第8話:居場所

「雨、止んできたね」

「ええ、そうですね」


 カノンも、同じ空を見つめて呟いた。


「あの綺麗な空にさ、届いてみたいよね」


 まだ少し曇っている空に、手を伸ばす。


「……私には、無理です」


 カノンは目を伏せた。


「そうかなぁ……そうかもね」


 スイルは困ったように笑う。


「私が届いても、あの綺麗な空は汚れてしまうだけですよ」

「――僕は、君の翼だってあの空と同じくらい綺麗だと思うけどね」


 さっ、とカノンの白い羽の先を触って、スイルは言った。

 羽を触られることが好きなセレストはあまり居ないのだが、カノンはその手を払い除けることはなかった。


 カノンはそんなことも忘れて、スイルのそのキラキラしたものを眺めるかのような顔に、釘付けになる。


 スイルのその顔はすぐに真っ赤に変色した。


「あ、いやその、なんかそういう意味じゃなくて、ほら。ね? 言葉のあや? みたいな?」


 急にあたふたしながら、特に意味の通ってない言葉を並べながら必死に弁明する彼が面白くて、カノンは思わず笑みが溢れた。


「ふふっ、分かってますよ――やっぱり、可愛いですね」


 膝の上に顔を乗せて、カノンはいたずらっぽく笑う。


「……可愛くないし」


 ぽつり、とスイルは呟いた。


 しばらく眺める空は、当然何かを言ってくれるわけもなく、ただしとしとと弱い雨を降らすのみだった。


 しかし、その長い沈黙を破ったのは、別の人物の声だった。


「おまえたち、一体こんなところで何を――待て。おまえたちは……カノン=レイフィムとスイル=ラークルか?」


 すると、後ろから声が聞こえた。

 それは、彼も、彼女もよく知る教師の声だった。


 白髪混じりの黒髪に、碧眼。

 ラグス=ペタール教師だ。


「あ、あれ? ペタール先生? なんでここに?」

「れは私が聞きたいのだが。一体何をしているのだ――いや、ひとまず家に帰りなさい。体が冷えてしまう。ちゃんとシャワーを浴びて、体を温めなさい」


 厳格そうな顔から放たれる言葉は、案外優しいものだった。

 しかし、怒られたと思ったカノンは萎縮いしゅくする。


「っ、あの……いえ、なんでもないです。分かりました」


 彼は、体を小さくするカノンの体を若干抱き寄せた。


 それから、スイルは一つ思いついて、カノンに小声で話しかけた。


「――カノン。この先生に、泊めてもらうってのはどう?」


 もとより、ラグスが度量の広い人間であることをスイルは知っていた。

 ならば、もしかすると泊めてもらえるんじゃないか、と考えたのだ。


 もしスイルの家に泊める以外に手段がないのならそれでもいいのだが、彼の家には他にも人が居るし迷惑が掛かる可能性もある。


「え……だって、そんな、先生に泊めてもらうなんて迷惑だし……」


 困惑気味に返すカノン。

 一方のラグスは何かを理解した様子だ。


「聞こえているぞ、二人共……はぁ、大方は予測が付く。カノン、おまえは家のことで何かあったのだろう? だから帰りたくない、と」


 ラグスは隠す必要もないのだが、と言いたげに訊いた。


「ぁ……その、はい」


 顔を背け、控えめに肯定するカノン。


「え? なんで分かったんですか?」


 一方、スイルは不思議そうだ。


「私はある程度彼女のことを知っているからな。であれば、簡単に予測も付く」


 ラグスは『私からすればついにやったのか、と言いたいくらいだ』と付け足した。


「そうだったんですか……」


 しかし、それなら逆に泊めてもらえる可能性も高いんじゃないかと思った。


「あの、カノンさんは色々あって家に帰りたくないみたいなんです。なので、できれば泊めてもらえないかなと思うのですが――お願いできませんか?」


 スイルは、控えめにお願いをした。


「少し、難しいな。正式な許可を両親から得られなければ、誘拐とみなされてしまう可能性もある。そういったリスクがあるものでな」


 提案に、ラグスは顔をしかめて返す。


「そ、そうですが……じゃあやっぱり家しか――」

「だが、それは私の矜持に反するのでな――さて、私は歩いていたところ、橋の下に妙な少女と少年を見つけたようだ。だがしかし、少女の方は家も分からぬが、このままほうっておくわけにもいかない。現在身元も分からぬ彼女のことは、大人である私が保護するのが最善だろう」


 スイルが言いかけたところで、ラグスはニヤリと笑いながら言い放った。


「それはえっと……つまり?」

「分からぬか。勘の悪い少年・・であるな。私が『保護』すると言っている。ただし、私は彼女のことを知らない、というていでな――まあ、これでも完全に問題がないとは言えぬが。教師なら顔を覚えていないのかと問い詰められれば危うくなるであろうしな」


 スッと表情を戻し、ラグスは説明した。


「……スイルは私の家も知らないですし、一応筋は通らないこともない、と思います」


 今度は、カノンが控えめにそう補足した。


「おや、都合がいいな――さて、それでは向かうとするか。助かったぞ少年・・。こちらの少女は幸が薄そうで今にも死んでしまいそうだからな」

「さ、幸が薄い……」


 ちら、とカノンの方を見るが、可愛く小首をかしげるばかりで、特に気にした様子はない。


「そ、そうですか……では、お願いします」

「ああ、私は責任を持って『見知らぬ少女』を保護するとしよう」


 彼は肩をすくめた。


 ◇


 結局、彼女はラグスの家に保護されることになった。

 その後、言われた通りにシャワーに入って体を温め、なぜかあった子供用の衣服を借りた。


 しかし、そこまでされても思考は止まらず、なぜ自分がここに居るのか、こんな家出のようなことをしていていいのかと疑問に思ってしまった。


「あの……何かしなくていいんでしょうか。それに、ここに泊めてもらうのもよくないと思うんです」


 ラグスは、話しかけられた時以外は本当に何も話さなかった。

 自室には大量の本があるらしく、さらにリビングにも本棚が一つあった。

 彼は、常にソファーに座って本を読んでいた。歴史やら経済やら思想書やら、とにかく難しいことが書かれている本らしい。


「したい、というなら構わん。とは言っても、今は一人暮らしだ。もう既にやることはなくなっているがな――それと、別にいつ出て行ってもかまわん。そして、同時にここに居ても構わん。焦ることはない」

(彼女が原因で面倒事が舞い込んでくるとしても、守ってやるのが大人というものだろう)


 彼はそう考えていた。


「そうですか……ありがとうございます」


 今度は、少しだけ安心した様子でカノンは頷いた。

 そういえば、スイルにも同じことを言われていた気がする。

 落ち着いて、と。


 だからカノンは、ラグスから使っていいと言われた、余っていたという部屋で寝ることにした。


 まだ九時だから寝るには少し早いけれど、別にそうしたってここでは誰も構やしないのだ。カノンはそう思った。


「……じゃあ、今日はもう寝てもいいんでしょうか?」


 だけど、流石に何も言わないのは良くないような気がして、そう訊いた。


「そうしたいなら、構わん」


 一瞥して、答えた。


「ありがとうございます。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


 小さくお辞儀をしてから、カノンはタッタッと小走りで自室に向かった。

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