第6話:私は飛べない
下校中、カノンはどこかボーッとしたような様子で天を仰ぐ。
空は曇り模様で、空もどこか灰色で薄暗い。
どうやら、少し雨が降り始めているようだった。
(激しくなる前に帰れて良かった)
彼女は、そんなことを思いながら家のドアを開けた。
『ただいま』
そう挨拶する前にリビングの奥から聞こえてきたのは、不機嫌そうな母親の声だった。
「やってるわよ! それなのに飛べない飛べないって――飛ばせようと必死に努力してる私の気持ちなんて分からないんでしょうね!」
「そこは今関係ないだろう。大事なのは、飛べてないという事実だろ。そもそも、俺だって毎日金を稼いでるんだ。お互い様だろ?」
続いて、同じく不機嫌そうな父親の声が聞こえた。
玄関の先、リビングの開いた扉の奥で、二人はまるでカノンの部屋がある二階への階段を塞ぐようにして口論していた。
その様子にカノンはドキッとする。
そもそも、両親が喧嘩しているという時点で嫌なのだ。それがさらに自身の話題ともなれば、理由は明白だ。
「お互い様⁉ 明らかに私の方が色々やってるでしょ! カノンのことだって、あなたは何一つ関与してないじゃない!」
「そんなわけはないだろ! お前は家事をやってるかもしれないが、手続きや金銭の処置は全部俺がやっている。そっちこそ金のことには何一つ関与してないはずだ!」
ヒートアップしていく二人をよそに、カノンは挨拶すらできずに立ち尽くしていた。
「はぁー……もういいわ。言っても分からないのね」
「あぁ奇遇だな。俺も同じことを思っていた」
すると、そのまま父親は二階の部屋に消えていき、母親は大きくため息を付きながらソファーに座った。
(私……どうしたらいいんだろう。どうして私は飛べないんだろう)
少しネガティブな思考に沈みそうになるが、彼女はどうにかそれを振り切って動き出す。
すると、彼女は母親に呼び止められた。
「カノン……お願い、早く飛べるようになってちょうだい。私、飛べないあなたを見てるのが辛いわ」
肩に手を乗せ、まるで懇願するような口調で母親は言った。
カノンは返答に迷ってから、答えた。
「――私、頑張る。飛べるようになるから、安心して」
彼女は
母親は、それを聞いてから、数秒の後にこう答えた。
「そう……良かったわ」
だが、少し安堵したような様子で母親はソファーにどかりと座りこんだ。
それを見届けてから、彼女も自室に戻った。
◇
ベッドの上に倒れ込んだ彼女は、何もない天井を眺めていた。
(……疲れた)
そう思うが、彼女にはやらねばいけないことがあった。
「頑張らなきゃ。飛ぶ練習、しなきゃだよね」
立ち上がろうとするが、足が動かない。
(あれ?)
気がつけば足が震えていて、どうしようもないくらい胸が苦しかった。
「ダメ、私にはやることが――」
奮い立たせ、足を動かす。
しかし、立ち上がった瞬間にめまいが自身を襲う。
「あ……」
瞬間、彼女の瞳から涙が零れ落ちた。
床に崩れ落ち、その涙を拭いた。
原因は分かっていた。
自分が少し無理をしていいることには、気づいていた。
だけど、もうちょっとできる、と思っていたことが勘違いだったことには今気がついた。
気がついてから、急に今までしてきたことが嫌になってきた。
なぜ自分が翼を持ってしまったのか、なぜ飛ばなければいけないのか、なぜこんなに苦しいのか、なぜこんなに怖いのか。
(あぁ、もう私はダメなんだ)
――彼女は気がつけば部屋から出ていた。
頭を抱える母親の居る一階をどこかおぼつかない足取りで通り過ぎ、玄関のドアを開ける。
外はまるで彼女の心の中を写したかのようにどんより曇っており、雨が石畳の地面に激しく打ち付けている。
だが、彼女は傘も持たずに外に出た。
体を打つ雨が体温を奪い、彼女の翼を濡らす。
段々と歩く足は早くなり、人足の減った街中を走る。
「はぁっ……はぁっ……! これもっ……要らないっ!」
走りながら、彼女は胸につけた金のブローチを少し乱暴に取り外し、投げ捨てた。
セレストである証たるそれを。
◇
水路の上に掛かる橋の下で、彼女は膝を抱えていた。
外には、すっかり強くなってしまった雨がざぁーざぁーと降りしきっていた。
ポタポタと橋の上から零れ落ちる雫が、彼女の隣に水たまりを作っていた。
濡れた服と翼が妙に気持ち悪くて、だけど何も持っていないから何かを羽織ることもせずにただ寒さに耐えていた。
むしろ、ここで終わってしまってもいいと思って。
彼女は自身の膝に顔を埋めた。
「カノンさん……? 大丈夫?」
顔を上げた先に居るのは、スイルだった。
「スイル――さん。なんでここに居るんですか……?」
傘を持って心配そうにカノンを見つめる彼は、案外背が高くて。
それはカノンからすればまるで、囚われのお姫様を助けに来てくれた王子様のように見えた。
しかしそう思ったのも束の間、スイルが差し出してきたものにカノンは驚愕した。
「いや、それはこっちのセリフだよ。今日雨だったから、絵の話なんてできないなぁ、って思ったけど、まあ一応居るかも知れないと思って集合場所に行ったら……道中でこれを見つけたから。探したんだよ?」
それは、カノンのいつも着けているブローチだった。
そのブローチを見たカノンは、自分がセレストである運命から逃げられないということを突きつけられているような気がして、怖くなった。
「嫌っ……! やめてください! こんなの――要らないっ!」
「あっちょっ、何するの!」
スイルの手から乱暴にそれを奪い取り、彼女は目の前の水路に投げ捨てた。
ポチャン、という音が雨音の中に混ざって聞こえ、一瞬の間二人はただそれを見ていた。
その後、カノンは背中からずり落ちるようにしてまた地面に座り込んだ。
しばらくして、隣からパシャ、という水が跳ねるような音が聞こえた。
カノンの目には見えていないが、それは多分、スイルが座り込んだ音だ。
「……その、寒いね」
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