うわべだけの平穏

 今日ももうすぐ戦いレースが始まる。

 あなたと共有する最高に忌まわしい、だけど最高に濃密な時間が始まりを告げる。


 あなたにはできるだけ遠くにいてほしい。

 けれど、あなたの気配が消えた空間は寂しくてしかたない。

 顔も見たくない。でも会わずにはいられない。思考回路が滅茶苦茶にこんがらがる時間が、永遠にも長く感じられる。


「あら、元気してた?」


 それでも一度顔を合わせてしまえば、あとの会話は自分でも意外なほど弾む。

 ただし、二人の間でいつの頃からか、暗黙のうちに交わされた契約。

 レースの話はしない。自転車バイクの話もしない。


 ここのパスタ、麦もゆで加減も最高。

 私はちょっと、お米が恋しい。

 ジェラートは柔らかくて甘いのが好き。

 私は甘さ控えめのあんみつを食べたい。


 やっぱりたまにはワインくらい飲みたいわよね。

 私はお酒はいいかな。香りのいいお茶があれば満足。


 山はやっぱりステルヴィオね。とてもじゃないけど人間は近寄れない雰囲気が最高。

 ステルヴィオなんて高いだけで不格好よ。富士の美しさを一度生で見てみなさい。


 シャンプー変えたのね。髪がふわっとして柔らかくなった感じ。香りも優しい。

 そのルージュ、少し暗めの色があなたの真っ白な肌をよく引き立ててる。

 やっぱり私たちにはGirls Love Dirt! だと思うの。

 私は普段はもっとおしゃれしたい。ひらひらしたスカートも履きたい。


 ねえ、胸が大きくなるいい方法って知らない?

 胸なんて、大きくったって私たちには邪魔で重たいだけよ。

 そういえば彼とはどう? まだ籍は入れないの?

 それがアイツの悪い癖でね、また男の子に手を出して。今さら怒る気にもなれないけど。

 マンネリなら、私が一肌脱いでもいいわよ。今フリーだし、彼、ルックスは好みだし。

 そうね、気が向いたらまた頼むわ。アイツも、あなたみたいな美人を相手にできるならって。


 一見仲のいい、でも微妙にかみ合わない会話がしばしの間弾む。


 つかの間の日常を終えて走り出すまでの時間。これだけは慣れることはない。たぶん、この先もずっと。

 振り払っても振り払っても、不吉な予感が脳を支配する。

 ここで転倒クラッシュする。ここでコースアウトする。最悪の事態に至る。

 そんなことばかり考えて、どんどん走るのが怖くなっていく。

 メカニックとの会話ビジネストークなんて、この感情を薄れさせるどころかますます濃くしていくだけ。

 だけどそんな懊悩おうのうも、待機位置ネクストポジションについてあなたの背中を見たとたんに、きれいに雲散霧消する。

 そのあと考えられるのは、あなたを打ち倒すことだけ。

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