第9話:事件

 窓から差し込むガス灯の光だけが頼りの、少し暗い部屋のベッドに倒れ込んで、机とランプ以外何もない部屋を見渡す。


(……家以外の場所で寝るのって、いつぶりだろ)


 いつもと違うベッドの感触を感じながら、仰向けに寝転がる。

 静かな家の中には、いつもの喧騒は聞こえなくて。


 本当に、自分はあそこから逃げられたんだと実感が伴った。


「あ……」


 すると、はらりと涙が流れた。

 安心して肩の力が抜けてしまったのだろうか。


 彼女は、その雫を裾で拭った。

 今はただ逃げているだけだと分かっている。二人に助けてもらっているだけだということも分かっている。いずれ両親のもとへ戻らなければならないことも分かっている。


 だけど、今は少しだけ、寄りかからせてもらうことにした。


(……でも、スイルにはまだありがとうも言えてないな)


 ラグスにはさっき言ったし、連れて行ってもらったときも言った。

 だが、そういえばまだスイルには言えていない。


 あれだけ助けてもらったのに、それすら言えないのは申し訳ない、と思った。


(でも……優しかったな)


 優しいというか、包容力があるというか、安心感があるというか。

 とにかく、スイルのそばにいると安心できた。


 そして、それが友人に向ける感情とは異なっていることくらいは自覚していた。


「んふふ……まあでも、いいよね」


 若干頬を赤く染めながら枕をぎゅっと抱きしめて、彼女は細かいことは忘れて睡眠欲に身をゆだねた。


 ◇


 ――だが、結局はぐっすり熟睡というわけにはいかなかった。

 朝の四時頃。


 外はまだ暗いが、あと一時間もしたら明るくなるだろうか。

 もう寝るにも起きるにも微妙な時間帯だ。


 そんなものだから、彼女は何をするでもなくベランダに出ていた。


 肌を撫でるひんやりとした風を感じながら、あの遠い遠い向こうにある、全てを飲み込んでしまいそうなくらい真っ暗な闇へ手を伸ばす。

 キラキラ光る白星が浮かぶ夜空の中に、今は月は見えなかった。


 何度憧れたかわからないあの空には、未だ届かない。

 けれど、分かったことが一つあった。


「……飛びたい、な」


 保護された時、ラグスに訊かれた。

 『自分に問うてみろ。おまえは、飛びたいのか?』と。

 カノンは考えた。そして、答えは『飛びたい』だった。


 私には、まだ翼があるのだから。

 確かに、翼があるせいで苦しかった。だけど、私には飛ぶ『才能』は確かにあるのだから。

 カノンは思った。


 飛びたくない、と思っていたのは幻想だった。

 自身にあるのは、言葉では表しきれないほどの空への憧憬。


 あの心地よい春風の吹く太陽が輝く空に、少し肌寒い夜風の吹く月の浮かぶ夜空に、飛び立ってみたい。

 だけど、怖くて飛べない。

 それだけの話だった。


 手を引いて、自身の胸に当てる。


(私は……飛びたいんだ)


 そう思うと、この翼にもちょっとくらいは自信が持てるような気がした。

 それに――


「綺麗って、言ってもらったし」


 ふ、と笑って彼女はもう一度リビングに戻ろうとした。


「――ってる? 向こうでテロリスト――」


 だが、その時話し声が聞こえた。

 地面はよく見ていなかったので気づかなかったが、どうやら二人組が居たらしく、話をしているらしい。

 他に人は居ないが、逆にそのせいで話が響いている。


「えぇ⁉」

「――大きい!」

「ごめ――れで?」


 テロリスト、というとこの前母が呟いていた『街中で大量の武器がどうこう』という話があっただろうか。

 少し怖いなぁ、と思いながら彼女は踵を返そうとした。


 しかし。


「市長の息子――人質」


 噂話をしながら、その女性は市長の家のある方角を指差した。そういえば、スイルは市長の息子だと言っていたはず。なら、そこに住んでいる。

 ――つまり、スイルが人質になった可能性がある。


 カノンは背筋が凍った。


 確証はない。ないのだが――


(助けに、行かなきゃ)


 一瞬でも、もしかしたらスイルが人質になってしまっているのかも、と思ってしまった。


 だけど、聞いてしまった以上、居ても立っても居られなくなった。


 急いで一階に降りる。

 この服装だと少し肌寒い気がして、ちょっとタンスの方を見て上着を羽織った。

 一応、こちらも着ていいと言っていたし大丈夫なはずだ。


 玄関から外に出ようとして、視界の端に見えた警棒が目に留まる。金属光沢のある鈍色にびいろの縄のマークが入った、その黒い警棒だ。


 それは、いつも勝手に危険な夜中に外に出る私のために、母が買ってきたものだ。

 前、家から飛び出して来た時、道に落としていたらしい。そして、それをラグスが拾ってきたのだ。別に欲しくはなかったが、護身具であることを考えると、要らないとも言えなかった。


 一瞬躊躇ためらってから、手に取る。

 助けに行って、返り討ちにされては元も子もない。


 扉を開ける。


 一瞬不安になるが、踏み出す。


(――もし本当だとして、助けに行って私に何ができるの?)


 自問する。

 自分は警棒を持っているだけの十五の少女だ。警察よりもずっと弱い。


 それなのに、行ったところで何もできないはずだ。

 それに、そもそも人質は、カノンとは無関係な市長の長男かもしれない。


 だとしたら、行っても意味はない。


(……何してるんだろ。警察が居るんだから、逆に迷惑なくらいなのに)


 けれど、思考とは正反対に歩く足の動きは早くなる。

 助けに行きたい。その一心で。


 ◇


 市長の家の方面に行くに連れ、段々と騒がしくなってきた。

 さらには、遠くから大きな物音のようなものが聞こえる。


 銃声だろうか。


「――なぁ、なんか騒がしくねぇか?」

「なんだ、知らないのか? あっちの方でなんか武装集団が――」


 噂話を聞いて、それらを照合しながら向かう。

 数人から聞いて確証を得られれば、そちらへ向かった。


 どうやら、場所は市長の家からは離れた場所にあるらしい。

 街の外周にずんずんとカノンは向かっていった。


「……どこに、居るのかな」


 ガス灯が照らすだけの薄暗い道を早歩きで進む。

 街の端に近づいてきたからか、家は少なくなっており、ガス灯の数も減ってきた。

 道の端々はしばしには、緑色の草なども増えてきており、自然を感じさせる。


 さらに、さっきから物音はするものの、道を歩く人々は誰一人と居らず、声も一切聞こえなかった。


 瞬間、大きな銃声が聞こえた。

 それは反響して夜の街道に響くが、物音はすれども人の声は一切しない。


(そろそろ……この辺りなはず)

「――い! ――めろ! こいつ――」


 すると、男の怒号が聞こえた。


「あっち……!」


 気づいて、カノンは走り出した。

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