している。

 ……だが。


「……やっぱり、やらないほうがいいよね」


 最後の一歩は、どうしても踏み出せなかった。

 奴の邪魔をのらりくらりと躱しながら、何とかやれてこれているんだ。

 いまの生活で良いだろう。十分幸せに近付けているんだ、妥協すればいい。


「……一、一、二、三、五……」


 ダメだ。どうしても、8まで行かない。

 数字の8は、永遠に続く。ゼロではない数では唯一、無限に進み続ける文字だ。

 一歩が踏み出せない以上、ハチノジを口に出すことも怖くなっていた。

 いや、やらなきゃいけないことはわかってる。でも躱せているなら、それでいいだろ。


(俺が幸せに生きるのが、アイツへの復讐になる。そう思うことにしよう)


 やっぱり俺はチキンだ。臆病だ。

 だけど……これをやったら、関係ない人まで巻き込んでしまう可能性が高い。

 我儘な少女への復讐だけのために、そこまでする必要なんて。


「やっぱりイヤ!」


 ガキの声が廊下から響く。ここは病院だぞ?


「しかし、やってしまったものは仕方ないだろう。形だけでもいいから、謝りなさい」


「ワタシ悪くないもん! アイツが反省しろー、だなんて言うから、ちょっと押しただけなのに!!」


 七瀬、美香……!


「それがいけなかったんだろう。私も、あんな親も居ない貧乏人に時間を割かなければいけなくなったんだ。美香も付き合いなさい」


「だからぁー! ワタシ、悪くないって、言ってるでしょーがー!!」


「あ、こら!」


 立派な背広を着た男が、やれやれと言った様子で娘をゆっくり追いかける。

 優雅だな。俺でもわかる。良い教育を受けて、良いものを食って、良い環境で生き続けてきたんだろう。


「――」


 そうか、そうか。これは親も悪いな。

 親もだし、そこで働く人間も。思い返せば、俺の父もそうじゃないか。


「8」


 もう俺は止まらない。人生四周分、数十年も積み重ねた怨恨を解放する。


〜〜〜〜〜〜


 それから一週間後。


「なっ……なに、これ?」


 教室に詰め込まれていたのは、女王気取りのクソガキへ向けられた正義あくい


「うそ……こんなのデマよ!!」


 ナナセフーズが抱えていた闇に対する非難。

 そして、その社長令嬢への罵詈雑言だった。

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