第14話 『里中ひとみ』になるということ

 帰宅してから、俺は自室から一歩も出なかった。

 今もベッドの上に大の字で寝て、ぼーっと天井を眺めている。


 ……落ち着いて、心の整理をするためだ。


 今日一日、すごく楽しかった。


 杏子といろんなところを巡って、恋人らしいこともして。

 かと思えば、最後は互いにお笑いのことを考えてしまう。やっぱり俺たちって気が合うんだなと思った。


 楽しくて、幸せだった。

 だからこそ、後悔している。


 ネタのアイデアは出たかもしれないけど……杏子のことが好きって気持ちを思い知らされたから。


「……『相方に恋したら面白くなくなる』ってジンクス、破れないのかな?」


 いいじゃないか、相方に恋をしても。

 付き合って、仲良しコンビで舞台にあがれるなんて幸せなことだろう。


 ただ……恋と芸、両立させることができるだろうか。


「……ほんと、困っちゃうよな」

「困ってるならお姉ちゃんの胸に飛び込んでおいで?」

「うわっ! ね、姉ちゃん?」


 姉ちゃんが俺の顔を覗きこんできた。いつ部屋に入ったんだよ。


 俺は起き上がって姉ちゃんを半眼で睨んだ。


「ちょっと。ノックくらいしなよ……」

「何度もノックしたんだけど、返事なかったんだもーん。部屋から弟のクソデカため息ばかり聞こえてくるから、姉ちゃんがよしよししに来てあげたんだぞ?」

「いらないから。出てってよ」

「あーん。哲ちゃんの意地悪」


 姉ちゃんの背中を押して、部屋の出口まで追い込んだ。


 部屋を出たところで、姉ちゃんは振り返って俺を見つめた。


「哲ちゃん」

「なに?」

「ごめんね」

「え?」


 言っている意味がわからず、おもわず聞き返した。


「……姉ちゃんのせいで、悩んでるんだよね?」


 姉ちゃんは困ったように笑った。


 ふと例の雑誌のインタビュー記事を思い出す。

 あのジンクスを謳っていたのは姉ちゃんだ。もしかして、それで責任を感じているのか?


「なんで謝るんだよ。これは俺の問題で、姉ちゃんは関係ないだろ」

「……どうすればいいんだろうね。姉ちゃんは馬鹿だからわからないや」

「姉ちゃん……」


 なんでそんな苦しそうな顔をしているんだよ。調子狂うじゃないか。いつもみたいに俺をからかう元気はどこへ行ってしまったんだ。


 まったくもう……しょうがないな。


「ははっ、たしかに。お馬鹿な姉ちゃんには難しいかもね」

「哲ちゃん……なんだとぉ? 弟なら姉ちゃんを敬えー!」


 姉ちゃんは笑いながら俺の胸に頭突きしてきた。

 そうそう。俺の知っている姉ちゃんはそうでなきゃ。


「むりむり。姉ちゃんが賢いところ、見たことないよ」

「なにおう? 姉ちゃんだって、いろいろ考えているんだぞ」

「はいはい。何を考えてるって?」

「哲ちゃんが、呪いから解ける方法」

「……呪い?」


 たぶん、例のジンクスのことを言っているのだろう。


 ……余計なお世話だし、話がややこしくなるから勘弁してほしいんだが。


「よくわからないけど、またロクでもないことを企んでいるんじゃ……」

「ロクでもなくないよ。弟のために、姉ちゃん頑張るって話」


 姉ちゃんは俺に背中を向けて、力強く宣言した。


「姉ちゃんさ、またお笑いのテッペン目指してみる。哲ちゃんが憧れてくれた『でびるきっず』の里中ひとみに生まれ変わるよ」

「へ? それってどういう……」

「見てろよー、哲ちゃん! 姉ちゃんの漫才で笑かせてやるぜー!」


 それだけ言い残して、姉ちゃんは去っていった。


 お笑いのテッペン?

『でびるきっず』の里中ひとみ?

 そもそも、相方がいないのに漫才とか言ってるけど大丈夫か?


「急にどうしたんだ……?」


 腐りかけていた芸人が、いきなりやる気になったんだが。


 正直、困惑している。

 姉ちゃんの漫才がひさしぶりに見られるのは嬉しいけど、それがどうして弟のためになるんだ?


 ……きっと考えてもわからないだろうな。


 わかっているのは、また姉ちゃんの漫才が見れるかもしれないってことだけだ。


「やれやれ。本気出すの遅いっつーの」


 だけど……楽しみだな。

 あの姉ちゃんが漫才なんて何年ぶりだろう。


 妙な高揚感を覚えつつ、部屋に戻るのだった。

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