私たちだけの時間

 そして私はスタート・ゲートから解き放たれる。

 ピリピリした雰囲気のパドックから解放された、私たちの唯一自由な時間が始まる。

 たった3分間で自分の全てを燃やし尽くす、濃密な時間レース

 コースを攻めているこの瞬間だけは、私たちは幸せ。


 ダウンヒルの競技形式はタイムトライアル。ライバルと直に競い合うことはない。

 でも私には、私にだけは理解わかる。あなたがどこをどう走るのかが。


 このストレートで、あなたフレスカは暴力的に私を置き去りにして行く。

 このコーナーで、あなたマリアは華麗に私をかわして行く。

 この落下ドロップ・オフで、あなたフレスカをかわす。

 この登り返しで、あなたマリアをぶち抜く。

 私にだけは見えるあなたに、もう何度抜かれたのか。

 私にだけは見えるあなたを、もう何度抜いたのか。

 数えてみるたびに、うんざりという言葉すら超越した感情が心を占める。

 それでもまだ、あなたの背中を見ている時のそれに比べればはるかにマシ。

 ゴールするまで果てしなく繰り返される競り合いが、私たちの愛の行為。


 私は自転車マシンが大好き。とこまでも私の意思と同調して、手足とまったく変わりなく動いてくれる。

 私は自転車マシンが大嫌い。少しでも気を抜くと私の意思に逆らって、あさっての方にすっ飛んでいく。


 いつも、あなたが転倒クラッシュすることを望み願っている。

 けれど、あなたが転倒クラッシュしたレースほどつまらないものはない。


 この競技を知らない人達からは、私たちはしばしば「命知らず」「頭のネジが飛んでる」「切れている」と言われる。

 でも私たちは、周りが想像するよりずっと、「命を守る」ことに貪欲だ。

 ただ想定しうる事態のリストに、「自分が死ぬ」という項目も設定リストアップされているだけ。

 その上で私たちは、自分の命を守るため、冷静に、もっと表現するなら機械的に、最適な動作を瞬時に選択し実行し続けている。

 ただ、いつでも止まれば安全いきられると限った話じゃない。突き進んだ方が安全ないきられることもある。その選択を間違えないこと、それをいつも肝に銘じている。


 ゾーン?

 あんなのは所詮、誰にだって訓練で身に付く技術。

 あえて付け加えるなら、やっぱり体力の裏付けは必要。それくらい。


 かつての私は、欲求不満の塊だった。

 なぜならどんなに手を抜いても、私に勝てる人なんて現れる気配すらなかったから。

 自分が試された、磨かれた、鍛えられえたという手ごたえは、どんなに一人で走っても皆無だった。

 かつての私は、勝敗なんて関係なく、レースをタノシンでいた。

 なぜならどんなに「遊び」を混ぜたって、私に勝てそう人なんてついぞ見当たらなかったから。

 むりやり自分を高めるためには、私はどんどん「遊び」を多く、激しくしていくしかなかった。

 そんな私を、あなたとの出会いがいっぺんに変えた。

 あなたと会って初めて、私は自分が試されている実感を得られた。

 あなたと会って初めて、私は遊ぶことを止めて勝ち負けを現実リアルに意識した。


 誰よりも上手く走りたい。足をつくなんてもってのほか。

 ただただ楽しく走りたい。他人だれかの作った定石セオリーなんて知ったことじゃない。

 でも今は、ただあなたより皮一枚でも先にゴールすることが全て。

 勝つためなら、足だってつける。

 勝つためなら、定石セオリー通りの走りもする。

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