第10話:空に憧憬

「あっち……!」


 気づいて、カノンは走り出した。


 彼女は家の間を縫って進む。

 道の先からは鉄のような匂いが漂ってきて、顔をしかめる。


 それからしばらく走ると、見えた。


 一人の男と――そして、その腕に抱えられたスイル。


「っ!」

(スイル……!)


 声を殺し、心のなかで驚愕する。


 そして、辺りには数人の男達が倒れ込んでおり、どうやら無力化された『武力集団』とやららしかった。


 そして、血の匂いは彼らや、また右の方に広がっている数人の死体の下にある血溜まりから発せられるものだったようだ。


(っ……! 人が!)


 しかし、それらの死体は武力集団と同じ格好をしているため、警察が撃ち殺したものなのだろう。

 一瞬吐き気がするが、なんとか耐える。


 彼女は物陰に潜みながら、なるべくスイルの方を近づくために左の方から警察にも気づかれないようにして男の方へと近づいた。


「お前は包囲されていると言っているだろう! 早くソイツを離せ!」

「い、嫌だ! 待て、動くなっつってんだろ! そ、そしたらコイツを殺す!」

「クソ野郎が……!」


 警官、犯人共に汚い怒号を飛ばす中、一部の市民はその脇や家の窓から野次馬根性で覗き見をしているようだった。

 一方、スイルは泣きそうな顔でキョロキョロと辺りを見渡していた。


(早く助けなきゃ……! でもどうやって……?)


 必死に考える。今すぐ飛び出たい気持ちはあったが、それをしたところで自分には何もできない。


 ――その時、一人の市民が動いた。

 ダッ、土を踏む音が聞こえて、彼は駆け出した。


「お、俺が英雄になるんだッ!」


 それは、助けに行くというよりは、まるで犯人を突き飛ばそうとしているかのようで。


「――何ッ⁉ や、やめろ!」


 警察が必死で引き留める。


 その愚行は、犯人の意識の隙間をくぐり抜けてしまった。

 そして刹那の後、二人を崖へと突き飛ばした。


 犯人は驚愕と恐怖を浮かべ、スイルは何が起きたかさえ分かっていないように見えた。


 ――それとほぼ同時、カノンは走り出した。

 そこに迷いはなかった。自分が飛べない、なんてことはもう頭になかった。


(行かなきゃ――!)


 驚く警官をよそに、崖へ突き進む。


 大丈夫、何度も練習した。やり方なら、何度も調べた。

 私ならやれるはず。


 あとは、勇気を振り絞るだけ。


 翼を曲げる。


 地を、蹴った。

 手に持った警棒は、既に手から零れ落ちている。

 着ていた上着も、まるで殻を脱ぎ捨てるようにして落ちていった。


 翼を動かし、一瞬ふわりと浮く。慣れない浮遊感と、絶妙に制御できない体に焦りながら、彼女はスイルを視界に捉える。


 翼を動かし、くるりと体を曲げる。

 スイルが見えた。犯人の手からは逃れ、一人下に落ちている。


 凄い速度で下に落ちながら、その息苦しさに困惑する。

 だけど、ただ彼を助けたい。その一心で彼の元へ向かう。


(動いてよっ……! 私の翼!)


 初めての飛行で上手く動かない翼を無理やり動かして、横に加速する。

 あと地上までどれくらいあるのか。そう思って地上をちらりと見るが、この速度で落ちていてはもう一瞬もないように見えた。


 焦りも恐怖も、全て無視して彼女は空を駆けた。


 横へと加速した体は、まるでスイルを横からかっさらうようにして救い出す。


 同時に涙を引き、ぎゅっと瞑っていた彼の瞳が驚いたように見開かれた。


 一度速度を落としてから、今自分の手の中に居るスイルを見つめた。

 興奮と緊張で高潮した顔に、満面の笑みを浮かべてカノンは言った。


「はぁ、はぁ……スイル……助けに来たよっ!」

「あ、え……いや、なんで飛べ……ていうかなんでここに……」


 まだ困惑していて、さらに涙目になっているスイルはしどろもどろになりながら訊いた。


「私が、飛べたから……!」

「え、まあうん……そうだね?」


 困惑しながらも、どこか嬉しそうに彼は笑った。


「ゆ、夢じゃないよね? さっき僕、崖から落ちて、そのまま――」

「違う。私が助けたから、大丈夫。飛べたって行ってるでしょ?」


 カノンは笑った。

 すると、さっきまでこわばっていたスイルの体から力が抜けていくのが分かった。


「あ、ほんとにそうなんだ……良かった。」


 それから、急にその瞳から涙が零れ落ちた。


「ご、ごめん。なんかさ、カノンさんが助けてくれたって思ったら安心して――」


 泣き笑いを浮かべるスイルを見て、カノンは少しくらいでも与えられたものが返せたかな、と嬉しくなった。


 でも、なんだかやっぱりまだ物足りない気がした。

 カノンはもっと上へ、もっと空へ向かいたいと思った。


 スイルも、空に届きたいと願っていたんだから、いいよね? と自問自答する。


「――ねぇ、もっと高い空が見たくない?」

「た、高い空? まあ空は見てみたいような……」


 絶妙にすれ違っている会話。けれど、カノンはそんなことすら認識せずに行動に移した。


 返事もせず、一気に翼に力を込める。

 その体は恐れも心の痛みも、何もかも振り払って上へ上へと飛び上がっていく。


「う、うわぁっ!」


 スイルは驚き、縮こまる。


 気がつけば下にある木々も人々も米粒になるくらい小さくなっていた。

 向こうにある白い霊峰も、ぐんぐんと抜かして空まで進んでいく。


 スイルは、次々と移り変わる周りを見て、思わず息を呑んだ。


 しばらくすると、カノンの体は止まった。

 この誰も居ない高い高い場所には、バサバサという彼女の翼が動く音のみが響いていた。


 雲にも届きそうなこの高い場所では、天を焼くような茜色に染まる水平線がよく見えた。

 きっと、二人はこの夕日を他のアルタストに居る誰よりも先に見ているのだろう。


 風は冷たく、とても寒いはずなのに、体が熱くて、心が熱かった。

 うるさいくらいに心臓の音を感じながら、カノンは肩で息をする。


「綺麗……」


 思わず、スイルはつぶやく。


「空――届いたでしょ?」


 嬉しそうに笑いかけた。


「うん、そうだね――そうだ」


 同じく少し紅潮した顔を向け、噛みしめるようにスイルは繰り返す。

 届かないと思っていた空に届いた。


 そしてこの景色を見ていると、なんだか自分の才能がどうとかすらどうでもよくなっていくような気がした。


 カノンはふぅ、一息ついた。


「――ありがとう、スイル。昨日、私を助けてくれて」

「いや――ていうか、今僕が助けてもらってる最中でしょ」


 くすくす、と彼は笑う。


「あははっ、そういえばそうだね。じゃあ、これでお返しだね!」

「うん……うん? まあ、そうだね」


 スイルは一瞬困惑しながらも返す。


「――ねぇ、スイル。私あなたのこと好きかも」

「へっ? ……それはその……異性的な意味で?」


 思わぬ言葉に、疑問の声を漏らす。


「えへへっ、どうだろうね。どんな意味でもいいよ。スイルが好き」


 カノンは紅潮こうちょうしたまま少しいたずらっぽく笑ってみせた。


「そういうのは……ダメでしょ」


 今度は興奮とは別の感情で顔を赤くしたスイルが顔をそらした。


 カノンは、再度目の前に広がる空に目を向けた。

 何度も憧れてやまなかった空、その上に自分は居る。


 肌に当たる寒い風が、すぐ上に広がる雲が、紅く染まった水平線が、まだ少しだけ暗い空が、その憧れていた全てを今、手にしている。

 そう考えると、どうしようもないくらい嬉しかった。


 確かに翼があるから、諦めきれなかった。翼があるから、期待された。

 だけど、今ついに自分はそこに辿り着いた。


「私――飛べたよ」

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