【アット・ザ・プレイス・ウェア・ゴッド・ワズ・ボーン】 #5

…「邪魔しよう」水琴を介抱する康生の隣に、聡が座り込んだ。「邪魔するなら死んでください」「では、邪魔はしないでおこう」「と言うか、死んでなかったんですね」「隠れるのは得意でね」笑う聡には一欠片も油断はなく、明日香と文宏を値踏みしていた。「どう見る」「馴れ合うつもりですか?」 1



「そうかも知れんな」康生は、聡の笑顔が仮面であることを見て取った。だが、その下に何があるかはわからない。そして、それを懸案する体力も、もはや残ってはいなかった。「スペック比較で言えば、社長に利があります。しかし監査官代理には鬼が見える。そういう手合は、必ず何かをやらかす」 2



「そうではない。これよ」聡は、空間を走るヒビを示した。「MoISそのものが不安定になっておる。情報量に耐えきれなくなったか」「情報量?」「万物は素粒子で構成される。その材料は、情報物質イデアだ。イデアは情報そのものであり、つまり情報には質量がある。そう言っても過言ではない」 3



「エントロピー、ですか」「その通り」聡は満足げに頷いた。康生は顎を擦り、思い起こす。エントロピー…情報量とは『ある出来事がどれだけ起こりにくいか』を表す尺度だ。起こりにくい出来事ほど情報量…含む情報が多い。今回の場合、それはそのまま『質量が大きい』と言うことができるだろう。 4



「生物は、根本的に生への渇望を持つ。それが自然だ。故に生より死の方が情報量は大きい」「それがこのMoISで『起きすぎた』。それも不自然で、情報量が大きい…ですか」「加え、この光の蝿はNEWO ≪ネオ≫。それもまた、情報量が大きい」「極大情報にMoISが耐えられなかった…ね」 5



「で、あろうな」聡は笑い、ヒビを覗き込んだ。「恐らく、あと一人二人も死ねば臨界点を超えるだろう。世界は割れ、我々は呑み込まれる。その先どこに繋がるかはわからぬが」ヒビから顔を上げ、蝿の壁を見回す。それは徐々に包囲を縮めていた。「座して死を待つ理由もなし」「仰る通りだ」BLAM! 6



「ン」聡は目を瞬かせた。康生の腰元で、拳銃が硝煙を吐いている。その口は、聡に向けられていた。聡の胸で、真紅の花が静かに花弁を広げた。「貴…様…」「情報提供、感謝いたします」康生は、よろめく聡を思い切り蹴り飛ばした。蝿の壁に叩き込まれ、分解されてゆく聡。「あがぎゃああああッ!?」 7



「うちの社員を無駄に苦しませてくれたことは、これで水に流しましょう」拳銃をしまうと、空間を走るヒビを見た。音を立てながら広がるヒビは、その向こうに名状しがたき闇と、木の葉のざわめきを隠している。こちら側では、稲妻と氷が乱舞していた。「文宏…」康生は、呟くことしかできなかった。 8



文宏は挟み込むような氷刃を止めた。緋電が氷を奔り、持ち主を襲う。しかし明日香は凄絶に抗った。「ふッ!」「ぎッ…」ねじ込まれた上蹴りが文宏の顎を砕く。よろめきから即座にバク転を打つも、氷刃が飛来。稲妻が氷を焼き払い、同時、一瞬の静寂が訪れた。『死神が通る』と形容する瞬間である。 9



文宏は己の未熟を恥じた。格闘ではなく、精神だ。一時の感情に身を任せ、ポイントオブノーリターンを踏み越えてしまった。自分よりも遥かに年若い少女が、前向きに現状を打破しようとしていたにも関わらず、だ。空間のヒビが広がる。状況は、より致命的な方向に転がろうとしているのだろうか。 10



だが、おお、だが。愛する妻や親友と共に、誰もが理不尽に踏み躙られることなき世を作ると誓ったのだ。命を寄越せと言うならくれてやる。地獄に落ちろと言うならそうしよう。だが、理不尽にだけは決して屈さない。その為に、同じ場所を見る土蜘蛛にすら牙を剥いたのだ。道は…違えられない! 11



「せいッ!」文宏は稲妻めいて接近した!勢いのままに乱打を放ち、明日香に対応を迫る。払い、突き、払い、突く。木人拳めいたミニマルな拳撃の応酬は、さながら必然的な予定調和に基づいた運命歯車の如く噛み合い、秩序立って整然と並ぶ。 12



拳が閃く度に血が飛沫き、凍っては電熱に分解される。自然の循環めいて展開する格闘は、ゼロサムゲームじみた均衡を保つように見えるだろう。しかしイニシアチブは文宏に存在することに、明日香は気付いていた。必然的な対応は必然的な筋道を描き、必然的な終局を迎える。即ち、致命の一撃である! 13



文宏は明日香の裏拳を叩き落とした。落ちた腕の下から、ガードの内を通すような掌底が跳ね上がる。「せいッ!」文宏はわずかに身を反らして躱すと同時に、明日香の顔面を打つ!「うッ…」怯む明日香。文宏は、交差する形になっていた明日香の腕を払い除けた。ガードが開く。道が、開く! 14



「せいッ!」文宏の拳が再度、顔面を打った。否…三度…四度、五六七!「せいせいせいせいせいッ!」「あ、う、うあ…!」稲妻纏いしラッシュが明日香を打ち据える!雷は神経系に強制介入し、強引な離脱をも許さない。これでは人間木人…いや、人間サンドバッグだ!文宏の目が光った!「必殺!」 15



真紅が爆発する。迸り、溢れ出し、空間を蹂躙する。真紅はボディブローの形を取り、明日香を襲う…!「…レッド・スプライト!」SMAAAASH!体を両断するが如き衝撃に、明日香は呻くことすらできずに吹き飛んだ!蝿の壁にぶつかり、落ちる。冷気を纏っていなくば、ここで彼女は死んでいただろう。 16



文宏は、緋電が恐れるように諂う拳を強く握り込んだ。明日香は面の下から多量の血を吐きながら、立ち上がろうとしていた。「もうやめろ」文宏は言った。「勝負はついた」だが、傷つきながらも、明日香の目は、紅蓮の地獄に流れた血を燃料と燃やす、焦熱のそれであった。「…そうか」電撃が迸った。 17



気温はいまだマイナス数百℃を下回る。究極の低温となった空気は、もはや超伝導状態にあった。「この空気は、俺の稲妻をよく通すぞッ!」「ああああああッ!」放たれた緋電が明日香を打ち、焼き焦がした。皮膚の殆どを炭化させ、力なく倒れ込んだ。「とどめだッ!」文宏が回転跳躍した。 18



…アドレナリンの過剰分泌により、明日香の時間は泥めいて鈍化していた。文宏は強く、既に自分は致命的な手を誤った。だがそれでも、足掻かねばならない。死ぬ為に斗っているのではないのだ。顔を上げた明日香の目に、赤が飛び込んで来た。訝るように目を細める。血が山となり、わだかまっている。 19



ただの血ではない。布のように広がり、そして打ち捨てられていた。それは、血で編まれたハンカチであった。明日香を手伝わんとする意志が残したものか、或いは単なる偶然か。九龍の血が、残されていた。((九龍…!))重い空気を掻き分け手を伸ばす。その最中も、文宏は迫っている……! 20



ハンカチを掴んだ瞬間、時間が押し寄せた!「せええええいッ!」回転跳躍から繰り出された緋電纏いし断頭踵落としが明日香へのトドメを狙う!「う、ああああッ!」明日香は死力を振り絞って横に転がり回避する。床板粉砕爆裂!「無駄な足搔き…!」文宏は、跳ね起きた明日香に即時追撃を仕掛ける! 21



床を蹴る文宏は電磁力で加速する。一歩目で推進力を得、二歩目で音を、三歩目で光を超える。極大速度を備えた雷は、穿てぬものなき無双の槍となる!これぞ香田 文宏の最終奥義、ガングニール!狙う明日香は、態勢が整いきっていない。「終わりだ!」文宏は叫び、最後の一歩を踏んだ! 22



ズルッ。最後の一歩は、虚しく滑った。「何!?」驚愕に目を見開く文宏。戦場で足を滑らせるなぞ、三流そのものである。有り得ないことであった。文宏の足元で、光を散らす氷の粒の間から、赤い布が舞っていた。「バカな、こんなもの…」…見つけられなかった自分の落ち度である。どうしようもなく! 23



故に、これ以上構う暇はなし。文宏は改めて最後の一歩を踏み、明日香に飛び掛かった。一瞬。生まれた隙は、スーパーコンピューターでさえ知覚できないほどの、ほんの一瞬だけであった。しかしニッポンの戦士にとっては、あまりに十分すぎた!「せええええいッ!」緋電が明日香を、貫いた! 24



…否。それは錯覚ですらなかった。インパクトの瞬間、大渦に腕を絡められ、捻じられ、引き千切られた。それこそ、文宏が感じた錯覚であった。実際のところ、彼の腕は、ただ軽く横に逸らされただけであった。全ての速度と衝撃を殺された上で。眼前の明日香は、逆の拳に決断的殺意を満たしていた。 25



魔法使いが体を資本とする以上、魔法には必ず格闘体系が含まれる。エボル陰陽道奥義、廻天。ディーサイドクロウより伝授されたこれは、ひねりと螺旋によって全エネルギーを奪い取る究極の防御技。奪ったエネルギーは逆の腕に流れ、発散の時を待ち侘びる。…絶対処刑の瞬間を!「ふぅアァァァッ!」 26



明日香に叩き込まれる筈だった超光速運動エネルギーと雷撃は、全て文宏の心臓に叩き込まれた。どん、と鈍い音が響き渡り、文宏は数歩よろめいた。がくがくと震える彼の瞳は焦点定かならない。「あばッ」文宏の体中の穴から、血液が噴き出した。文宏は倒れ込み、痙攣した。 27



明日香は態勢を立て直すと、トドメを刺さんと歩み寄った。「ぐ、う、ウゥ…!」それを見ながら、康生は嗚咽していた。『恐らく、あと一人二人も死ねば臨界点を超えるだろう』聡の言葉がリフレインする。臨界点までの最後の一歩は、親友の命によって埋められようとしている。 28



だが、この斗いに正義はないと…畢竟、手を出すなと文宏は言った。ならば自分たちは、生きることを優先しなければならない…。「う…」水琴が瞼を動かした。「水琴…」「状況は!?」意識を取り戻すと同時に跳ね起きた幼馴染を、康生は押さえた。「康生、状況は…」水琴は続きを言えなかった。 29



彼女は滂沱しながら自分を押さえる康生と、最愛の夫の命を正に奪わんとする鬼を見た。「康生!?何をしている。何故加勢しない!」「やめろ水琴…」「放してくれ!文宏が、文宏が死んでしまう!」「水琴…!」「放せよ臆病者!放せッ!」水琴は康生を殴打した。だが彼は、決して抑制を緩めなかった。 30



明日香は文宏に向け、足を高く振り上げた。その様は、剣を掲げる処刑人めいていた。「やめろ!やめてくれぇッ!」水琴はただ、叫んだ。その叫びに反応するように、文宏の左手が動いた。「ふぅアァァァッ!」断罪の足刀が振り下ろされた。びくんと一際強く文宏の体が痙攣し……絶命した。 31



震えた文宏の左手から、指輪が抜けた。指輪は転がり、水琴の足元で回りながら止まった。その軌跡には、真っ赤な命の残滓が、線を刻んでいた。「あ、あぁ…」文宏のものだった指輪を見、水琴は涙を流した。「うあああああああああッ!」康生に押さえられたまま、刀を掴む。 32



「殺してやる!あの女、殺してやる!」「水琴…やめてくれ…!」康生は、涙と共に水琴を押さえ続けた。明日香は、ただ眺めていた。その目を歪めながら。「笑うな!文宏の命を笑うなァッ!」「水琴…頼む…!」「放せ!私が殺すんだッ!」「…」明日香は何も語らず、静かに目を伏せた。 33



ZGOOOOM。空間が揺れ、ヒビがMoISを侵してゆく。ヒビは決定的な断絶となり、互いの姿を隠していった。「逃げるな!逃げるなぁぁッ!」水琴は消えゆく明日香に叫び続けた。「うあああああッ!」闇の向こうに、叫び声は消えた。明日香は揺らぎ、傾ぎ、闇に落ちてゆく世界に佇み続けた。 34



闇の底には、紐状のものがわだかまっていた。それは関節のない腕であり、幾多の命を分解した奈落の腕であった。明日香には一切の反応を見せず、何かを掻き抱いている。隙間からは赤い光と声が漏れていた。魂すら犯すような、おぞましき声が。「ア…ラ……………オ、ロ、チ……」 35



────────────────



風が髪をくすぐる感覚で、明日香は目を覚ました。柔らかな土の上に彼女は横たわっており、頭上には闇に向かって腕を伸ばす木々の枝が、屋根めいて広がり、連なっていた。木々の向こうには、MoISの本殿が見える。イセ・シュライン境内の森であった。 36



空気には、赤土と廃液と吐瀉物を混ぜたような臭いが混じる。が、幸運にも雨はまだ降っていない。明日香は身を起こすと、懐から個人用緊急医療キットを取り出した。止血し、緊急増血剤を打ち、低用量覚醒剤を飲んだ。帰還次第休息は必要だが、ひとまずは行動できるだろう。 37



面を外すと、膝を抱え込んだ。頭の中で、白無垢の探偵が叫ぶ憎悪が繰り返される。「…大切な人だったのかな」明日香は呟き、膝に顔を埋めた。やがてあの探偵は憎悪を鍛え上げ、研ぎ澄まし、かつてない強敵として立ちはだかるだろう。自分と同じように。 38



強くなれば何かが変わると思っていた。世界の理不尽を打ち砕けると思っていた。だが、高く飛ぶ程、目の前に現れるのは新たなる理不尽。世界は、入れ子構造の地獄であった。「班長、教えてください」明日香は抱えた膝を濡らしていた。「どこまで飛べば、班長みたいに笑えるようになるんでしょうか」 39



明日香の問に答えるものはなかった。いま、彼女は世界にひとりぼっちだった。((…ひとりぼっち、か…))明日香は目元を拭うと、携帯端末を取り出した。もう一人、いる。孤立無援な者が。携帯端末には、マップ上を高速で動く光点が表示されていた。九龍に取り付けておいた発信装置だ。 40



光点はハイウェイを移動している。ハイウェイの伸びる先は…イバラキ・ディストリクト。明日香は顎に手を当て思案する。((まさか、ツクバ?))ここ数日、ツクバ・シティで起きていた異変。それと何か関係があるのだろうか?わからない。だが、無視もできない。明日香の勘が、そう告げていた。 41



明日香は境内を歩き出した。タイムリープから鹵獲したバイク。あの性能ならば、今からでも追い付ける。ツクバに到着する前に、叩く。彼女の歩みは力強かった。迷いを振り捨てるかのような、鬼神めいて強い歩みだった。彼女の背を送り出しながら、雨の臭いを孕む風が、静かに泣いていた。 42



ゴオオオオン……ゴオオオオン…… 43



鐘が鳴った。何かの訪れを告げ知らせるような、有無を言わさぬ圧力を伴っていた。それに反応するように…否、無理矢理に押さえつけられるように、明日香の足は止まった。汗が吹き出し、心臓が早鐘を打つ。絶対捕食者の殺意を浴びたように、怖気が脳髄を掴んだ。明日香は、静かに面を付け直した。 44



目の前に、見上げるほどに巨大な何かがいた。酷く膨らんだ手足と目玉は、遮光器土偶を想起させる。その外殻は固くヒビ割れ、ヒビからは血のように赤い光が漏れ出していた。ヒビは広がり、外殻が卵の殻めいて剥がれ落ちる。光が暴力的に溢れ出す。やがて何かが突き破り、明日香の前に降り立った。 45



それは、光を血色に照り返す奇妙な黒髪を持つ青年だった。羊水じみてぬらぬらとした液体に覆われた彼は、鬱陶しげに顔を拭うと、金色の瞳で明日香を見据えた。毛穴から血が滲み出、血がうねくって布となり、服となった。クローンレイブンは、にこりと笑った。 46



瞬間、明日香の全身の毛が逆立った。それは恐怖であり、畏怖であった。本能的に悟る。これは…危険すぎる!「どーも」クローンレイブンはお辞儀した。「今、名刺が無くてさ。口頭挨拶で失礼するよ」「…」明日香は懐から手を降ろした。先に名刺を構えイニシアチブを握る算段は、脆くも崩れ去った。 47



「配慮に感謝するよ」クローンレイブンは、再び笑った。「改めて、僕は於炉血。ニッポンを終わらせに生まれました」明日香は震えた。於炉血と名乗ったクローンレイブンの挨拶の所作、そしてその丁寧さ。ざっくりしたように見えて、一分の隙も存在しなかった。 48



於炉血は、怪物と呼べる程の高みにあることを明日香は見抜いた。たとえ万全であっても、自分では絶対に勝てない。だが、挨拶は戦士にとって最も重要なマナー。されれば、返さねばならない…。「…ハイドアンドシーク、篠田 明日香。監査官代理です」明日香は、震える声で挨拶を返した。 49



「はッ!」挨拶が終了した瞬間、於炉血は明日香の目の前にいた。「ぎッ!」ガードごと潰す痛烈な崩拳が突き刺さる!吹き飛び、転がり、埃を巻き上げる。最中、それは連続側転へと変化。明日香は於炉血から距離の離隔を図る…だが!「はッ!」於炉血は既に追い付いていた!飛び蹴りが地面を爆砕! 50



重迫撃砲じみた衝撃が明日香のバランスを崩した。「はッ!」もうもうと立ち上る土煙を抉り、於炉血が飛び出す!「あがッ!」神をも弑さん如き飛び後ろ回し蹴りが明日香を吹き飛ばした!「はッ!」それより早く接近し、更に蹴る!「ぎゃばッ!」「はッ!」接近し、蹴る!「がぶ…」 51



次なる一撃が襲い来る前に制動しながら、明日香は苦しげに目を細めた。速すぎる。重すぎる。それだけなら如何様にも捌けよう。於炉血は、技術も一流であった。これほどの怪物が、何故MoISでの斗いに介入しなかったのか。先の巨大物体。生まれた。於炉血は…いま生まれた、神だとでも言うのか。 52



「はッ!」一瞬の思考の間に、於炉血は距離を詰めていた!同時に繰り出される上蹴りを、明日香は辛うじて受ける。だが、蹴りはあまりに重い。小手調べのような一撃が伴う必殺の威力に、明日香は顔を歪めた。筋肉が千切れ、骨が軋む。衝撃に耐えかね、ガードは弾かれた! 53



「はァァッ!」於炉血の上体がぶれた。直後、明日香は数歩後退り、「ごぼッ」血を吐いた。彼女は、瞬間的に6発の打撃を受けていた。衝撃が体内で荒れ狂い、内臓を残酷粉砕したのだ。震える瞳で於炉血を見据える明日香。「ハ!ハ!ハ!」於炉血はチョップ両手を広げ、哄笑した。そして…放った! 54



「ッ…」明日香は辛うじて、それを掴み取った。於炉血は残虐に笑うと、甚振るように押し込み始める。掴まれたのは、わざとであった。如何なる剣よりも鋭き手刀が、ゆっくりと明日香の首に迫る。だがそれも束の間、於炉血の腕は、掴まれる場所からゆっくりと凍り始めた。「…へえ?」 55



於炉血は目を細めた。瞬間、氷の侵食が止まり…否。侵食は続いていた。於炉血によって。氷は於炉血のものとなり、逆に明日香の腕を覆い始めていた。その速度は彼女よりも早い!「え…」瞬く間に肩口まで氷に覆われる。腕が押し込まれ、走ったヒビから血が吹き出す!「やだ、やだ…!」KRAAAASH! 56



凍った血を撒き散らしながら、明日香の両腕は粉砕した。明日香はよろめき、膝を突いた。その目は腕のあった場所と、於炉血を交互に見ていた。「代理とは言え監査官、もっと張り合いのある相手と思っていたけれど」於炉血は肩を竦めた。「Ꭰ・Cのやつ、どんな腑抜けた教育してるんだか」 57



「……Ꭰ・C…?ディーサ…」「あッ、あァ!君には関係ない。うん、本当にないんだ」明日香の顎を引き寄せる於炉血。「不用意に首を突っ込むと長生きできない。わかるだろう?はッ!」斬り上げ手刀が明日香の顔を縦断した。面が割れ、右の目が潰れた。「はッ!」斬り下ろし手刀。左目が潰れた。 58



「はッ!」斬り上げ手刀。鼻。「はッ!」斬り下ろし手刀。再び右目。「はッ!」斬り上げ手刀。「はッ!」斬り下ろし手刀。「はッ!」斬り上げ手刀。「はッ!」斬り下ろし手刀。「はッ!」斬り上げる。「はッ!」斬り下ろす。「はッ!」斬り上げる。「はッ!」斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。 59



斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。 60



斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。斬り上げる。斬り下ろす。 61



明日香の顔面は、潰れた柘榴めいて真っ赤に、無惨な花を咲かせていた。「ふぅー…」於炉血は溜息を吐くと、彼女の肩と首を掴んだ。「期待外れへの断罪はもういい。最後に脊椎を引っこ抜いて、それで終わりにしようか」於炉血は、腕に力を込めた。明日香の首が、音を立てて千切れ始めた…。 62



その瞬間である!「CHEST!」決断的なシャウトが轟き、一陣の風が奔った!「ヌ…!」於炉血の反応よりも早く風は抜け、その腕を断ち、明日香を攫う!「迂闊…」於炉血は舌を打った。如何なる存在にあろうと生じ得る、獲物の命を奪う歓喜。その一瞬の隙を闖入者は待っていたのだ。彼女を救うべく。 63



「はッ!」溢れる血で腕を象り、瞬時に追撃に移る!於炉血の足は風より速く、瞬く間に射程圏内に…「うぐッう!?」鋭い棘が於炉血の足を貫いた!まきびしである!地面には、まきびしが敷き詰められていた!「小癪」於炉血は跳躍し、まきびし地帯を飛び越え…その瞬間、目の前にスタングレネード! 64



「グワーッ!?」爆音光閃に於炉血は怯んだ!平衡感覚を失い、まきびしの上に倒れ込む!「グワーッ!」血を飛沫かせのたうつが、それも一瞬のこと。立ち上がって体勢を整えると、目を開けた。既に視力聴力、共に万全まで回復しているのだ。…だが、周囲には煙幕が立ち込めていた。「……」 65



徹底して逃げの一手を打つ闖入者。スタングレネードで怯んだ時に仕掛けて来ようものなら返り討ちにも出来ただろうが、それをしなかった。彼我の実力差を完全に理解している。「いいだろう。その観察眼に敬意を表し、今回は見逃そうじゃあないか」於炉血は肩を竦めると、まきびしの間を歩き始めた。 66



…原 宏樹は前転で衝撃を殺しながら、バイクの傍らに着地した。「すまん、篠田。もっと強ければ、もっと早くに助けられたかも知れん」両腕と顔面を失い痙攣する明日香を見、歯噛みする。宏樹は於炉血による明日香の蹂躙劇を見ていた。見ているしかなかった。手を出せば、共々殺されていただろう。 67



明日香をサイドカーに叩き込むと、備え付け救急セットを取り出した。「しッ!」胸を殴って心臓を再動させると、ボールペンを喉に突き刺し、分解して気道を確保する。そのまま止血し、増血剤、次いで鎮静剤を打つ。拍動と呼吸が弱々しくも安定したのを確認し、宏樹は胸を撫で下ろした。 68



しかし予断を許さぬ状況である。可及的速やかに本格的医療機関に持ち込まねば、実際死ぬだろう。宏樹は携帯端末を取り出し…「ん?」彼の耳が、血で粘つくような音を捉えた。それは、明日香から聞こえていた。何事かを訴えている。「どうした」宏樹は彼女の顔に耳を近づけ…そして、目を見開いた。 69



「つ・く・ば…?ツクバ・シティだと?」力なく頷く明日香。「阿呆。今あすこがどんな状況か、知らんではあるまい」「…」明日香は、瞳なき視線で宏樹を見据えていた。宏樹もまた、見返す。彼女は感情的で感傷的だが、無意味なことをする女ではなく、比較的抜け目がない。ならば、何か確信がある。 70



「…わかった。3時間だけふんばれ」宏樹は明日香の肩を叩いて防水幕を被せると、レインコートに袖を通し、バイクを発進させた。ハイドアンドシークに打電し、自衛隊への牽制、ツクバ・シティの再生医療可能病院守護を指示しながら。滅鏖魔機戮都市ツクバ。そこに、何が待ち受けているのか。 71



雨が降り始めた。命を奪う毒の雨が。既に遠く、MoISの姿が雨に霞む。そこで、決定的な何かが始まった。雨は、ニッポンが流す恐怖の涙じみていた。注ぐ雨は流れ、堆積する屍を時間の泥と共に押し流す。やがて流れは歴史になり、神話になる。今日に生まれた神話の行く末を知る者は、いない。 72






粛清完了:鱗、土蜘蛛、水底、鎖


×鱗 ×風切羽 車裂き 錆 白無垢 ×土蜘蛛 天秤 ×滲み ×包帯 ×水底 ×鑢

×鎖 歯車


残粛清対象:5




ニッポン滅亡決定まで:157時間






探偵粛清アスカ

【アット・ザ・プレイス・ウェア・ゴッド・ワズ・ボーン】

おわり

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