第26話 アダルト・デビルが伝えたかったこと

 その日、俺は薄暗い部屋で一晩中コンビのことを考えた。


 俺は杏子が好きだ。できることなら恋人に……親友やコンビとは違う、特別な関係になりたいと思っている。


 だけど、お笑いはどうする?


 俺は姉ちゃんが相方に恋をして、どんどん面白くなくなっていく姿をこの目で見てきた。


 ……怖い。恋愛したことで、俺が最高に面白いと思っている杏子の芸が錆びついていくのを、誰よりも近くで見ることが、とても。


 もしかしたら、恋も芸も両立できるかもしれない。

 姉ちゃんが身を滅ぼしただけで、俺たちも同じ道を辿るとは限らないのだ。


 でも、両立できるなんて確証はない。

 杏子と付き合ってしまえば、あとはもうなるようにしかならないのだ。


 解散を宣言された今、俺は何を選択すべきなのだろう。

 気持ちを優先して恋を選ぶのか。

 夢を叶えるために芸を選ぶのか。

 両方選んで、予測できない未来へ進むのか。


 ……仲直りするのは難しくない。


 だけど……杏子に対して誠実にいるためには、どちらかを選び、何かを失う覚悟が必要だった。


 恋と芸……姉ちゃんはどんな気持ちで両方を選ぼうとしたのだろう。


「どうすればいいのかな、姉ちゃん……」


 ベッドの上で、かつて天才だった里中ひとみに問いながら目を閉じる。


 しかし、脳裏に浮かんだのは、泣いている杏子の顔だった。



 ◆



 週末、日曜日。俺は都内にある劇場にやってきた。


 受付で姉ちゃんからもらったチケットを提示し、パンフレットを貰って中に入る。


「俺の席は……ここだな」


 劇場の前列の真ん中だった。年季の入った汚れたシートに腰を下ろし、辺りを見回す。


『観ルネ』に比べたら、かなり狭い劇場だった。空席も目立つ。ざっと見ても、半分くらいしか席が埋まっていない。


 ……本当なら、こんなことをしている場合じゃない。杏子のもとへ行き、謝って、自分の出した答えを示すべきだ。


 でも、その『答え』はこの劇場に……姉ちゃんの芸の中にある気がした。


 俺は今、かつて天才だった姉と同じ状況に立たされている。


 落ちぶれた天才が、何故ひさしぶりにコンビを組み、舞台に上がるのか……芸人としての決意がそこにはあるはず。


 その決意こそ、姉ちゃんが俺に見せたかったもの。

『アダルト・デビル』の漫才が、俺の呪いを解く鍵になる……そう思えてならなかった。


 ……姉ちゃん、仮のコンビだって言ってたっけ。

 相方に自分の面白さを見せつけて、正式にコンビを組むんだって意気込んでいた。


 過去を乗り越える覚悟。

 未来を切り開く意志。

 俺と姉ちゃんの進むべき道が決まる、幕上げの瞬間はまもなく訪れる。


『ご来場の皆様にお知らせいたします』


 会場にアナウンスが流れる。

 注意事項を告げ、舞台が暗転する。


『トップバッターはこのコンビ! 結成一か月の新星! 『アダルト・デビル』です!』


 明転し、舞台袖から姉ちゃんがやってくる。

 その隣にいたのは――。


「なっ……相方が男!?」


 おもわず驚きの声が漏れた。

 またこりもせず、どうして過去と同じ道を歩むんだ?


 ……いや違う。そうじゃない。

 過去を乗り越えるためにも、男女コンビを結成したんだ。


 呪縛なんて、まやかしだって。

 そう証明するために。


「どうもー! アダルト・デビルでーす!」


 まばらな拍手の中、二人は舞台中央にあるセンターマイクを挟むようにして立った。


「名前だけでも覚えて帰ってください。私がアダルト・デビルのツッコミ担当の里中です」

「住所だけでも覚えて帰ってください。俺はツッコミ担当の浅野です。目黒区青葉台……」

「それ私の実家の住所だろ。みなさん忘れて帰ってくださいねー」


 客席から、わずかに笑い声が聞こえる。


 ……姉ちゃんが、ツッコミ?


 昔はボケだったし、家でもボケてばっかりなのに……大丈夫なのか?


「俺たち、清楚系漫才師として活動しています。いやー、しかし最近はエロ漫画ばっかり読んでいるんですけどね」

「どの口が清楚って言ってんのよ」

「これどの劇場で言ってもスベるツカミなんですけどね。よろしくお願いしますー」


 客席から失笑が漏れる。


 ツカミが直球の下ネタは悪手……ではあるが、これも『男女として意識していないから下ネタも余裕!』という意識の表れだ。


 だが、ツカミは大失敗……どうする?


 不安に思っていると、姉ちゃんがマイクの高さをわずかに調整した。


 そのときだった。

 姉ちゃんの目の色が変わった。

 瞬間、不安が消し飛んだ。

 たったわずかな変化なのに、それだけで目頭が熱くなる。


 帰ってきた、と思った。


 あそこに立っているのは姉ちゃんじゃない。

 お笑い界に彗星のごとく現れた新星――里中ひとみの目をしている。

 ここからが、本当の漫才の始まりだ。


 里中ひとみが、マイクに顔を近づける。


「私ね、犬を飼いたいなぁ、なんて思ってるんですよ」

「ふっ……こんな形でコンビ解散の危機を迎えるとはな」

「犬飼いたいだけで?」


「俺と別れてくれ」

「カップルみたいに言うな。なんでよ。犬苦手なの?」


「わんちゃんの鳴き声がダメなんだよ。俺絶対に飼えない」

「いや飼えるって。吠えないようにペットを躾ければ解決でしょ」


「ペットじゃなくて家族な? 一緒に暮らしているんだから」

「……好きなの?」


「なにが?」

「犬好きでしょ。犬をわんちゃんとか家族とか呼んでるし。言い方が愛犬家なのよ」


「なんで疑うの? 苦手だって言ってるじゃん」

「ほんとに?」


「同じこと後輩にも言われたわ。先週、犬カフェに行ったときなんだけどさ」

「犬好きじゃん。自分から会いに行ってるもん」


「苦手すぎて逆に行きたくなったんだよ。あるあるだろ」

「ないないだよ。認めなよ、犬が好きだって」


「もうやめよう、わんちゃんの話は」

「まあいいけどさ……何か別の話題ある?」


「この間ビックリしたことがあったから聞いてくれよ。喫茶店入ったら老夫婦が怒鳴りあっててさ。お年寄りが店で大喧嘩って珍しくない?」

「たしかに。なんで二人はエキサイトしてたの?」


「会話の内容から察するに、二人はチワワ喧嘩してたみたいで」

「『痴話喧嘩』ね。急にチワワ愛でないでよ」


「やめて。なんでわんちゃんの話するの」

「君がチワワでカットインしてくるからでしょ」


「話聞けって。その旦那さんな、どうやら老人会で他の女に手を出したらしいんだよ」

「おおっ。元気な老人だね」


「奥さん、顔真っ赤にして『あんた! シズ子をアフタイヌーンティーに誘ったでしょ!』ってキレてた」

「アフタ『イヌ』ーンティーって何? ちょっと待って。さっきから犬の話したがってるわよね?」


「俺じゃない。シズ子のせい。シズ子のイヌーンだから」

「なに、シズ子のイヌーンって。君さ、本当は犬好きなんでしょ?」


「いちいち突っかかってくるなよ。はあ、飼い犬に手を噛まれた気分だわ」

「犬好きじゃん! とうとう私を犬扱いしてきたじゃん」


「お前を犬としては捉えてないよ。お前は人だ。自信を持て」

「そこに自信を失くしたことないよ」


「まあ話聞けって。その喫茶店な、ワンドリンク制なんだけど」

「『ワン』ドリンク! また犬飼った!」


「べつに飼ってはないだろ。なにが気に入らないの?」

「いやだからね? 犬が好きすぎて、無意識に犬を連想させる言葉が出てるのよ!」


「怒るなよ。毛が逆立ってるぞ」

「犬みたいに言うな! あー、ほんと血圧上がるわ」


「あ、血圧で思い出した。俺、人間ドッグに行こうかと思ってるんだけど」

「ドッ『ク』ね! 人間ドッ『グ』は犬人間でしょ! なによ、犬人間って!」


 徐々に会場の笑い声が大きくなる。

 こんなに可笑しいのに、涙が出てくる。


 姉ちゃんが、漫才やってる。

 恋をして、面白くなくなって。

 コンビを解散して、ピン芸人になって。


 事務所の愚痴をこぼして腐っていた姉ちゃんが。

 呪いから解き放たれず、燻っていた姉ちゃんが。


 あの、かっこ悪かった姉ちゃんが。

 最高にかっこいい。


 嬉しそうに舞台上で漫才をする姉ちゃんを見ていると、胸の中にある情熱が暴れ出して止まらない。


 どれだけ辛いことがあっても、結局は舞台に戻ってしまう。

 誰かの笑顔が見たい。

 そんな気持ちがあるだけで、俺たち芸人は舞台に立つ。


 姉ちゃんは観客を……そして俺に勇気と笑顔を与えるために漫才をしている。そう思えてならない。


「私もう我慢の限界なんだけど。『犬好きです。飼いたいです』って言いなよ」

「揚げ足取るな。そんなにキレてばっかりだと人から恨み買うぞ?」

「……今『飼う』って言った?」


「そっちの『かう』じゃない。人から恨まれてもいいことないって話。ほら。歴史上の人物とかでもよくいるだろ? 敵を作りすぎて暗殺されちゃうタイプの偉人」

「……『犬養毅』の話してる!? すぐ飼うじゃん、こいつ! ブリーダー気取りか、おい!」


「そんなつもりないって」

「首相まで持ち出して犬飼うじゃん! 見境なしに飼うなよ!」


「何言ってんだよ。お前ちょっとおかしいぞ……わかった、もう降参する。しっぽ巻いて逃げさせてもらうわ」

「だから犬ぅー! 『しっぽ』って単語がもう犬を連想させる……え、まさか今のセリフ『負け犬の遠吠え』ってこと!? すぐ犬じゃん、こいつ! こわーっ!」


「すぐ犬って何? 俺はお前が怖いよ。落ち着けマジで」

「走り出したら止まらないな、君は! すぐドッグラン行くじゃん!」


「行ってない。落ち着け、怒りすぎだ。今のお前、老夫婦の奥さんよりキレてるぞ?」

「喫茶店の痴話喧嘩は今関係ない……貴様ぁぁぁ! さっきのくだり『夫婦喧嘩は犬も食わない』って言いたかったんでしょ!? あぶねー、見逃すところだったわ!」


「違うって。俺はシズ子たちの痴話喧嘩の話がしたかっただけだから」

「シズ子! 見つけた、『シーズー』隠れてたよ! すぐ犬隠すじゃん!」

「隠してないから。さっきから犬探しすぎだろ」


 伏線を回収しつつ、大ボケが決まる。

 始めは失笑していた観客だったが、今はもう馬鹿笑いしていた。


 わかったよ、姉ちゃん。

 これが姉ちゃんの出した『答え』なんだね?


 あの頃の姉ちゃんは、芸を選び取ることができなかった。

 でも、今は違うはず。

 男女コンビとか、呪いとか。

 そんなものは関係ない。


 大事なのは……選び取る覚悟。


 恋を選んでもいい。

 芸を選んでもいい。

 両方選ぶのなら、それも人生。


 俺の好きにしたらいいんだ。

 だけど、もしすべてを望むのならば。

 相方を幸せにして、なお芸を極める覚悟が俺にはあるか?


 ……それを伝えたかったんだよね?


 視界が滲んで舞台がよく見えない。

 俺は目元を拭い、最後まで姉ちゃんを見届けようと思った。


「いいから犬好きって言いなさいよ!」

「好きじゃないって言ってるだろ、うるさいなぁ」

「あー、もういい。私、君と話すの疲れたわ。ちょっと休ませて」

「俺も疲れたから家に帰って休むよ。コタツで丸くなって寝るわ」

「いやそれは猫じゃん! もういいよ」

「「ありがとうございましたー」」


 瞬間、客席から大きな拍手が鳴り響く。


 二人が舞台袖に捌けていくとき、ふと姉ちゃんと目が合った。

 姉ちゃんは俺に向かって手を差し伸べて笑った。


『私は覚悟を見せたよ。さあ、次は哲ちゃんの番だ』


 何も聞こえなかったけど、まるでそう言っているような気がした。


 気づけば俺は席を立ち、劇場をあとにしていた。


 こうしちゃいられない。早く帰って脚本を書かなければ。


 恋と芸。


 どっちも勝ち取るためには、まだ準備が足りないから。

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