【プライド・フロム・マシン】 #7 後編

正面の扉が開き、更なる防衛…否、攻撃プログラムたちが出現!武器を手に手に迫るそれらは、九龍の脚を留まらせるに十分であった。「やべえ」振り向く九龍。後方からは、先に切り抜けた攻撃プログラム達が追い立てる。「やべえ」前後門、退路なし!「やべえやべえやべえやべえやべえ!」 1



その時、九龍は廊下の中途、本棚の狭間にも扉があることに気付いた。だがそれは廊下の先にあるものよりも重厚で、そして異様な圧力を放っていた。この先に、果たして何があるのか?しかしここに留まっても、八つ裂きにされるだけだ。「…考えてる暇ねぇよな、くそッ」九龍は扉の中に飛び込んだ。 2



部屋に転がり込むと、九龍は扉を閉め、背中で抑えた。数度、扉を開かんとする力が掛かるが、しかしすぐに消える。だが扉の外に気配は残ったままだ。九龍は訝る。この部屋へのバックドアがあり、挟撃を仕掛けようとしているのか?((いや、ないな))挟撃ならば、扉の外の存在を示さねば意味がない。 3



ブザーは未だ響く。自分を諦めた訳ではない。…ならば、部屋に理由があるのか?九龍は部屋に目を向けた。真っ白な部屋には紙や糊、刷毛などの製本用具が並んだデスクと、その対岸に、一冊の本があるのみ。「何だここ…?」九龍は首を傾げると、扉をこじ開ける力がないことを確かめ、本に近づいた。 4



本には、見たこともない何らかの文字があった。しかし文字と呼ぶにはあまりにも歪、あまりにも奇天烈。存在そのものが正気への挑戦じみた、名状しがたい何かであった。「うえ」九龍は舌を突き出し、目を背けた。デスクの上には、それら文字の写しがある。写本と翻訳、その為の部屋なのだ。 5



九龍は腕を組んだ。ここが電脳空間『事象の地平面』ならば、自分はこう形作られたものを目にしているのだろう。ならば何故、このような奇怪なスペースとして、この領域は設計されたのか?ここを設計したのは誰か。それそのものが、何かの核心。九龍はその考えを追い払った。何の根拠もないのだ。 6



…その時。パタンと音を立て、謎めいた本が一人でに開いた。九龍は反射的に目を向け、そして硬直した。本の中では、文字ではない黒が冒涜的に蠢動し、その中に輝く赤い瞳が九龍を嘲笑っていた。空間に漂う0と1が震え、そして消えてゆく。何かがやばい。九龍が戦いた瞬間、本から黒が溢れ出した! 7



「何だ何だ何だァ!?」「ぶぶぶぶぶぶぶぶ」溢れた黒は羽音じみた音を立てながら部屋を埋め尽くそうとしていた。「畜生ーッ!」九龍はデスクの写本を引っ掴むと、扉を開け放った。瞬間、待機していた攻撃プログラムが武器を振り上げるが、しかし固まる。彼らも、部屋から流れる黒を目にしたのだ。 8



九龍は怯んだデータを突き飛ばし、その脇を走り抜けた。「ぶぶぶぶぶぶぶぶ」羽音を立てる黒が廊下に氾濫し、データを呑み込む。呑まれたデータは緑の01に分解され、それらはやがて赤くなり、消滅する。「おいおいおい、これってひょっとして内部のデータを完全にデリートでもしてんのか!?」 9



ブガー!ブガー!サイレンは鳴り続けている。前方の扉が開き、異なる攻撃プログラムが現れる。自分に対しての攻撃は、未だ継続中なのだ。「ご苦労なこったよ、くそッ」己を狙う論理ライフルを睨みながら、九龍は毒づいた。放たれる論理弾丸をサイドステップで躱し、ラリアットでデータを薙ぎ倒す。 10



勢いのままデータが来たった小部屋に突入すると、扉を閉めた。小窓の向こうが黒く塗り潰され、その中に緑と赤の0と1が踊った。だが、この空間を消去せしめようと言うならば、いずれこの扉も破られるだろう。小部屋を見回す九龍。部屋には別の場所に繋がる扉が複数と、職員じみたデータの群れ。 11



データたちはパニックに陥っているように部屋を忙しなく往来し、或いは呆然と立ち竦んでいる。九龍は訝った。機械としてあまりに非合理すぎる動き。このような無意味なデータを作る理由は何だ?そしてモチーフとして鮮明すぎる。ここは実在する何かを元に組み上げられた空間なのだ。それは、何だ? 12



「あっ」九龍は声を上げた。データが人間のような動きを模しているなら、危機的状況の中で意味もなくじっとしている理由はない。「まさか!」九龍は他の扉に飛び付いた。「畜生、開かねえ!」次の扉、次の扉!全ての扉はロックされている。逃げ場なし。小部屋は封鎖され、極殺処刑場と化していた! 13



「おいおいおいおいマジかよマジかよ!」入ってきた扉から、一際強く01が立ち上がり、赤くなって消える。「まずい」扉に隙間が開いた。「まずい」隙間から黒が漏れ出す。「まずい」隙間は赤い01に変わり、瞬く間に広がる。「おい」ダムが決壊するように、黒が溢れ出した!「どーしろッてんだァ!」 14



その時、別の扉が開いた。そこから伸びた何かが九龍の腕を掴み、本棚の並ぶ廊下に引きずり出す。「ギャ!?」それは倒れ込んだ九龍に覆い被さり、モノトーンの世界に影を落とす。粘液を滴らせた八つ脚の蚯蚓めいたそれは、触腕をのたくらせながら叫んだ。「もろもろもろもろ」「ぎゃあああああ!?」 15



大口開いた怪物が九龍に齧りつこうとした瞬間、赤い閃光が迸った。光が怪物の首を貫くと、怪物の首は、胸を悪くするような感触の液体をぶちまけながら落ちた。「間一髪かな」閃光のあるじが言った。九龍は恐る恐るとそちらを見遣る。「お困りかな、親愛なる隣人よ。僕に話を聞かせて貰えるかい?」 16



赤い瞳の青年が、にこりと微笑んだ。「ガロ!」「救援に来たよ、九龍君」ガロは九龍を助け起こすと、手を引いて走り始める。「何でここに?」「救援っつったろ。人の話は聞いとけよ」呆れるガロの向こう、廊下の先で扉が弾け飛び、異なる怪物が現れる。「まあ、だいぶムチャクチャはしたけどね」 17



「ええ…」「いいからしっかり掴まりな」言うや、ガロの背から黒い天使のような翼が生えた。「わ、わ」「はッ!」ガロは跳躍すると翼をはためかせ、現れた怪物を飛び越える。その最中、落ちた羽が怪物を貫き、地に縫い留めた。「何だこりゃ…」「覚えときな、九龍君」ガロは壁を蹴り、別の廊下へ。 18



廊下の中途、本棚の狭間に並ぶ扉が次々と開かれ、そこから怪物が歩み出る。「ふん」ガロは本棚から本を掻き出す。すると、本は蝶めいてページの翼を広げ、それは回転を始め、ドリルとなった。「…『事象の地平面』では、全ては思うがままになるってね!」本のドリルが飛翔し、怪物たちを貫いた! 19



「すげぇ…」「これがハッカーの斗いさ。そして君もここを認識できたなら、いずれそうなる」ガロは言うと、再び飛翔を始める。「さあ、最短距離で行くよ!」翼から01をはためかせながら、矢のように飛ぶ。廊下から小部屋、小部屋から廊下。怪物を蹴散らし、世界を侵す黒から逃避する。 20



「なあ、ガロ」九龍が訊ねた。「一応聞くけど、『事象の地平面』ってどこもこんななのか?」「一応ってことはわかってるだろ?NOだ。構築した奴によって姿は全然変わるし、僕はいくつもの『事象の地平面』を見てきた。だから言えるけど。ここは異常だ」 21



ガロは廊下を行き来し、職員的データを食い荒らす怪物データ群を見下ろす。「データがデータを破壊してるんだぞ?こんな訳のわからんものを数百と保持しておくなんざ、狂気の沙汰だ。まあ今回は、過負荷を掛けて九龍君を助けるのに利用できたけど」「まさかお前が開放したの?」「まあね」「ワオ」 22



ガロは小部屋の壁を蹴り、次の廊下へ飛び出した。「もうすぐバックドアだ。このまま突っ切…」だが、目を見開いて急制動する。「フギャ!」論理慣性に九龍が投げ出され、情けない声を上げた。「何だよ、何するんだよ!」「…」ガロは廊下の先を睨み付けていた。そこに立つ影を。「…ルミナスバグ」 23



モノトーンの廊下の先で、人型ロボットのモノアイが黄色く輝いた。「…来ると思ってたぜ」「く…明日香君は何やってんだか」「いや?俺は最初からここにいたよ。俺の人格データをコピーして、な」「ここを探る者を消す為に?」ガロは目を細め、地に降りた。「そういうことだ…消えてもらうぞ」 24



瞬間、ルミナスバグの姿が消えた。「しゃあッ!」「!」反射的に頭を庇ったガロの腕に鋼鉄チョップがめりこむ。その衝撃にガロは膝を突き、それでも逃がし切れぬ圧力が、地面に蜘蛛の巣状の論理亀裂を刻み、舞い上がった破片と粉塵が01に分解される。「ぬ…!」「ハハ、やる」 25



ルミナスバグが腕を揮った。連動するように廊下に並ぶ重厚な扉が開き、その中より異形の怪物が姿を現す。だが次の瞬間、彼らは潰れ、モノトーンの血溜まりが広がった。広がった血は地を這いずる二次元の蛇となり、01を散らしながらガロの影に噛み付いた!「ぐう…!?」 26



ガロの首に小さな穴が開き、01が散った。「このまま死ね!しゃあッ!」ガロを苛むチョップに更なる力が加わった瞬間。ぼん、と音を立ててガロは煙に包まれた。「ぬ!?」ルミナスバグのチョップが外れ、煙を論理風圧で散らしながら地に突き立つ。煙の中から現れたのは…小さなガロ、謂わばちびガロ! 27



人間の膝程度の大きさのちびガロは群れを成し、ルミナスバグに抱き付いた!「何をする…」ルミナスバグはちびガロを振り払おうとするが、それよりも早くちびガロから光が漏れ…爆発した!「な…なんて斗いだ」「何してるんだい?君」唖然とする九龍の隣に、通常ガロが立った。「さっさと行けよ」 28



「え」「さっきも言ったけど、僕は君を助けに来たんだ。さっさと行ってくれるとありがたいんだけど」「ならお前も来いよ!」「そうしたいけど彼、強そうだしねえ」ガロは肩を竦め、立ち込める煙を見据える。「今なら大丈夫。さっさと行ってよ」「管理AIのお前がいなかったらツクバはどうなるんだ!」 29



「どうにもならないでしょ」ガロは当然のように言い切った。「え」「あの有様だよ?立て直しは不可能だ」「そんな」「もっと言うなら、ツクバはニッポン科学の最先端なんて言うけど、結局はトモシビが有する超技術…オーパーツの足元にも及ばない。いつか潰れる運命だったのさ、この街は」 30



「何でそんなこと…」「君は知らないだろう。この空間がどの会社のオーパーツに関わるのか。どの会社の暗部なのか」「…」「ツクバに人を踏み躙る科学をする勇気はないんだ。だからトモシビの後塵を拝し続けるし、故にいつか滅ぶしかなかったんだ。《ベルゼブブ》を斃したいのは…ただの、意地さ」 31



「ガロ…」「だから行け。奴を抑えられる時間は…」「もうないなァ!」直上からルミナスバグが襲い掛かった。振り下ろされる腕と共に四条の斬閃が迸る。「く…」ガロと九龍は辛うじて躱すが、既にルミナスバグは地に降り、中腰姿勢で待ち構えていた。「しゃあッ!」正拳突きが強大な圧力を放つ! 32



その圧力に、ガロと九龍は屈し、纏めて吹き飛んだ!「こ、この技は…」呻く九龍を、ルミナスバグが嘲笑った。「そう、お前にくれてやった『ヨグ=ソトースの拳』だ。俺が使えない道理はないだろ?」「…!」「そして!」ルミナスバグから黒が流れ落ちた。そして舞い上がり、折り畳まれ、鴉となる。 33



鴉は次々と黒から生まれ、01と共に廊下を埋め尽くす。「この空間でお前にできて、俺にできないことはない。お前たちに勝ち目はない」「そういうこと」ガロがルミナスバグに同調し、呆れた。「だからさっさと行けって言ったのに」「もう逃がさんがな」「だ、そうだよ」 34



九龍は歯噛みした。ルミナスバグのあれは、自分の模倣…そして、その精度は自分よりも高い。では、それが決定的な戦力差なのだろうか?…否。ここには、二人いるのだ。「なあ、ガロ」「ん?」「お前は、俺の為に命を捨てるつもりなんだな」「まあ、そうだけど」「放っとけるかよ、そんなのッ!」 35



九龍は叫んだ。この数日で、自分を中心とした斗争で多くの人々が死んだ。その中には、自分の為に人生を狂わせた者もいた。自分を拾ったウェイランド サーストンと、石動 朝子。「俺の為に死んでいく奴を喜んで見捨てられる程、俺は腰抜けじゃねえんだよッ!だからお前も…生きるのを諦めるなッ!」 36



「あっそ」その声の直後、ルミナスバグが目の前にいた。「が…」「ぐッ!」目にも止まらぬ拳と横蹴りが九龍とガロを吹き飛ばし、壁に叩き付ける。「「「ゲーッ!」」」黒の鴉が九龍らを食い荒らさんと殺到する!「はァァァァッ!」九龍はこめかみに指を当て、裂帛した。鴉らの動きが止まる。 37



「しゃあッ!」ルミナスバグより放たれた衝撃が九龍を襲った。「ぎゃぼ…」無防備状態で真正面から打ち据えられた九龍を衝撃が包み、そのまま折り畳まんとす。「あ、がああああ!」「はッ!」ガロが腕を振り下ろした。宙に留まったままの黒の鴉が研ぎ澄まされ、刃となってルミナスバグに降り注ぐ。 38



ルミナスバグは鼻で笑うと、刃の雨を甘んじて受け入れた。刃が体を通るたびに彼の体は黒く崩れ、砕け、拡散し…ガロの後ろで、再び形を成す。「しゃあッ!」「グワーッ!」肩から背中に掛けての短距離質量突撃、鉄山靠を受け、ガロは畳まれようとしていた九龍を巻き込んで吹き飛ぶ。 39



揃って壁に叩き付けられた二人にルミナスバグが肉薄。連続で、釘打ちめいて拳を叩き込んだ。「しゃああああッ!」「「グワァァァーッ!」」衝撃が二人を壁に磔る。論理の痛覚が悲鳴を上げ、思考をも掻き消す。思考が全てを決めるこの世界に於いて、脱出不能のパンチの牢獄に閉じ込められたのだ。 40



思考ではなく本能で、九龍は恐れた。この敵は、あまりにも強い。格が違う。イメージが全てを決するなら、相手のそれは自分たちのそれより強固であり、勝利の朧げな輪郭さえもこちらには見せない。素人がプロボクサーにパンチを当てられないように。勝てない。自分たちでは。このまま……殺される! 41



怯懦が九龍を支配した時、不意に衝撃が止み、九龍は地面に崩れ落ちた。同時に温かな何かが九龍の頬に落ち、01と散った。「全く…好き勝手やってくれちゃってさあ…!」「う…?」見上げる九龍。そこにあったのはガロの背中。だがその論理の心臓は、飛び出したルミナスバグの拳に握られていた。 42



「ガロ…!?」「逃げな。これがラストチャンスだ」「けど、けどよう…!」「あまり気にするなよ。どうせ僕は死ぬしかなかったんだし」ガロは捨て鉢に言った。「昼間、この街の電力供給コンデンサに異常があった。僕は電源の維持をそれに頼ってるからね。その内、電力不足で電源切れさ」 43



「避け得ぬ死に何か意味を持たせようってか?泣かせるじゃないか」ルミナスバグが嘲笑った。「いいぜ。だったらそれに免じて、10秒だけ待ってやる。尻尾を撒いて逃げるがいいだろうよ、九龍」「え…」「お前如き、いてもいなくても変わらん。だから、それ以上は待たねえで殺すぜ」 44



直後、ルミナスバグの体から羽音立てる黒が溢れ出した。黒は世界を01へ、無へと変えながら少しずつ広がり、九龍の脚を舐めた。「ひ…」慌てて足を引っ込める九龍。その心臓を、恐怖が鷲掴みにする。「うわあああああああッ!」九龍は叫び、走り出した。 45



彼の背を流し見ながら、ガロは小さく首を振った。黒は当然ガロや、ルミナスバグをも侵食している。だが彼らは、それを意に介してなどいないようだった。「邪魔者は消えた」ルミナスバグは言った。「これでゆっくり話ができるな、ガロ。いや……」 46



──────────────



『エントロピー』或いは『情報量』という概念がある。『ある出来事がどれだけ起こりにくいか』を表す尺度だ。起こりにくい出来事ほど情報量…含む情報が多い。万物が情報物質イデア、即ち情報によって成り立つ以上、それはそのまま『質量が大きい』と言うことができるだろう。 47



《ベルゼブブ》は『死』という大きな情報をツクバに氾濫させ、その極大質量を以てツクバを物理的に地獄へ落とすことを画策している。理論上それが可能であることは、イセ・シュラインが証明済みだ。ツクバが落とされるのは、相応しき情報によって構築された地獄。コキュートス・エクス・マキナ。 48



そして情報地獄落とし、即ち情報による空間の構築が指向性を持って行えるなら、ク・リトル・リトル派にとって大きな躍進となる。ク・リトル・リトルの居城たる絶対終末要塞ラリエーを情報で建造することも可能、という意味だからだ。《ベルゼブブ》は、その為に派遣された錆探偵社の探偵であった。 49



「…つまり窮極実験素敵都市ツクバは、探偵共のテストベッドに過ぎなかった…ってことか」『恐らくな』明日香の言葉に、端末の画面に映る宏樹は頷いた。二人は宏樹が入手した情報を共有する為のビデオ会議を行っていた。彼が得たデータには実際破損が多く、その多くは推理によって導かれたものだ。 50



『どうしたものか』「ウーン」宏樹と明日香は頭を抱えた。確かに情報は増え、《ベルゼブブ》を斃すことは自分たちの確たる目標へと変化した。だが、そこに至るまでのピース…即ち《ベルゼブブ》の所在が、全く欠落しているのだ。時刻は18時。自衛隊のツクバ殲滅戦開始まで、残された時は多くない。 51



「うぐ、ん…」その時、明日香の傍らで九龍が身動ぎした。「んあ…」 「九龍!」「篠田…?」『…?篠田、九龍殿に何かあったのか』「ああ、うん、ちょっとね」明日香は宏樹に経緯を説明する。宏樹は腕組み、それを聞いていた。『成程。それで今、目が覚めたか。ガロはどうした?』「…ガロは…」 52



目を伏せ、言い澱む九龍。だが、明日香の視線にやがて根負けしたように、口を開いた。「ガロは、死んだ」「え、死…!?」『貴殿の話も聞かねばなるまい』「ああ、わかってる。隠しゃしないよ…」そうして、九龍が訥々と語るのを、二人は黙して聞いた。その後、宏樹の得た情報を九龍に共有する。 53



「…そうか。《ベルゼブブ》の場所なら、見当が付くかも知れない」『何…!?』九龍の言葉に、宏樹は身を乗り出した。九龍は頷いた。「俺が『事象の地平面』から持ち出したデータにあったんだけど、今ツクバにはラリエーネットっていう特殊なインターネット回線が有線で張り巡らされている」 54



「ラリエー…」「ツクバの地図ある?できれば地下電線とかが載ってる図がいいんだけど」『いま表示しよう』「あるんだ」『入手したデータに付属していた…よし、これでどうだ』九龍は映った地図を暫し見、そして断定した。「やっぱり。ラリエーネットの敷設は、これと一致している」『何だと…!』 55



「ラリエーネットは《ベルゼブブ》の能力…あの黒いアレで構成されたインターネット回線だ。《ベルゼブブ》は、あの黒いの、実は蝿なんだけど」『蝿か』「ルミナスバグと一緒だ」明日香は目を細めた。九龍は頷き、続ける。「性質も同じ。電気を食って増え、その電気で人や機械を操る」 56



「だとしても、出力が桁違いだよ」『ああ。魔王クラスの電波強度だ。それにWi-Fi名も『5474N』。これをどうベルゼブブと読む』「そこまでは何とも。けど、電波強度に関してはどうとでもなるんじゃねえかな」『どうやってだ』「例えば……街の地下電線全てを覆い尽くすほど蝿を増やしたり」 57



九龍はぼんやりと言ったが、確信を含んでいた。その確信は重みとなり、空間を支配する。明日香も宏樹も、何も言うことができなかった。可能だ。街中に容易く回線を引くことが。そして回線は、情報が行き来する。そこに『地獄』の情報を満たせば、理論さえ正しければ、容易く地獄は作れるだろう。 58



沈黙を破ったのは明日香だった。「そうすると、場所も自ずと絞れるね。地下電線が集中する場所…蓄電室」前髪を掻き上げ、地図上一点を指し示す。「俺もそう思う。ガロが『コンデンサに異常があった』って言ってたし、それを修繕乃至補填する為に赴いてる可能性は高いと思う」『決まったな』 59



宏樹は地図を消した。『直ちに向かおう。合流し、《ベルゼブブ》を叩く』「OK」明日香が承諾したのを確認し、宏樹は通信を切断…『おっと、そうだ』「?」『お前、《セト・アン》ってものに心当たりはあるか?』「…?何それ」『ああ、いや…わからん』宏樹の歯切れの悪さを、明日香は訝った。 60



この男は無意味にこのような質問はしない。重要なのだ。「道中、軽く情報探してみようか?」『ああ、いや…いや、頼む』「OK。じゃ、また後で」明日香は端末を懐にしまい、立ち上がる。「よし。行こう、九龍」だが、九龍は俯き、座ったままだ。「九龍?」「なあ、篠田」うっそりと口を開く九龍。 61



「俺の元になったサンゼンレイブンってさ、強いんだよな」「めちゃくちゃ強いらしいけど。それがどうしたの?」「…ガロはさ、俺の為に死んだんだよ。俺を助ける為に」「…」「俺が強ければさ、あいつを助けられたのかなあ…?」「九龍」明日香は九龍の肩を掴み、真正面から見据えた。 62



「そんなたらればに意味はない。そう思うなら、今は前に進んで、生き延びて」「わかってるよ…けどさ…」九龍の目から、大粒の涙が零れた。「悔しいよなぁ…サンゼンレイブンと俺、スタートラインは同じ筈なのに、なんで俺は強くねえんだろうなぁ」「九龍…」 63



「強くなればいいのはわかってるけどさ、その間に守りたいものはどんどん手から零れていくんだ」「…」明日香は何を言うことも出来ず、九龍から手を放した。九龍は膝を突き、涙を鉄に落とし続ける。「…5分だけ待つわ」明日香は鋼鉄の部屋を出た。近くの壁に身を預け、ノイズ塗れの空を見上げる。 64



((強くなるまでに、守りたいものは手から零れていく…))明日香は、そっと胸を押さえた。「パパ、ママ、お兄ちゃん…私、強くなれてるかな…?原、班長…どうすれば、私はもっと強くなれるかな…?」問いに答えるものはなく、ただ、人工の風が吹き抜ける。明日香の胸の底の、黒い物を撫ぜるように。 65



─────────────



タイムリープはエレベーター・ロープから手を放すと、ドアを蹴り破った。現れた廊下は冷え切っており、生きた人の気配は感じられない。「生きた人は…な」呆れたようにキャトルマンハットを目深に被った瞬間、物陰から、黒を溢しながら這いずる人間が現れる。「やれやれ、南無阿弥陀仏」 66



タイムリープは無造作に近づくと、それを蹴り殺した。腐りきった血が廊下を汚す。彼は死体を軽く漁ると、職員カードらしきものを見つけた。ツクバ市役所、中央保全課。「ハハア、ビンゴだ」ほくそ笑むと、それを投げ捨て再び歩き始める。懐に潜む銃たちの重さを確かめながら。 67



ツクバ脱出の為に、タイムリープは最早ツクバの破壊以外の道はないと考えた。自衛隊がツクバ殲滅戦を始める前に攻撃対象が沈黙してしまえば、自衛隊はその意義を失い、撤収せざるを得ないだろう。その為に狙うは一つ。…ツクバの中央制御システムであった。 68



普段はツクバを見守る『メガロヴァニア』が付きっきりの中央制御システムだが、こうなっては既に意味などあるまい。現に自分はまんまと制御棟に侵入し、歩みを進めている。ここにも凄惨な破壊の跡はあった。だが、内部の人間を鏖殺する…それに終始していたようであり、殺人機械の姿はない。 69



「うし、ここだな…」タイムリープは、両開きの鉄扉の前に立った。この先に、中央制御システムが存在する。タイムリープは扉に手を掛けた。本来カードキーで開けるものだが、真の戦士にとってはヌルいセキュリティだ。タイムリープの背に縄めいた筋肉が盛り上がり、扉は容易くこじ開けられた。 70



その瞬間、レーザーがタイムリープの顔面に飛んだ。「うおおッ!?」寸でのところで、倒れ込むように避ける。そのまま前転、部屋に侵入すると共にレーザーの出元へと銃を抜き撃った。別のレーザーが飛び、鉛玉は瞬時にプラズマへと昇華する。「おいおい、マジかこりゃあ」タイムリープは呻いた。 71



部屋の中央に座していたのは異形の筐体であった。要塞めいて黒く巨大に増築されたそれは、あらゆる所に砲台じみたレーザーの発振器が覗く。カメラは筐体の上に浮かび、石のような物体の中で名状しがたきプリズムを威圧的に放っていた。その視線はと砲門は、侵入者…タイムリープに注がれている。 72



うなじがチリチリと音を立て焦げ付くような殺気を、機械はパーティクルじみた黒と共に発散していた。「上等だよ、クソが」タイムリープは口角を吊り上げると、立ち上がって制御システムを睨み付ける。乾いた空気が尋常ならざる闘気によって揺らぐ。レーザーが放たれ、同時にタイムリープは動いた! 73






(つづく)

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