第7話:雨宿り、羽休め
「……その、寒いね」
彼は、困ったような顔で呟いた。
カノンの返答はなく、ずっと俯いたままだった。
「なんていうか……何があったか知らないけどさ。とりあえず、どっか屋内に居たほうがいいと思う。冷えるよ?」
「いいです……ほっといてください。スイルさんが気にする必要はないですよ。迷惑、掛けたくないので」
「いやそんな……あーもう! ほら、手こんな冷たいし、気にしないほうが難しいよ」
「だっ、大丈夫ですって!」
ぱし、とその手を拒絶して、カノンは顔を上げた。
スイルが見たのは、頬に流れる涙だった。髪から滴る水に混じって、その金色の瞳からいくつも雫がこぼれている。
スイルはそれを見て、もう一度彼女の手を握り直した。
「僕さ……こういうのどうすればいいか分かんないんだよね。だけどさ、一旦落ち着こ」
「……うん……ぐすっ、ごめんなさい……」
「謝らなくてもいいんだけど……まあ、大丈夫だから。安心して。僕はここに居るからさ」
彼は、できるだけ安心させるような言葉をカノンに掛けた。
カノンは一度座り直した。
スイルと肩が当たるくらい近い距離に。
「その……近くない?」
「さっき、ここに居るからって」
「分かった、分かったから。それ反則」
いつになく顔が赤いスイルの服の裾をカノンは控えめに掴んだ。
「私、飛べないの。空が怖くて」
もはや敬語すら忘れ、彼女は独白した。
「それは知ってるけど……」
「両親は、いっつも私に飛んで欲しい、いつになったら飛べるのって聞いてくるの」
「前、言ってたね」
彼はそう言いつつも、思っているよりも酷い状況だったことを認識する。
「うん……でも、私は頑張っても怖くて、飛べないから」
「まあ、無理なものをやれっていってもしょうがないよね。僕だってプロ並みに上手い絵を描けって言われてもそりゃ無理だよ」
「……うん。それで、今日両親が喧嘩してて。それは私が帰ってきてすぐに終わったんだけど、その後にお母さんが私に言ったの。『お願いだから、早く飛べるようになって』って」
「……そうなんだ」
スイルは、考え込むように目を伏せ、短く答えた。
「それで、私は了承したの――したんだけど、急にそれが怖くなったの。ずっと飛べないのに、お母さんの不安まで背負って。私は、私は何も出来ないのに――」
次第に瞳に涙がたまり、声が震えてくる。
それから、彼女は自身を落ち着けるようにして深呼吸して、涙を拭いた。
「だ、大丈夫? 落ち着いてね? ゆっくりでいいからさ……」
少し心配になって、声を掛ける。
それから、彼女は続きを話した。
「だから、嫌になって、飛び出してきた」
「家出……みたいなものってことね。だからこんなところに居たんだ」
「うん。いつも、ずっと言われるの。セレストなんだから、早く、飛べるように……なりなさいって」
続ける彼女の言葉は、けれど段々と途切れ途切れになっていく。
「私、ずっと怖くて飛べないのに、何度も何度も言われて、それが、怖くて――」
彼女の体は震え、その金色の瞳からはついに雫が溢れ落ち始めた。
「あっえっと……その、大丈夫だから。泣かないで」
スイルはどうすればいいか分からなくて、そんな彼女の体を控えめに抱きしめた。
「――怖くて、飛べないのに……! 私にはこんな翼なんて要らなかった、こんな、大きくて邪魔なものなんて……!」
一瞬驚いたように体が飛び跳ねるカノン。
だが、次の瞬間には彼の胸に顔を埋め、まるでダムが決壊するかのような様子で彼女は叫んだ。
胸の中で
「うん、うん……わ、分かった。怖いよね」
スイルは小さく丸くなったその体を守ってあげなきゃいけないような気がして、その冷たい体を翼ごと抱き締めた。
「こわいよ。怖くて、飛べないよ。何もできないのが――こわいよ。なんで、私が飛ばなきゃいけないの……飛びたくないよ」
「……うん、分かった、分かったよ。その、ここに居ていいから」
スイルの胸の中で、大きな泣き声が響いた。
しかしそれは、激しい雨の音の中でかき消され、橋の外に届くことはなかった。
◇
ポタポタ、と弱まってきた雨の中。
橋の下には、未だ二人が居た。
先程までは威勢も良かったスイルは、ずーっと肩に寄りかかっているカノンの体温を感じながら赤面していた。
ちょっと冷たいけれど、さっきから長いこと近くに居てスイルの体温が移ったのと、泣いたせいなのか微妙に熱を帯びている彼女のことを無駄に意識してしまう。
「……ねぇカノンさん。そろそろどけない? 一旦帰らない?」
数秒の間の後に、カノンは渋々と言った様子で動いた。
「本当は嫌ですけど、しょうがないので退けます」
「……ほっ」
「――でも、私はまだ帰りません。帰りたく、ないので」
「そ、それも困るな……」
「大丈夫です。スイルさんに心配してもらうことの――いえ、なんでもないです。ごめんなさい」
スイルの困り顔を見て、彼女は目を伏せた。
「いや、謝らなくてもいいんだけどさ」
「……」
しばらく沈黙が走る。
「私、不安なんですよ。このまま飛べないんじゃないかって。飛ばなきゃいけないのに、いつまでこんな状態で居るんだろうって。そして、そんな状態で今帰ったら、何が起こるのかって」
「……まあそれは、そうだね」
「――それに、今だってスイルさんに嫌われてしまってないかって不安なんです」
「そんな! ……確かにちょっと疲れたけど、嫌いにはならないよ」
「分かってます。分かってますよ。だけど、不安になるんです――あなたがくれているものを、私は返せるのかって思うんです。翼があるくせして、何もできない私に」
カノンの言葉に、スイルは考え込む。
「……僕さ、気づいたんだよね」
「何に、ですか」
「正直、ずっと君は凄くいい環境に居ると思ってたんだ。才能も沢山あるように見えたし。嫉妬はなかったけど、僕も同じになれたらなっていう憧れはあった――だけど、そうじゃないんだって気づいたんだよ」
「……そうですかね。私は、良いことばっかりなのに何もできていないだけだと思いますが」
「ネガティブだなぁ……まあそれでさ、僕は普通に育ててもらえる環境――努力できる環境はあったけど、絵を教えてもらう環境はなかったんだよ」
苦笑いを浮かべながら彼は説明した。
「だから、あんなに教えてって言ってたんですか?」
「うん。知ってる人に付きっきりで教えてもらうには効果的だと思ったからね。それと、単純にカノンさんの絵に感動したから――あとはまあ、下心も、ないわけじゃない……かな?」
彼は頭を掻きながら曖昧に答えた。
「……こういうときは、素直なんですね」
最後の言葉に対してだけカノンはぽつり、と反応した。
「う、うるさい。そこはどうでもいいんだよ。だから、僕らは才能のあるなしで言うと真逆に見えるけどさ、結局同じなんじゃないかって思ったんだよ」
「同じって……何がでしょうか?」
怪訝そうに訊くカノン。
「できるようになりたくて、頑張ってるはずなのに、何か壁があって結局できないってこと――やっぱり僕ら、どっちも才能ないみたいだね」
「……私、頑張ってますかね」
不安げに目を伏せる。
「そりゃ、こんなになるまでやってるんだから頑張ってるでしょ」
「そう……なら、よかったです」
カノンは微笑んだ。
さらにスイルは顔が熱くなるが、バレないように顔をそらした。
そうやって顔をそらしたスイルは、もう雨が止んでいることに気がついた。
案外、止むのは早かったようだ。
「雨、止んできたね」
「ええ、そうですね」
カノンも、同じ空を見つめて呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます