【ギルティ・ダービー】 #5
和田 輝之は、カワサキ駅到着と同時に電車を飛び出した。「す、すみません!」押し退けたサラリーマンの迷惑そうな顔に形だけの謝罪をしながら、エスカレーターを駆け上がる。「南口…南口…!」早くも上がり始めた息と共に次の道を確かめ、目の前を横切ろうとしたベビーカーにたたらを踏む。 1
空気を絞り出した肺がへたったバネめいて萎び、新たな空気を上手く取り込むことができない。人は全力で動くと、こんなにも疲れるのか。((も…もう、ダメだ…))いくら否定せども、心の中に弱音が響く。しかしそれを理性で踏み躙るように、輝之は足を前に出し続けた。 2
だが、足には疲労と無力感が纏わりついていた。瞬の下へ行き、自分に出来ることは何もない。そのような無駄の為に、きらめきの未来に自ら背を向けたのだ。見えるのは、力ない父の後ろ姿。母のヒステリックな怒鳴り声。灰色の日常が足からじわじわと己を蝕んでいる。体が少しずつ重くなる。 3
((クソくらえだ!))輝之は足を動かし続けた。((僕は決めた!やると決めた!彼女の下に行くと決めたんだッ!))全ての怯懦と絶望を振り切って、彼は前だけを見ていた。駅の地表南口の外には、闇を彩るネオンの群れが立ち並んでいる。そこに身を躍らせ、輝之は走り続けた。 4
探偵粛清アスカ
【ギルティ・ダービー】 #5
「さあ!やるぜ、斗るぜ、殺るぜッ!」歪んだスピーカーを通したような声で眞澄は叫ぶと、その瞬間、彼女は明日香の目の前にいた!「疾ッ!」眞澄は明日香の顔面を掴むと、そのまま押し倒すようにバイクから落とす!「ごウッ…!」明日香の後頭部が地面に叩き付けられ、芝が爆ぜ、地が抉れる! 5
眞澄は明日香の頭を地に打ったまま走り出した!「疾ィやァァァッ!」ターフに土の茶と血の赤い線を描きながら引きずられる明日香!「あ、ぐ、が…!」「どうしたッ!どうしたどうしたどうしたァッ!」眞澄は六つ眼が刻まれた顔で、裂けんまでに口を開き、笑う。 6
そこへバイクが追い縋る!操っているのは九龍!眞澄は彼を見、全ての目を楽し気に細めた。「はッ!」九龍は立ち上がると、拳と共に圧力を打ち出した!「おごッ…!」芝が弾け、眞澄が圧力に打ち据えられる。しかしそこに明日香の姿なし!九龍が訝った瞬間、バイクに衝撃が走る!「なッ…」 7
バイクは明日香を跳ね飛ばしていた!「篠田ァッ!?」時速300kmに到達するバイクの突撃衝撃は想像を絶する!眞澄がニヤリと笑った。彼女が投げ込んだのだ!明日香はワイヤーアクションめいて、弧を描きながら宙を舞う!「や、やべえ…」九龍は手首を切った。溢れた血が鴉となり、明日香の下へ羽撃く! 8
だがその瞬間、再度バイク衝撃!明日香の後を追うように、眞澄も宙を舞っていた!直後、彼女は明日香の上に瞬間移動。両者の距離を0にしたのだ!「疾ッ!」SMAAAASH!バイクの追突衝撃速度を加算した致命ハンマーナックルが明日香に叩き付けられた!明日香は矢のように地に落ち、芝を穿つ! 9
「ゴパッ」明日香は被った面の隙間から血を溢れ出させた。「はッ」眞澄は笑うと、抜かずの女帝を目指し再び走り始めた。彼女の脚は、今や《ユニコーン》の速度をも上回っている!異能の力に頼ることもなく、その距離は瞬く間に縮み始めた!「な…何なんですの、あの速度ッ!」前方の麟が驚愕する! 10
しかしその場に於いても、抜かずの女帝は、瞬は振り返ることはなかった。「…ああ、そういうことですの」麟は、小さく息を吐いた。抜かずの女帝は、追われることは日常茶飯事なのだ。彼女にとってこの事態は昼さがりのコーヒーブレイクと全く同じであり、そしてそれ自体が追う者への挑戦なのだ。 11
「こんなことに気付けぬとは、私もまだまだですわね」麟は鞭を音が鳴る程に握ると、愛馬に打った!「行きますわよ、バレットダンス。抜かずの女帝の日常を…ブッ壊して差し上げますわよッ!」「NEIIIIGH!」バレットダンスは一際高く嘶き、速度を上げた!「ハ!ハ!ハ!」笑う眞澄が追う! 12
抜かずの女帝とそれを追う者、その後に続く者。彼女らはターフの上で風となった!ドロイドもゾンビも最早彼女らには決して届かない。仕掛けられた地雷もガトリングも、あらゆるトラップもが空しく彼女たちの後ろで戦慄くのみ!『な…なんて走りだ…!』実況すらも言葉を失う! 13
バイク前部座席に移った九龍はアクセルを吹かし、眞澄を追う。爆発。銃弾。ワイヤー。あらゆるトラップが起動し、それすら置き去りにする走りに必死で食らいつかんとす!しかしテクニックは歴然であり、少しずつ引き離されてゆく!「くそ…どうにかしねえと!」その瞬間、眉間に飛来する矢! 14
「うおおーッ!?」車体を思い切り傾けて回避!芝が巻き上がり、土煙が弾ける。蛇行させて立て直すその間に、先頭はさらに離れている!「くそ、どうすりゃいい…」歯噛みする九龍。しかし爆発やトラップに阻まれ、距離は少しずつ開いてゆくばかりだ。((近道…近道が必要だ!))九龍は目を細める。 15
彼は明日香や眞澄がやっていたようにバイクに立ち上がると、おっかなびっくりとハンドルを踏んだ。精神を集中させる。彼の脳裏には、このレース中に何度となく見てきた動きがあった。選手が披露したその動き。やれる。今の自分なら。否、やらねばならぬのだ!意地と共に拳を下に突き出した! 16
KRAAAASH!轟音と共に地面が抉れ、バイクが跳ね上がった!その音に反応し、眞澄と麒が目だけを後方に向ける。「へえ、意外とやるじゃんか」眞澄は笑った。宙舞う九龍のバイクは加速ができない。しかし彼は爆発の跡やトラップから安全地帯を見出していた。そしてエンジンを吹かし……着地! 17
瞬間、限界まで回されたタイヤが爆発的な速度を与えた!安全地帯より導かれる最短ルートを真っ直ぐに、解き放たれた矢のように走り、瞬く間に距離を詰める!「捉えた…!」九龍は再びバイクに立つと、拳を構えた。狙うは眞澄の背中!拳より放たれる重圧の魔法で、討つ! 18
その瞬間、眞澄は横に跳んだ!「疾ッ!」柵を蹴り跳び、九龍にジャンプキックを見舞う!「うッ!」九龍は受けるが僅かにノックバックし、後部座席に追いやられる。眞澄はバイクのハンドルを踏み、コントロールを奪っていた!「ヨグ=ソトースの拳…珍しい魔法持ってるじゃねえか」 19
眞澄は迎撃しようとした九龍の拳を足で抑え、逆脚で回し蹴りを放つ!「ぶ…」「疾ッ!」眞澄は再びハンドルを踏むと、傾いだ九龍の胸倉を掴み、連続で殴り付けた!「ゴボーッ!」血を吐く九龍。その血は中空で刃となり、しかし眞澄はそれを弾き、いくつかは掴み取り、九龍に叩き付ける!「ウ……」 20
「お前」眞澄は殴打を続ける。「最近ク・リトル・リトルだの荒覇吐だのとうるせえ木っ端探偵共の何かだろ。話題だぜ?監査官のケツに引っ付いてる羽虫ってよ」話しながら眞澄は一時たりとも攻撃を緩めない。「粛清に協力するから殺さないでー、とか裏取引でもしたか?クローンレイブン如きが」 21
九龍は最早、抗う術も応える術すらも持ち合わせていなかった。「ここは戦場だ!他に命を委ねるしかできねえ弱者の来る場所じゃねえ!それとも弱者だって生きてるとでも言うつもりか?知ってんだよ、ンなことはなァーッ!」「グワァァァァーッ!」強烈な衝撃が九龍を襲う。 22
眞澄は力なく痙攣する九龍を片手で吊り上げた。「だから、殺すんだよ。強者が弱者の命を恣にする。それが戦場で、ここはそういう世界だ」灰色の荒野を疾走するバイク。眞澄は灰色の風の中、小さく溜息をついた。「じゃあな。お前、全然ワクワクしなかったぜ」 23
その瞬間、眞澄の第六感が警鐘を鳴らした!「疾ッ!」九龍を放しバイクより飛び降りると、再び疾走を始める。その傍らに、氷の鉤爪と口吻じみて鋭き嘴持つ、氷の獣が並走していた。「…コイツは…!」篠田 明日香。その筈だ。だがこの姿は。凶気は。放たれるWi-Fiは何だ! 24
「GRAWL!」獣そのものの唸りと共に、明日香は氷の拳を叩き付けた!「ヌウーッ!」眞澄はクロス腕でそれを受け、唸る!防御の上からでも襲う痛苦に、眞澄は顔を歪めた。「GRAWL!」追撃を重ねる明日香、しかしその拳は空を切った。眞澄のNEWO能力により『距離』が離されたのだ! 25
「疾ッ!」眞澄はナイフを連続投擲!明日香は見切り、氷の刃を飛ばして迎撃!見かけ上、数cmにも満たぬ二人のあわいに冷たい火花が散る!馬より速く駆ける両者。続けざま生まれる冷たい火花がターフの上に花道を描き、しかしそれは死出の道。そして今、ここにあるのは死の祝福のみ! 26
やがて二人は距離を少しずつ詰め、そして激突した!「GRAWL!」「疾ッ!」KRAAAACK!氷が砕け、舞った血が煌めく。視線に殺意が乗り、交錯する。その中にのみ流れる僅かな静寂の後、再び同時に拳を放った! 27
SMAAAACK!何度となくぶつかり合う拳が衝撃を生み、衝撃が速度に転化し、速度は威力となって衝撃を生む!拳撃嵐の永久機関!疾走と共にそれを育むは紛うことなき神業であるが、しかしてそれは拮抗などしていない。見よ。氷の獣、篠田 明日香を覆う氷。そこに刻まれた無数の瑕疵! 28
「…お前」拳撃の中、眞澄は言った。「粛清に迷いでも抱いているのか?その果てにヤケッパチか?拳がブレブレだぜ」「…」「ガキなんだよ。お前も、あのクローンレイブンも。ひょっとして粛清を悪者退治とか、害虫駆除みたいなモンと勘違いでもしてたかよ」「…その通り。貴様らは汚らわしい虫だ」 29
「声まで震えてるぜ」嘲笑う眞澄。「さっきも言ったろ、ガキなんだよ。自分の理想と現実のギャップに頭がついて来てねえんだ、だから迷いが生じるんだよ」「……」「生きてんだ、誰も彼もな。考え、感じ、生き、死んでんだよ」「…」「そしてお前はここで死ぬ」 30
「グ…!?」その瞬間、明日香の脇腹に槍めいたサイドキックが突き刺さった。疾走の最中、速度を乗せた蹴りを叩き込む。その技術!「あぁぁぁッ!」明日香はくの字に折れ曲がって吹き飛び、芝を転がる!「うッ…!?」突如として飛来した人型に麟が怯み、バレットダンスがわずかにバランスを崩す! 31
「疾ッ!」眞澄は跳躍!明日香に追いつくと、芝を滑りながらの連続打擲を始めた!「これが戦場で迷ったヤツの末路だ」明日香は繰り出される拳をブロックしようとするが、しかしそれすらもままならない。打たれるがまま!反撃も、彼女の能力で距離を弄られているか。決して届かない! 32
「うあああッ!」KRAAAASH!明日香を覆う氷が砕け、飛び散った!「容易いな」眞澄は散った氷を払い除けた。芝を滑る明日香の体が止まった。氷の獣の目が裏返る。それを確認すると、眞澄はチョップ腕を厳粛に振り上げた。そして、落とした! 33
その時、眞澄に影が落ちた!「むッ!」明日香の首を掴んで飛び退く。直後、芝に深々と亀裂が走った!「これは…!」「ヨグ=ソトースの拳はこんな応用もできるんだぜッ」上空!跳躍したバイク上で九龍が叫んだ!「チョップに応用したか。それができるから何だ?状況は何も変わらん」「変わるッ!」 34
九龍は断言した。そして彼の言う通り、生まれた僅かな時間は、何かが変わるに十分であった!「GRAWL!」瞬間、明日香が己の首を掴む眞澄の腕を取り、関節を極めた!「うぐおおッ!?」突然の外力に膝を屈する眞澄。明日香は彼女を伴い、九龍が生んだ亀裂に転がり込む!「テメエ…何考えてッ…!」 35
眞澄は藻掻く。しかし膂力が同程度ならば、完全に極まった関節技を振りほどくなど不可能!戦士に囁かれる『関節の極まりが勝負の決まり』、その真実である!だが、明日香に眞澄を殺すことは能わない。極まった関節、明日香と接触しているのはそこだけであり、胴部と明日香までの距離は∞! 36
((そう、あたしの能力で引き延ばされた距離をコイツは踏破できん!))故にこれは完全なる膠着であった。否、不死者である眞澄が寿命の差で有利!だが明日香は、関節を極めたままに地面を掘り進んでいる!((なんだ?コイツは何をしている…!?))訝る眞澄。そこに上方より衝撃が襲い来る! 37
衝撃に土が崩れ、雪崩れ込む!「な…」眞澄の視界と聴覚は、瞬く間に闇に閉ざされた。ただ、右腕を極めたままの明日香の体温だけが残った。明日香は未だ、地下に向かって土を掘り進めていた。眞澄は確信した。目的は生き埋めだ。土を眞澄の体表前面に密着させ、距離変動能力を機能不全に陥らせる。 38
((無駄なことを))眞澄の距離のNEWO能力は、0~∞まで、対象との距離を操る。間にある各物体の距離に関しては、位置関係こそ無視できぬが、細かい設定が可能だ。土が体表全てに常に密着する程度ではどうにもならぬ。それ以前に格闘の業前は明日香よりも上だ。距離があろうとなかろうと関係はない。 39
だが明日香は、いつまでも下に掘り進むことをやめなかった。土の圧力が強まり、極められている腕が軋みをあげる。それでも尚、明日香は掘り進んでいた。((コイツ…どこまで行くつもりだ?))眞澄は冷汗をかいた。深く潜れば、彼女とて無事では済まない筈だ。いずれは土に潰される運命が…。 40
その時、眞澄は気付いた。明日香の体は氷の鎧が常に覆っている。耐久力は眞澄よりも上!そして恐らく、ここまで掘り進んだパワーもだ!「グワーッ!?」その瞬間、眞澄の腕が土の圧力に耐えかね、折れた!「GRAWL!」明日香が拘束を解き、素早く土を掘りながら眞澄から離れた! 41
眞澄は折れた腕を即座に、自らを覆う無限の中に引き込んだ。体を覆う全ての土との距離が開き、直後に浮遊感が襲う。土中に留まったまま、彼女は土との間にある無限を落ち始めた。彼女がこれまで土に潰されなかったのは、明日香に極められた腕以外の全てを無限で覆い、土との距離を保っていた為だ。 42
土との距離を無限に保っていれば、圧死はしない。だが、触れることもできない!「野郎、やりやがった…!」眞澄は苛立ちと共に吐き捨てた。彼女は完全に重さ数百トンの土の中に封じられていた。明日香の真の狙いはこれだったのだ!そして眞澄に数百トンを跳ね除けるような規格外の力は、ない! 43
眞澄は大きく息を吸い、吐いた。打開の為に動けば、即ち死。だがしかし。自分の力。そして頭脳。その全てをフルに使えば、乗り越えられぬことはない。今までだってそうしてきたのだ。((あたしは生きなきゃならん。家族の為にも…!))眞澄は闇の中に目を閉じ、ゆっくりと思考を始めた。 44
……しかし彼女の身体能力、距離と死のNEWO。それらにこの局面を打開する力は存在しなかった。如此、藤田 眞澄はカワサキ競馬場へと消えた。そして眞澄は不死者の力、Wi-Fiの力の所為で死ぬことすらもできなかったので、やがて考えることをやめた。 45
……麟は走りながら後ろを見やった。藤田 眞澄の姿がいつの間にか消えている。先に砕けた氷を吹き飛ばしてきて以降、攻撃もない。何らかの機を窺っているか、或いはあの氷の獣に殺されたか。((後者ならありがたいのですけれど))されど、これ以上に気を払う余裕はない。再び前に目を向ける。 46
残りは5000mを切った。もはや何かを警戒して余力を残す暇はなし!「バレットダンス。まだ行けますわね?」麟は前方、抜かずの女帝を睨みながら愛馬に語り掛けた。バレットダンスは度々首を振るように走っている。疲労と緊張は、既にピークだ。「フフ…とっくに限界、ですって?」 47
そして鞭を強く愛馬に叩き付けた!「ンなこた知ってんですわよッ!私の愛馬なら根性見せなさいッ!」「NEIIIIGH!」バレットダンスは嘶き、さらにスピードを上げた!少しずつ、しかし確かに抜かずの女帝、ブラッドアローとの距離が縮む!「よし…!」笑い、散弾銃を抜き放つ! 48
しかし、銃が重い!麟自身の疲労もまたピーク!人智を超越した膂力を持つ《ユニコーン》、それを御することの労力たるや!「ちッ…」麟は舌打ち、逆の手で銃持つ腕を支えた。そして!「ああああ、クソですわァァァァーッ!」振り上げながら銃爪を引いた!爆音と共に吐き出され、鉛が広がる! 49
抜かずの女帝は、当然のようにそれを見もせずに躱す。空を焼き、芝を抉る鉛の臭い。しかし麟は見抜いていた。ブラッドアローの動きには無駄があった。何かがおかしい。それは偶然か、或いは必然か。だが、ここで往かねば後がない。反動のままに銃を捨てると、そのまま愛馬に鞭を打つ。 50
麟の主観時間は、極度集中により泥めいて凝っていた。馬が芝を踏む感覚。呼吸の数。前との正確な距離。全てが正確に『見えて』いる。ジョッキー・麟、生涯最高のパフォーマンスであった。しかし、だからこそ。彼女には見えてしまった。抜かずの女帝、瞬に起きた異変が。 51
それは藤田 眞澄の執念が為した技か。或いは本当に偶然か。瞬の背には、氷の刃が突き刺さっていた。競馬人生で、彼女が初めて負った傷であった。それが故、抜かずの女帝の動きは精彩を欠いていたのだ。泥のような時間の中、鞭打つ麟の腕が鈍る。こんな勝ち方をして、それは真の勝利と言えるのか? 52
……言える。あの時、砕けて払い除けられた氷は殺意と共に飛ばされていたのだ。それを避けられなかったのは彼女の責任だ。或いは運が悪かったのなら、抜かずの女帝はそれまでの存在だったのだ。ならば勝たねばならない。彼女の日常を、追われるだけの日々を打ち砕くと。そう決めたのだから! 53
時間が押し寄せた!「NEIIIIGH!」打たれた鞭と同時にバレットダンスが加速!ついに抜かずの女帝、ブラッドアローと並ぶに至る!瞬間、二人の少女ジョッキーの視線が交わる。あどけない少女たちの目には、ぎらつく闘志が燃え上がっている!それは抜かずの女帝、瞬でさえ同様であった! 54
ブラッドアローが体をバレットダンスに寄せた!体当たりを狙っている!「はァッ!」麟は投げナイフを連続投擲!瞬は腕を回すようにして、それを払う。しかしいくつかは捌き切れず、肩口に刺さる!『こ、これはーッ!』叫ぶ実況!『抜かずの女帝が競馬人生で初めて手傷を負ったーッ!』 55
「「「ワオオーッ!」」」観客のボルテージが上がる!「フン」麟は顔に掛かった血を舐めとると、馬にさらに鞭を入れた。瞬もまた鞭を入れるが、しかし馬が加速を躊躇った!ブラッドアローの進路上、彼が足を置くべき場所にはナイフが刺さっていた!麟の投げナイフが! 56
これでは十全な加速を取ることはできない。麟はそれを狙っていた!対するバレットダンスはのびやかに加速を続ける。その結果が導くものは一つ!ハナ!クビ!3/4馬身!そして1馬身!バレットダンスがブラッドアローを、抜かずの女帝を追い抜いた!『うおおおおおーッこれはー…あ…?』 57
瞬間、実況の声が凍り付いた。その理由を全て観客はすぐに知った。コースに近い者は、直にそれを見た。遠い者は、大スクリーンに映るそれを見た。場外の客もまた、映るスクリーンによってそれを知った。肩で息をしながら競馬場に辿り着いた和田 輝之も、それを目にした。そして彼は、膝を突いた。 58
『抜かずの女帝』瞬は笑っていた。神の手になる彫像が如き顔を歪め、高揚に笑っていた。歯を剥き出し、肉喰らわんとす獣めいて笑っていた。瞬は戦場でしか生きられぬ戦士だと、そしてそれを自らの意志で選んだと、輝之は知った。彼の頬を静かに涙が濡らした。その瞬間、抜かずの女帝が銃を抜いた! 59
BRATATATATA!獰猛な唸り声と共に、短機関銃から驟雨の如く弾丸が吐き出された!バレットダンスは稲妻めいてジグザグに走り躱す!「あっはァ!」瞬が吼え猛る!「敵ッ!敵敵敵敵敵ィィィィーッ!」哄笑と共に殺意を撒き散らすそれは、まさに戦と殺戮の女神・カーリーの顕現! 60
「いやいやいや…!」麟はその殺意を一身に受けながら、芝を爆散させる弾丸衝撃を見た。そして恐怖した。((撃たれてるの絶対44マグナムより強い弾ですわよねッ?ロクに使わねークセに何でそんなアホアホカスタム銃ぶらさげてんですのッ!?))弾丸放つ悪鬼じみた女を見ないようにしつつ様子を窺う。 61
しかし直後に首を振り、やめた。ここまで来たのだ。様子を窺うなど無粋。ただ駆けろ。命ごと放たれた血の矢の如く!「勝ちますわよッ!バレットダンスッ!」「NEIIIIGH!」「あはァ!あッははははァ!」瞬が弾倉を振り捨て再装填。その瞬間、バレットダンスがさらに加速する! 62
最中、麟は全てのナイフを抜き、無造作に投げ捨てた。直後、その全てが弾かれ、破壊される!「あはッあはッあはははは!」瞬が赤熱し始めた銃口を向ける!「あなたッてそんなキャラでしたの…!?」放たれる弾丸を回避!が、掠めた左の耳が吹き飛ぶ!「ぐうあッ…!?」痛苦の悲鳴を噛み殺す。 63
ヘルメットが落ちた。その後を追って流れ出る熱い血が、芝に真紅の線を引く。ブラッドアローの蹄がそれを踏み荒らし、散らせて往く。耳を千切った弾丸の衝撃は未だ残留し、脳を揺らしている。いつ息を吐くべきか。どこに足を置かせるべきか。考えが纏まらない。それでも、走り続ける。 64
回らぬ頭で弾丸を避けることはできない。麟の体は、次々と弾丸に食い破られてゆく。強化処置故に大口径弾でも末端が吹き飛ぶようなことはないが、それでも受け続ければ死ぬだろう。((それでもいい))今だけは。((勝ちたい))この勝負だけは。((勝ちたい))瞬にだけは!「勝ちたいッ!」 65
ブラッドアローは、既にバレットダンスの後ろに付いていた!ブラッドアローが加速したのではない。バレットダンスが減速している!だがそれでも、決して脚を止めない!最後に残った根性。闘志だけが、彼女らを突き動かしていた。勝利への渇望。そしてついに、ゴールテープが…切られた! 66
『2134年、AAAカップ…』実況が声を絞り出した。ゴールテープを角に巻き付けているのは……バレットダンスだった。『1着はバレットダンスッ!ジョッキーは麟ッ!抜かずの女帝、ついに陥落ゥゥーッ!』「「「ワオオーッ!」」」歓声が上がった。それは、勝者への紛れもなき祝福であった。 67
その中で、バレットダンスとブラッドアローはゆっくりと脚を止めた。同時に、ブラッドアローの背から瞬が落ちた。「瞬さんッ…!」麟は愛馬から降り、瞬を抱え起こした。瞬の胸からは、氷の刃が突き出していた。背から受けたそれは、彼女の心臓を貫通していた。眞澄は暗殺を成し遂げていたのだ。 68
瞬は絞り出すように言った。「ありがとう…ございます、麟さん」「何がですの。と言うか私のこと覚えてたんですの?」「いつも私の後ろにいたじゃないですか。もし私に勝つなら、あなたかなって」「…」「あなたのお陰で最期に…いい景色が見られました」「…」「私の目も捨てたものじゃないなあ」 69
瞬は大きく息を吐いた。「…ごめんなさい、テルさん。結局、私はこんな風にしか生きられませんでした」「テル…?」「けど、ありがとうございました」譫言めいて呟く瞬を、麟は静かに見つめていた。腕の中で、徐々に抜けていく魂の重さを溢すまいと、麟は瞬を抱える。だが瞬は、やがて目を閉じた。 70
しかしすぐに目を開いた。「言い忘れました」「…何ですの?」「私、すごく強いんです。今まで負けたことなんて一度もなくて…勝つのが当たり前だった」「そうですわね。腹立たしいったらありゃしない」「負けるのって、すごい悔しいんですね」言うなり、瞬は万力めいて麟の胸倉を掴んだ。 71
「覚えてなさい…次は私が勝つッ!」「ええ」「絶対に…勝つ」「ええ」「必ず…必ず…!」「覚えていますとも。何度でも返り討ちにして差し上げましてよ」麟は笑った。それに応ずるように、瞬も静かに笑った。掴む手が、力なく落ちた。瞬は目を閉じ、二度と動かなかった。 72
俯く麟に、ブラッドアローが角をすり寄せた。「あなた…」だがそれは決して慰めなどではなく、視線は瞬に注がれていた。「ええ。あなたの主人…いいえ、戦友ですものね。お返しいたしますわ」麟は瞬の亡骸を抱え上げると、ブラッドアローの背に乗せた。彼は満足げにブルルと鳴くと、歩き出した。 73
しかしすぐに立ち止まり、麟を振り返った。彼は麟を待っているようであり…。「えっ」彼女は、ブラッドアローの背に生きて跨る瞬の姿を幻視した。それは実際幻であったが、しかしその姿には、待望と渇望があった。「…バレットダンス」麟は自らの愛馬を省みた。「もうひとっ走り、いけますわね?」 74
バレットダンスは覚悟を決めたように傅き、背を差し出した。「それでこそ私の相棒ですわ」麟が乗ると、バレットダンスは歩き出した。あるじの血に塗れ、しかし誇り高き姿であった。ブラッドアローも共に歩き、二騎は、開かれたままのゲートに入った。 75
『……おい、ゲート閉めろ』実況が言った。『早く閉めろって!スタートできないだろ。トラップの電源も切れ』言葉の最中、ゲートが閉じた。そして暫しの静寂が訪れる。人々は、神聖とさえ思えるその中で、ただ、並び立つ二騎を見守っていた。 76
ゲートが開き、二騎は同時にスタートした!「「「ワオオーッ!」」」歓声が実況の声すらかき消す。風めいて駆け、競り合う馬たち。何の障害もなく、命のやり取りもない、ただのレース。そこには、ニッポンの競馬が忘れ去った何かがあった。そこを走る彼らは、ただ、自由だった。 77
関係者通路からそれを見ていたのは、麟のマネージャーだった。彼は瞬きすらも拒み、網膜に、脳に、レースの光景を焼き付けようとしていた。憧れた者の最期の走り。彼はただ、祈っていた。記録されることなきこのレースに、麟が勝ってほしいと。彼の頬を、一筋の雫が伝った。 78
輝之は膝を折ったまま、スクリーン越しにレースを見ていた。画面に映る優駿の走りは、気高いものであった。それは彼らの、彼女たちの生き様そのものであり、命の全てであった。画面が水を通したように滲んだ。それに透けてさえ、このレースは眩しかった。 79
車裂き探偵社オフィス。於炉血はテレビ越しに見ていた眞澄のNEWO『カロン』の分析を終え、そのデータを収めたUSBメモリをPCより抜いた。そして暫し部屋を漁ると、眞澄に依頼料として払った200万旧円を掴み取った。先のレースの配当と合わせ、彼がここで得たカネは1億にも登る。 80
芝と土を突き破り、明日香が地中より這い上がった。彼女はもはや氷の獣ではなかった。九龍はそれに気付き歩み寄ったが、言葉なく彼女を睨むだけであった。明日香もまた、彼を睨み返した。暫しの睨み合いの後、彼らは背を向け、別々の方向へと歩き出した。 81
…この非公式レースが決着した直後、ブラッドアローとバレットダンスは倒れ込み、事切れた。麟はその時、既に絶命していた。最終的に2134年度AAAカップは、参加したジョッキーと馬の全てが死亡するという、前代未聞の結果に終わった。だがこれを見た者は皆、あのレースこそが競馬の全てだと語る。 82
この僅か1日後、競馬に関する法改正を求める署名活動が始まった。それが提出されても、何が変わることもなかった。どこかで握り潰されたことは疑いようもないが、しかし少なくない人の心の裡に何かが根付いていた。今はまだ芽吹くべきでない何かが。我々にできるのは、その萌芽を待つことだけだ。 83
×鱗 ×風切羽 ×車裂き ×錆 白無垢 ×土蜘蛛 天秤 ×滲み ×包帯 ×水底 ×鑢
×鎖 歯車
残粛清対象:3
ニッポン滅亡決定まで:54時間
ブーツクツクーツツクテンツクツクツクテンブーツクツクテンツクテン!『この一撃に……俺は全てを賭けるッ!』ZAAAAAAAAP!!KRA-TOOOOM!!紫色の極太レーザーが周辺一帯を薙ぎ、あらゆる建造物を爆発四散させる!だが、その猛攻を潜り抜けて漆黒の機体がビームのあるじに接敵した! 84
「アーッ!オアーッ!」叫びながらレバガチャする正雄!しかしその動きに繊細さというものは微塵もなく(それ以前に大技の硬直時間中だ)、成す術もなく漆黒の機体に切り刻まれる!「あッちょ、やめろオマエタンマタンマタンマ!」哀願も虚しく、正雄の機体は爆発四散した!『GAME SET!』 85
「ダァー!」「ウケる」筐体を殴る正雄を、後ろで見ていた加奈が笑った。「何笑ってんだよ…」「えー?」笑い続ける加奈に、正雄は口を閉ざした。そこに店員が近付いてきた。「スミマセン、台パンはご遠慮くださーい」「あ、さーせん」正雄は立ち上がってゲーセンを出ると、携帯端末を取り出した。 86
────────────────
鞄に入れていた携帯端末が鳴り、着信を知らせた。「スミマセン、ちょっと電話いいですか?」輝之は塾講師の許可を取ると廊下に出、応答した。「正雄、どうしたの?いま塾なんだけど…」『テル!たまにはゲーセン来いよ、オマエ』「いや、塾だってば」『だよなあ』電話の向こうで肩を落とす正雄。 87
「そんな露骨にがっかりしないでよ。受験が落ち着いたら遊びに行くからさ」『さっさと終わらせろよ。オマエがいないとあのゲーセンもツマラン』「いや、日程決まってるから」『だな。ま、頑張れよ』通話が切れた。輝之は自分の席に戻った。「携帯端末はマナーモードにしておくよう」「スミマセン」 88
AAAカップの後、輝之はゲームセンター通いをやめた。親への密かな反抗を絶ち、親の望む息子の姿へと戻ったのだ。共通テストでいい点を取っていい大学に入り、いい会社に入る為だけの日々に。灰色の未来待つ灰色の日常の中に、彼は再びいる。だがそれは、彼自身の意志に従って決めたことだ。 89
『世界は競馬だけじゃないんだ!もっと広いんですよ!色んなことがあるんだ!』かつて瞬に言った言葉が、彼の中に反響していた。自分は彼女の本質を知らなかった。自分の見識の狭さを知らなかった。灰色の中に閉じこもり、そこから見えた僅かな色だけで世界を知った気になっていた己を恥じた。 90
なればこそ、自分はそれを証明しなければならない。世界は広いと知らなければならない。輝之はその為に、灰色の中に舞い戻った。共通テストでいい点を取り、いい大学に入り、いい会社に入り、その先にあるものを見る為に。それが、彼の意志であった。 91
彼が最終的に目指す会社は(株)滑川コーポレーション。トモシビグループ頂点10企業『火守』がひとつにして、ニッポン最大の貿易会社だ。その性質上、『海外』への赴任も多い。ここならば、広い世界を十全に見られる筈だ。 92
世界を見、見つけた『色』で灰色に少しずつ着彩する。そうして完成した図画を心に抱き、いつかWi-Fi教会が語る電波の海で瞬と再び出逢えたら、世界の図画を前にして、今度こそ語って聞かせるのだ。『世界はこんなにも広かったのだ』と。 93
共通テストまで、あと72日。 94
探偵粛清アスカ
【ギルティ・ダービー】
おわり
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