第23話 本当に付き合ってみる?

 放課後になると、雨は止んでいた。


 約束どおり、俺は杏子の家にきている。

 杏子と一緒に脚本を完成させるためだ。


「で? テツはどこで行き詰ってるん?」

「うーん。この中盤の辺りかな……」


 美人家庭教師役の杏子が、お色気ボケを挟むシーンだ。


 好きな女の子にお色気ボケをさせることに抵抗がある。そのせいで自然とブレーキがかかり、思いきったネタが思い浮かばない。


 ……さくら先輩が「大変ね」と言っていたのは、このことなんだろうなぁ。


 悩んでいると、杏子がぽつりとつぶやく。


「テツが私にやってほしいお色気ネタを考えてみたら?」

「は?」


 体が石になったみたいに固まった。

 そんなこと、杏子に言えるわけがない。


「えーっと……思い浮かばないな」


 適当に誤魔化すと、杏子はニヤニヤしながら擦り寄ってきた。


「嘘つけー。テツだって思春期なんだから、えっちなこと考えるでしょ?」

「それとこれとは別でしょ」

「ねえ。私でえっちな妄想したことないの?」

「ばっ……な、なに言ってんだよ!」

「……本当にないの? たとえば、触ってみたいなーとか」


 一瞬、何を言っているのかわからなかった。

 だが、杏子がワイシャツの胸のボタンに手をかけたとき、はっとする。


「や、やめろよ、そういうの。触りたいとか思わないし」


 体が、じんっと熱を持つ。

 心臓がバクバクして、今にも破裂しそうだ。


 杏子がどうしてそんな誘惑をしてくるのか理解できない。

 ネタのためとはいえ、胸を触らせるようなこと、今までしてこなかっただろ。


 マジなのか。

 それとも、からかいなのか。どっちだ?


 ドキドキしていると、


「……触っていいって言ってるのに。テツの意気地なし」


 その一言で、急速に体が冷えていく。


 え……触っていい?

 胸を……だよな?


 こいつ、何言ってるの?


 おそるおそる杏子を見る。

 顔は見えないが、苛立つように肘を爪でガリガリと搔いていた。


「杏子。今、変なこと言わなかった?」

「逆だよ。テツが変なの」

「お、俺が?」

「最近、テツは変なことを言わなすぎるって意味。頭の中、コンテストと脚本のことばっかり。芸人なんだから、もっと相方と会話して面白いこと言わないと。今のおっぱいのくだりだってフリだったのに」

「あっ……ご、ごめん」


 言われてみれば、そうかもしれない。

 最近は脚本のことばかり考えていて、杏子との会話も楽しめていなかったかも。


 なるほど。杏子はそれで怒っていたのか。


 いや……本当にそうだろうか?

 いつも笑顔の杏子が、ボケ数が少ないだけでそんなに怒るか……?


「というわけで、私とおしゃべりしようぜー。ほら、ボケて!」

「そんなハードルの高いフリある?」

「私、ひさしぶりにアレみたいな。テツが分身して双子ネタするヤツ」

「忍者か、俺は!」


 生まれてこのかた分身なんてしたことないよ。


「なははー。いいじゃん。その調子だよ、テツ」

「あの、脚本は……」

「脚本はやる。でも、もっと私をかまう。これでしょ!」

「あ、さてはそれが本音だな?」


 俺が脚本ばっかりやっているから暇なのだ。だから、相方と会話しろなんて言いだしたのだろう。


「げ、バレたか」

「まったく……あとちょっとだから。コンテスト終わるまでは集中するぞ」

「はーい。ま、お色気ネタ案は私がいくつか考えておくよ。他に悩んでいるところはないの?」

「うーん……終盤も気になっている点があるんだけど」

「ふむ。どれどれ」


 それからは、俺も杏子も脚本に集中することができた。

 あーでもない、こーでもないと意見を交わしていく。


 いくつか出そろった案を組み合わせて、脚本に落とし込んでいく。


 一時間くらい経った頃、脚本は形になった。

 もっとも、お色気案の部分は未だに空白だけど、このあたりは杏子に任せるしかない。


「とりあえず、形にはなったんじゃない?」

「だね。ありがとう、杏子。マジで助かった」

「なははー、杏子ちゃんの偉大さを思い知ったか」

「杏子ちゃんさん、さすがです! かっこいい! 無敵!」

「うむうむ。杏子ちゃんのことはもっと甘やかすとよいぞー」


 杏子は嬉しそうに頷いている。どんなキャラだよ。


「これで『犬と姫』と戦えるな。杏子、稽古もがんばろう」

「『犬と姫』かぁ……」

「ん? どうかした?」

「いや。今朝、さくら先輩は私たちが付き合っているって誤解してたなって思って」


 朝の記憶がフラッシュバックする。

 男女が相合傘をしてイチャついていたら、そりゃ恋人にも見えるよ。


「あの状況なら仕方ないよ」

「私たち、仲良しじゃん? やっぱり付き合ってるって思われているのかな?」

「えっと……まぁそういうふうに思っているヤツもいるらしい」

「ふーん。そっか」


 それだけ言って、急に静かになる杏子。心なしか頬は赤い。


 こういう話題を杏子から振ってくるのは珍しいな。

 何か気になることでもあったのだろうか。


 杏子の言葉を待っていると、不意に甘い声音が耳元でささやかれた。



「私と、本当に付き合ってみる?」



 何かの間違いだと思った。

 これはいつものからかい。そうに決まっている。


 だって、そうじゃなかったら……これって両想いってことだろ?


 杏子の顔を見る。


 彼女は顔を赤くして、緊張した面持ちだった。

 それはもう俺の知っている杏子の顔じゃなくて、恋する乙女の表情だった。


「だっ……杏子。急にどうした?」

「……うちら仲良しだし。私はテツが望むなら……さっきの続き、してもいいよ?」


 杏子がワイシャツのボタンを一つ外した。胸の谷間がちらりと見える。


 ぷちっともう一つ外すと、今度は下着がはっきりと見えた。淡いピンク色のブラが、柔らかそうな胸を包み込んでいる。


 慌てて視線を落とす。杏子の短いスカートがめくれ、パンツが見えている。可愛いくて、ちょっとエッチなヤツだ。


 理性が揺らぎそうになり、慌てて視線をあげて杏子の顔だけを見る。下着は見なくて済むけれど、見つめ合っているだけでドキドキしてしまう。


 室内の気温が一気に上がった気がした。体が熱い。荒々しい吐息は杏子のものか。それとも俺の吐息なのか。あるいは、二人とも興奮しているのかもしれない。


「テツだって、興味あるでしょ?」


 杏子の手が俺の顔に伸びてきた。



 ――『男女コンビで恋愛するのはよくないと思うわ』。



 不意に呪いのような言葉が脳裏に浮かぶ。


 こんな中途半端な状態で一線を超えたら、俺はきっと恋に溺れる。

 杏子と甘い時間を過ごすほうが何よりも大切なんだって思ってしまう。



 ――『僕の夢は、日本一のお笑い芸人です』。



 二分の一成人式で語った夢。

 今はもう、この純粋な言葉さえ呪いみたいに聞こえる。


 それでも、確かなのは。

 杏子と一緒にお笑いをやりたいという、あの頃に抱いた無邪気な気持ち。

 宝物みたいに、まだ胸の中でキラキラと輝いている。


 俺は咄嗟に杏子の手を優しく払った。


「あっ……テツ?」

「何やってんだよ。ちゃんと服着ろって。風邪ひいたらどうするんだ」

「……なははー。そだね」


 杏子は力なく笑い、着衣を直した。


「たはーっ。やっぱりテツは変だよ。私が家庭教師の誘惑ボケを実践してあげたのにさー。ツッコむところでしょ」

「今のボケなの!?」

「そうだよ」


 杏子は念を押すようにもう一度言った。


「今のはボケ。ぜーんぶギャグなのだ」


 そう言って、杏子は笑った。


 ボケ……?

 じゃあ、なんでそんなに辛そうに笑っているんだ?


 俺は、相方の異変に戸惑うのだった。

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