第12話分隊長が熊を殴り殺す


「分隊長……」


 現れたのは、ユアだった。


 熊に跳び蹴りしたらしい彼は、凶暴な猛獣を睨みつけていた。熊は突如現れた新たな敵に対して、唸り声をあげている。そうやって、敵を威嚇しているのだ。


「下がっていろ」


 ユアはカゼハヤとアシアンテの方を見ずに、そう言った。自分に向かってくる熊に、ユアは恐れることなく正面から向かっていく。


 熊の体重は、おそらくは人間の三倍以上はあるだろう。武器を持たない場合は、体重と身長の差が勝負の勝ち負けを大きく分ける。


 さらに熊は鋭い牙や爪を武器とし、脂肪と毛皮という鎧も持っている。ナイフや剣を持ったぐらいでは、人間は熊に敵わない。そして、ユアはそれすらも持っていない。


 熊は、ユアの身体を引き裂こうと爪を振るう。巨体から繰り出されたとは思えない速さの攻撃をユアは腕で防ぐ。その腕には、うっすらとしか傷が付かなかった。その光景を目の当たりにしたカザハヤとアシアンテは呆然とする。


 彼らも猛獣の恐ろしさは知っている。


 だからこそ、熊の爪が人間の皮膚を切り裂かなかったことに驚いたのだ。


 ユアは熊の眼前にまで跳び上がって、その鼻を蹴り上げた。動物にとって鼻は敏感な器官の一つであり、弱点であることが多い。そこを蹴られた熊は一瞬だけ脅えたような様子を見せたが、すぐに牙を見せて威嚇を再開させる。


「リッテル、メレナーデ。ここまで熊が凶暴になっているのは、おかしい。近くに子熊はいないか?」


 ユアは、子育て中が熊の凶暴性を高めていると思ったようだ。しかし、今は熊の子育ての時期ではない。


「分隊長、熊の子育ての季節ではありません!おそらくは薬物を使用されていると思います!!」


 メレナーデの言葉に、ユアは難しい顔をした。


 普通の人間であっても、薬を投与されたら凶暴化する場合がある。過剰な興奮に加えて、痛みを感じ難くなるのが一因である。人間であってもそうなのだから熊に薬物を投与されていれば、もはや武器と言わざるを得ない。


「メレナーデは他の生徒の安否を確認しろ。この場は、僕が始末をつける。リッテルは、そこの生徒の保護を」


 ユアの命令に、リッテルとメレナーデは「はいっ」と短く答える。それを確認することもなく、ユアは熊の顎を殴り飛ばした。


 熊の巨体が一瞬だけ宙に舞って、畳みかけるようにユアは熊の腹を蹴った。熊は、その巨体にも関わらず木に叩きつけられる。


 その光景を見た瞬間、リッテルは熊の気持ちを考えてしまった。薬で興奮させられて、本能のままに暴れ、そして小さな動物が自分に挑んでくる気持ちというものを。


 そこに恐ろしさはないであろう。


 相手は小さく、自分は大きい。興奮で脳みそは沸騰しており、正しい判断もできない。ならば、恐怖すらも感じていないはずだ。


 それは、幸いだ。


 死を目の前にする恐怖をリッテルは知っている。


 だからこそ、リッテルは熊が恐怖を抱かずに死ねることを密かに喜んだのであった。


 ユアの身体は、熊の眼前にあった。彼は再び跳び上がり、興奮して立ち上がる熊と見つめあっていた。ユアの親指が、熊の一番柔らかいところを抉る。


 それは、熊の眼球であった。


 この世のものとは思えない叫び声が、森に響く。


 ユアが熊から離れたとき、彼の身体は血でべっとりと汚れていた。それは、すべて熊の眼から出血したものである。血の涙を流しながらも暴れる熊と冷めた表情のユアとの対比が、リッテルにはとても恐ろしい。


 ハデアは、自分のためだけに動く操り人形を欲した。


 攻撃性が高く、凡庸性が高い、魔法使い。


 そのような魔法使いが、忠犬のように自分に付き従うことを望んだのだ。


 その思惑の元に作られたのが、ユアである。


 故に、彼は殺すことを躊躇わない。敵だと認識したものに手心を加えたりしない。軍という組織を裏切ることも許さない。


 そして、ハデアという存在を恐れながらも信じている。


 熊から視力を奪ったユアは、敵を探して必死に暴れまわる猛獣に対して蹴りや正拳を食らわせる。彼が、標的にしたのは熊の頭であった。熊の頭蓋骨は非常に丈夫であり、人間の拳で破壊するのは難しい。けれども、ユアは頭を必要に狙うのだ。


 おそらくは、脳震盪で動けなくなることを狙っているのだろう。ユアの魔法は、リッテルと違って近距離での攻撃が主体である。だからこそ、熊相手でも地道に殴るしか方法がない。


 やがて、熊は倒れた。


 さすがのユアも息切れを起こしていたが、姿勢を正してすぐに呼吸を整えた。そして、彼は自分が殴り殺した熊を見つめている。


 その顔に浮かぶのは、無だった。敵である熊の命を奪っても、毅然としているユアの姿は軍人そのものだ。


 リッテルは、それが少し悲しい。


 今はせっかく学園にいて、彼は生徒なのだ。少しだけならば、子供らしくても良いのではないかと思ってしまう。それと同時に、そのようなことが出来ないからこそユアの居場所は学園ではないと思うのだ。


 そんなことを考えていればリッテルは、アシアンテが腰を抜かしているのを見つけた。暴れる熊が恐ろしかったのか。それとも、それを殺してしまえるユアが恐ろしかったのか。あるいは、両方か。


「リッテル。念のため、お前の魔法で止めを刺しておいてくれ」


 熊が脳震盪を起こして一時的に動かなくなっただけという可能性をユアは危惧したのだろう。リッテルは命じられた通りに、動かなくなった熊に声の魔法でもって止めを刺した。


「指、折れていますね。ファレジの旦那に治してもらわないと腫れあがって大変なことになりますよ」


 おかしな方向に曲がってしまった指を見て、ユアは顔をしかめた。魔法で肉体を強化していたが、熊を殴ったときに負荷に耐えきれず痛めたのである。そこに痛みを感じている様子はなく、折れた指でさえもユアは煩わしいとしか思っていないようだ。


「やはり熊の頭蓋骨は固いか。僕はここにいるから、リッテルもメレナーデと共に生徒の安全確認をしろ。手に負えないことがあったら、僕が出るから呼べよ」


 ユアの命令に従おうとしたリッテルは、自分たちを見つめる視線に気が付いた。それをたどっていけば、アシアンテとカゼハヤがいる。


「あの……さっきからリッテル先生は、ユアのことを分隊長って呼んでいましたよね。ユアも先生に対して、すごく偉そうだし」


 アシアンテの苦笑いに、リッテルは冷や汗をかく。


 今までの言動は、明らかに生徒と教師のものではなかった。そもそも巨大な熊を倒す時点で、普通の生徒の実力ではない。


「……従兄だ」


 どうしてなのか、ユアはそんなことを言い出した。この言葉には、その場にいたアシアンテやカゼハヤも唖然とする。リッテルの顔も引きつってしまった。


 教師であるリッテルに対して偉そうな態度をとったことや分隊長と呼ばれたこと。それらのことをユアは「従兄だ」の一言で誤魔化せると思っているらしい。


「リッテルは僕の従兄だから、僕の部下。熊を倒せたのは、入学前からリッテルに魔法を習っていたから」


 一応、ユアなりには理由を考えていたらしい。真実味はあるかどうかはともかく、一応は理屈が通る。あくまで、一応だが。


「入学前に魔法を習った程度で、巨大な熊を倒せるか!」


 カゼハヤはもっともなことを叫んで、ユアに掴みかかる。アシアンテは、興奮するカザハヤを止めようとはしていた。だが、年齢の割には屈強なカザハヤをアシアンテは止められないでいる。


「こらっ、教師の目の前で喧嘩するなって」


 リッテルが間にはいろうとすれば、カザハヤが鋭い視線で睨んできた。


「なにが従兄だ。教師なら、そのバレバレな嘘の説明をしろ!」


 怒り狂っているカザハヤにどのような説明するべきかをリッテルは迷った。別に真実を話す必要もないが、下手な嘘をついても信じてはくれないだろう。それどころか学園に戻っても騒ぎ立てる可能性がある。


「……始末するか」


 ユアは、ぼそりと呟いた。


 冗談だと信じたいが、少し前まで戦場を駆けていたユアが言うと洒落に聞こえない。


「じゃあ、本当のことを言うぞ!ユアは俺の上司で、本当は軍人なの。それで、今は極秘任務で学園に侵入中なんだ!!」


 どうにでもなれと言う気持ちでリッテルが真実を語れば、カザハヤとアシアンテの可哀そうなものを見るような目をした。


「先生……病気は恥ずかしくないんですよ。妄想と現実の区別がつくように、ちゃんと病院に行きましょう」


 アシアンテは、リッテルに優しく語りかけた。


 病人に対する思いやりが、リッテルにとっては辛い。ユアの話は嘘で、リッテルの話は妄想だと思われたらしい。


 生徒が教師の上司で今は任務中だと告白されたら、そのように判断されてもおかしくはないのだろう。だが、真実なのだから仕方がない。


「生徒の避難は終わった。こっちは、大丈夫だった?」


 役目を終えて戻って来たメレナーデは、リッテルたちの様子を見て首をかしげる。熊は倒したが、興奮したカザハヤをアシアンテとリッテルで宥める様子は理解しずらいものがあったのだ。


「メレナーデ先生。リッテル先生が、妄想と現実の区別がついていないようなんです」


 アシアンテの一言で、メレナーデは現状を理解してくれた。そして、神妙な顔をして口を開く。


「リッテル先生は、リハビリ中なの。あんまり刺激しないであげて」


 リッテルは、こうして患者扱いされることになった。



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