第2話 家ではパンツ姿の俺の姉ちゃん、元売れっ子芸人でした
とある放課後の帰り道。
俺と杏子はいつも別れる十字路に差しかかった。
「じゃあね、テツ!」
ぶんぶんと手を振る杏子。
「うん。また明日」
別れの挨拶を交わし、それぞれ反対方向に歩き出す。
時刻は十八時を過ぎている。薄暗くなった住宅街は静かで、帰宅途中の学生やサラリーマンがぽつぽついる程度。遊んでいる子供の声は聞こえない。
どこからか香ばしい匂いが漂ってくる。たぶんカレーだ。今晩、うちもカレーにしようかな……。
考えながら歩いていると、自宅が見えてきた。
俺の両親は二人とも海外出張で家にはいない。たまに電話で連絡を取ったりもするが、父も母も多忙だ。家に帰ってくることはほとんどない。
だから、俺は年の離れた姉、里中ひとみと二人で暮らしている。
両親が不在でも姉がいるから寂しさはないが……俺の姉ちゃんはちょっと変わっていた。
玄関のドアに手を伸ばす。鍵は開いていた。姉ちゃん、まだバイトに行ってないのか。
「ただいまー」
靴を脱ぎながら言うと、リビングのドアが開いた。ぱたぱたとスリッパの音を鳴らしながら、姉ちゃんがこちらへ向かってくる。
「おかえり、哲ちゃん! 会いたかったよぉ!」
「大げさ。今朝会ったでしょ」
「あっ、芸人のくせにノリ悪いんだー。今のはお姉ちゃんへの愛を爆発させるシーンでしょ?」
「怒りが爆発しそうだよ。あとその格好でうろつくのやめてって言ったじゃん」
姉ちゃんはよれよれの白いTシャツ姿だった。下はパンツ一丁という、なんともだらしない格好である。
姉ちゃんは美人だ。髪型はピンク髪の青メッシュでショートボブ……かなり独特なセンスの持ち主だが、顔は整っている。スタイルもいい。友人には「美人なお姉さんがいて羨ましい」とよく言われるが、この格好を見せたらみんなドン引きなんだろうな……。
呆れていると、姉ちゃんは「てへっ」と笑った。今年で二十一歳になる女性のリアクションとは思えない。
「こりゃ失敬。思春期の哲ちゃんには刺激が強かったかー」
「はいはい。セクシーすぎて頭痛がするよ」
「そんなスケベな弟に、お姉ちゃんの衣類の洗濯を命じる。もちろん下着もだ。好きなだけくんかくんかしなさい」
「しねぇよ!?」
「弟を興奮させてしまった責任くらい取らせてよ。それがお姉ちゃんのできる唯一の罪滅ぼしだから……さあ嗅げ! おらっ!」
「罪滅ぼしは服を着ることだと思うよ!?」
のせられて、おもわずツッコミを入れてしまった。どうして姉弟で漫才をしないといけないんだよ。
「だははっ! 哲ちゃんのツッコミは相変わらず鋭いなぁ。たとえるなら……まりもみたい」
「たとえ下手くそか。カビ生えた草餅のたとえだろ、それ」
「う、気分悪い……お姉ちゃん、先端恐怖症なの」
「まりも尖ってないから。てか、時間平気なの? 今日バイトでしょ?」
姉ちゃんは居酒屋でアルバイトをしている。今日は夜からシフトに入っていると、カレンダーにメモしてあったはずだ。
「平気だよ。弟が可愛すぎて遅刻しましたって言えば許されるから」
「緩すぎる……そのバイト先、大丈夫なの? 辞めたら?」
「うーん。バイト辞めたら生活できないからなぁ」
姉ちゃんの何気ない一言には、どこか哀愁が漂っていた。
バイトしないと生活ができないのは、姉ちゃんが夢を追いかけて、厳しい道を歩んだ結果だ。応援こそすれ、同情するのはお門違いだろう。
「……今の姉ちゃんでも、バイトしなくても稼げるようになるでしょ」
情けをかけているわけじゃない。
ただ、自然と本心が口から漏れた。
「……今の姉ちゃん、か」
姉ちゃんは微笑み、俺の頭をそっと撫でた。
「優しい弟の想い、受け取ったよ……お姉ちゃんのこと、ラブなんだね?」
「断じてない!」
「だよねー。杏子ちゃん一筋だもんね、哲ちゃんは」
「なっ……!」
「それで? ちゅーは済ませたんでしょうね? お姉ちゃんは気になってこのあと眠れないよ!」
「してねぇよ! あと寝るな! バイト行け!」
弟の恋愛事情に首を突っ込むな。余計なお世話だっての。
「なーんだ。まだ付き合ってないのか。このヘタレめ」
「うるさい。はよ職場へ行け」
俺は姉ちゃんに背を向け、階段を上った。
自室へ入り、ベッドに鞄を放り投げる。
椅子に腰掛け、ため息をついた。
「はぁ……自慢の姉、だったんだけどなぁ」
昔の姉ちゃんはキラキラしていた。みんなに馬鹿にされながらも、夢のために必死に努力し、結果も残していた。
それが今ではあんなだらしない大人になってしまった。ファッションも奇抜だし……あんなファンキーな髪の色、見たことないよ。
「まあ今も尊敬はしているけどさ」
独り言ち、机の上に広げられた雑誌を見る。
見出しには「人気急上昇中! 現役高校生男女コンビ『でびるきっず』に直撃インタビュー」の文字。今から三年前の記事だ。
でびるきっず……彗星のごとくお笑い界に現れた、若手の男女コンビだ。
新規性のあるアイデア。脚本の構成力。感情のこもった演技。笑いのセンス。どこを切り取ってもハイレベルだった。現役高校生という話題性も相まって、当時はメディアもこぞっと取り上げたっけ。
ぼんやりと記事を眺める。
インタビュアーの『男女コンビの相方を異性として意識することはないか?』という質問が太字で書かれていた。
答えていたのは、ボケ担当の女子高生。
名前は、里中ひとみ。
姉ちゃんの名前だ。
姉ちゃんは今でこそ売れない芸人だが、昔は売れっ子芸人だったのだ。
……何度この記事を読み返したかわからない。
記事にはこう書かれている。
『相方を好きになったら困りますよ。だってそれ、相手を異性として意識してるってことですよね? 面白いこと、言いにくくないですか? 私は好きな人に面白い人って思われたくない。可愛い女の子って思ってほしいですもん。一発ギャグとか、頼むから見ないでーってなっちゃいます。体を張った芸とかもそう。好きな人に醜い自分を見て笑われたら傷ついちゃう……どうです? こんな乙女チックな芸人、面白くないですよね? だから私、彼と組んでいるんです。最高に面白いヤツだけど、全然タイプじゃないので(笑)』
つまり「相方に恋愛感情を抱いた時点で、芸人よりも乙女でありたいと思ってしまうので、面白いことが言いにくくなる」という主張だ。女性に限らず、男性の場合もしかり。「好きな女性の前ではかっこつけたい」という心理があれば、恋をした相方の前では思い切った芸ができないだろう。
この記事に対して、当時の俺は特に感想を持たなかった。正直、ふーんって感じ。
自分には関係のない話。
コンビ間の恋愛なんて起こりえない。
相方が女の子だというのに、何故かそう思い込んでいた。
ふと姉ちゃんとの会話を思い出す。
「……こんなの読ませられて、そう簡単に相方と付き合えるかぁぁぁぁ!」
この場にいない姉にツッコミを入れ、雑誌を放り投げるのだった。
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