第3章 一日だけ、恋人になってみない?

第9話 かつて天才だった、笑いのシンデレラ

 俺は杏子の家を出てから真っ直ぐ帰宅した。


「ただいまー」


 挨拶しながらリビングへ向かう。

 そこにはTシャツ姿の姉ちゃんがいた。下はパンツ姿だ。


「おかえり、哲ちゃん。ごはんにする? お風呂にする? それとも……ワ・タ・ル?」

「誰だよ、ワタルって。いいからズボン履きなさい」

「ぶぅー。弟がつめたーい」


 文句を言いつつ、姉ちゃんはデニムを履いた。


「今日は『観ルネ』行ってきたんだっけ? それにしては帰りが遅かったね」

「うん。終わったら杏子の家に行ってネタ作りをして……おい。なんだその目は」


 ……姉ちゃん、めっちゃニヤニヤしているんだが。


「杏子ちゃんの家に行ったんだ? ふーん?」

「別に普通でしょ。相方なんだから」

「で? ヤった?」

「ヤらねぇよ!?」


 何を言いだすんだ、この姉は!


「マジかー。哲ちゃん、ヘタレかよー」

「なんで俺が杏子に手を出すんだよ」

「だって可愛いし、体えっちくない?」

「な、何言って……」


 可愛いよ。いつも見惚れてるし。

 体のほうは……ノーコメントで。


「哲ちゃん、顔赤い! やらしいこと考えてる証拠だ!」

「か、考えてないわ!」


 嘘です。少しだけ考えました。姉ちゃんが『えっち』とか言うからだろ……。


「まったく姉ちゃんは……それより今日はバイトじゃないの?」

「いや、今日は休み。さっきまで事務所のライブ出てた」

「マジ? お客さん来た?」

「ガラガラだった。会場も狭いし、出演者も男ばっかりで最悪。芸人の控え室マジ男くさい」


 そう言って、姉ちゃんは鼻をつまんで変顔をした。


 姉ちゃんの所属する芸能事務所は弱小だと聞いている。テレビに出るような有名芸人はいないらしい。


「そっか。女性芸人は姉ちゃんしかいないんだっけ」

「そーそー。完全な男社会ってヤツ。姉ちゃんだけ着替えトイレだし。あー、くそ! ピン芸人辞めて、いい香りのする女性芸人とコンビ組みたい! 若いギャルとイチャイチャしてぇ!」

「直球でセクハラだね……」


 それもうおっさんの愚痴だろ。


「でもまぁ、コンビ組んだらいいんじゃない? ピン芸人寂しいって、自分でもよく言ってるじゃん」


『でびるきっず』解散後、姉ちゃんはずっとピン芸人を貫いている。


 ピンが性に合っているのかと思いきや、ただ相方が見つからないだけで、本当はコンビで漫才をやりたいらしい。


「言ったでしょ、哲ちゃん。姉ちゃんはね、女性芸人と組みたいの!」

「そうだけど……事務所は男しかいないんでしょ? なら仕方ないじゃん」

「うるさい! 正論で姉ちゃんをいじめるな! ぷんすか!」


 姉ちゃんはリスみたいに頬をふくらませた。

 あの、年の離れた姉にそんなリアクションされても可愛くないんですが……。


「まあ頑張ってよ。俺、姉ちゃんのこと応援してるから」

「お、ツンデレ?」

「違うわ! いいからとっとと売れて、テレビとか出ろ! 実力あるくせに!」


 俺は『でびるきっず』の全盛期を知っている。


 姉ちゃんは誰よりも面白かった。舞台に立てば無敵。テレビでも無茶ブリに器用に対応し、司会者の期待に応えていた。


 陳腐な言葉かもしれないけど、『笑いの天才』とは姉ちゃんのことかもしれない本気で思っていた。


 そんな俺の憧れだった姉ちゃんが今、売れない芸人をやっているのが不思議でならない。


「テレビかぁ……また出たいけど、難しいね」


 姉ちゃんは、寂しそうに笑った。


「私はシンデレラ。もう魔法が解けちゃったの。今は普通の女の子なのだー」


 誤魔化すようにふざけて、姉ちゃんはリビングを出ていった。


「なんだ、その寒いボケは……」


 拳をぎゅっと握り、その場で立ち尽くす。


 一ミリも笑ってやれなくて、なんだか悲しい。


 ……姉ちゃんの言うとおりかもしれない。


 魔法が解けた姉ちゃんは、今では『かつて天才だった女の子』。


 彗星のごとく現れた笑いの天才、『でびるきっず』の『里中ひとみ』ではないのだ。


 あのとき、解散しなければ、なんて。

 そんな複雑な気持ちを抱えてしまい、俺はまた悩むのだった。

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