【アット・ザ・プレイス・ウェア・ゴッド・ワズ・ボーン】 #4

白無垢探偵社が足を踏み入れたのは、板張りの四角い大部屋であった。朱塗りの柱が等間隔に並び、戦士の目を持ってしても見通せぬ闇を支えている。四方は壁であり、それぞれの対面では、遮光器土偶と九頭の龍の像が剣呑に睨み合っていた。彼らの後ろで、観音開きが仰々しく閉じた。 1



「ここは一体…」探偵たちは油断なく周囲を見回した。「川上」「は」康生は文宏の声掛けのみで意図を察し、像の調査を始めた。文宏と水琴は康生を守るように、背中を合わせ立つ。Wi-Fi検知器は尋常ならざる量の有害Wi-Fiを検知し、煌々と赤く輝く。長居をすれば脳が癌化して死ぬだろう。 2



白無垢探偵社は、発覚した道を辿った。その果てのポイントがここであり、しかしここにも一見すると何もない。ただ剣呑なる像と、神の前にいるかのような、凄まじき圧力のみがあった。「水琴」文宏は、刀に手を掛ける水琴に声を掛けた。「大丈夫か」「何がだ」「震えている」「…」 3




水琴は刀をきつく握り締めた。昨年の誕生日、文宏から贈られた刀だ。「そうだな、怖くないと言えば嘘になる。だが、まだ部下は残っているし、おまえも、康生だっているんだ。きっと切り抜けられる」水琴は笑った。柄頭で、康生から贈られた『サムライマン』のキーホルダーが嬉しげに揺れた。 4



「ああ。俺たちなら何があっても大丈夫だ」文宏は力強く頷いた。合わせた背から伝う愛する妻の体温。常に最善を尽くそうとする親友。自分たちを慕い、ついて来てくれる部下。彼らがいるからこそ、自分は歩む道を信じ、進むことができる。信頼はどんな圧力にも負けない力だと、文宏は信じていた。 5



その時、荒々しい音と共に観音開きが開いた。即座に臨戦した探偵たちの視線を受けつつ、陰惨な気配を纏う男たちが歩いてくる。探偵らはその姿を認めると、躊躇いがちに、文宏までの道を開いた。「おやおや…おやおやおやおや」先頭の男は慇懃に肩を竦める。土蜘蛛探偵社社長・美作 寛之。 6



「こんなに早いご到着。素晴らしく統率の取れていることでありますなァ」「…恐れ入る」文宏は前に進み出、油断なく寛之を睨め付けた。彼はもはや、土蜘蛛探偵社に対する警戒を隠そうともしていない。「おやおやおやおやおや、如何なされたかな?私の如き底辺8等探偵に、そのような敵愾心」 7



「とぼけないで頂きたい」「おやおやこれは失礼!ハハハハハ」寛之は仰け反り嗤った。白無垢探偵社の誰もが眉を顰める嗤い声だった。美作 寛之は確かに探偵等級の最下層、8等探偵である。しかし彼の発狂行動故に降格されたのだと、文宏は知っていた。以前の寛之は特等探偵。自分よりも格上の相手。 8



「単刀直入にお聞きしよう」文宏の目が光った。「貴社…いや、美作殿は何を知っている?」「何、とな…?」寛之は首を傾げる。「はて、異なことを。我々の成すべきは荒覇吐の塞を守る也。何も蛹もありますまいてということで一つ」「通らんな」「…」寛之は嗤いを止めた。 9



だが、人を食ったような笑顔は未だ残っていた。「何か勘違いしてらっしゃるようでありますことですなァ」「ならば正せ。今、すぐにだ」当然ではあるが、寛之は文宏の眼光に怯むことはなかった。だが、彼は確実に、何かを面白がっていた。やがて彼は口を開いた。「私とて、全ては知らんのですよな」 10



「知ってることを話せ」「古来、神と呼ばれた存在を人々は恐れ、様々な貢物を以て宥めすかしていました。その中で、いつの時代、どんな場所でも神の目を引いたものがあります」「…」「…生贄、ですよ」「貴様…」水琴が口を挟んだ。「ふざけるなよ。我々の部下がそうだとでも言うつもりか!」 11



「そう言ったつもりなのですがねェ」水琴は刀の鍔を指で弾いた。だが、それより早く、文宏が刀を押さえていた。彼の手には緋色の稲妻が侍る。「まだだ、水琴」「お盛んなことですなァ」稲妻がパチリと弾け、続きを促した。「まあ、部下だけじゃありませんやな。あなたも、我々だってそうだ」 12



「我々も、おまえたちもだと?」「鱗、錆、白無垢、土蜘蛛、水底。MoISに突入した全ては於炉血の、荒覇吐の器の生贄ですよ。天秤は最初からそのつもりで指令を下し、死に絶えることを想定している」「実現するとは思えんな」「せずともいい。追加の命もあったのだからね」文宏は腕を組んだ。 13



「鎖探偵社か」「それと監査官」寛之がそれを口にした瞬間、全員に緊張が走った。「天秤は、監査官の介入を予期してたッぽいんですよねェ。事実、監査官はここに来た。どこから情報が漏れたかはわかりませんが、監査官は命を刈り取りまくり、於炉血を器として目覚めさせるでしょう」 14



「そうか…川上」「は」文宏は振り返り、調査を続ける康生を呼んだ。「出口までの最短ルート策定。急げ」「承知しました」「逃げるんですかァ」「俺たちはともかく、部下に余力はない。それより続けろ。なぜ俺たちは導かれた。この場所はなんだ」瞬間、寛之の雰囲気が沈んだ。「それ聞きますゥ?」 15



「無論。それが最重要だ」「はァ~…」寛之は、わざとらしく肩を落とした。それが文宏を苛立たせ、察知したかのように寛之は話し始める。「情報物質イデア。ご存知なことですか?」「生物のエゴによって姿を変える、万物構成最小要素にして全能のエネルギー」「そう。現実にすら余裕で影響します」 16



「現実に影響…」文宏は青ざめた。自分の意志は途方もなく巨大な何かの一部でしかないと、そのような錯覚に襲われる。寛之は嗤った。「言ってご覧なさい」「…於炉血が俺達がここに来るのを望んだのか…!」寛之は満足そうに頷いた。「或いは天秤か、他の誰かかも。それはわかりませんが」 17



イデアは、エゴによって形を成す。そして、エゴが強い者を祝福する。MoISを包む強大なるエゴが、尤もらしい理屈と共に、彼らをここに導く運命を紡いだのだ。…では、ここは何の為の場所だ。その先に紡がれた運命は、何だ。「これだけは決まっておりましょうなァ」寛之の姿が消えた!「なッ…」 18



「「アバーッ!」」白無垢の探偵2人が胸郭を内臓ごと引き剥がされ死!「愚かにもここから逃げる選択を抱いた愚かなる愚か者を愚かしく惨殺処刑する為でしょうよ!」「せいッ!」文宏の手からチョップと共に緋色の稲妻が閃く!しかし稲妻は別の探偵を感電焼灼殺!寛之に盾にされたのだ。「貴様…」 19



「ハハハハハ」寛之は笑った。「「「イヤーッ!」」」文宏の背後より土蜘蛛の探偵たちが襲い掛かる!「ジャッ!」水琴が風となり、探偵たちの間を精密巧緻にして大胆不敵なる針のように縫った。彼女の姿が再び現れた瞬間、探偵は根こそぎ首が刎ね飛ぶ!「「「アバーッ!」」」寛之は意に介さぬ。 20



「しゃあッ!」康生がその背後から光学バズーカを叩き付けた!「ふッ!」寛之はそれを首の力で受け止め、バックキックで反撃!「がぶッ…」その瞬間、緋色の稲妻が迸り寛之を捉えた!「ぎゃがッ」「ジャッ!」水琴が水平斬りを放つ。寛之はブリッジで躱し、火山噴火めいた蹴り上げ!「ぐあッ!」 21



打ち上げられ、くるくると落ちる水琴。康生が跳躍し、彼女を受け止めた。「ンンー」寛之は体を起こし、顎を擦った。そこには猜疑の瞳。「あなた方、荒覇吐を待ち望むんですよね?何故、抗うんですかァ。ここで死ねば、その血肉になれると言うに」「せいッ!」文宏は決断的に接近、短打を打ち込む。 22



だが、格闘の差は明らかであった。打ち込まれる連続打撃を寛之は冷静に捌き、捌き、半身になって躱すと、殺人的な弧を描くトラースキックをねじ込んだ。「ごばッ…!」後ずさりながら血を吐く文宏。しかし寛之は、止めを躊躇った。彼は、水琴と康生が自分を挟んでいるのに気が付いていた。 23



「理解に苦しむことですねェ」肩を竦める寛之。「荒覇吐に正義を認めるなら、黙って身を捧げればよろしい。荒覇吐、天秤の使者たる私ならそうすることでございますがねェ」「なら」決断的な闘志と共に、文宏は拳を、水琴は刀を、康生はバズーカを寛之に向けた。「「「お前から死ね」」」「不届き」 24



KRAAAASH!その瞬間、観音開きが内側に弾け飛んだ。ダイヤモンドのような煌めきを残しながら大気に拡散する扉残骸を踏みしめ、長髪の男女が決断的にエントリー!「あれは…!」水底探偵社社長、坂東 聡と…。文宏が逡巡する間に、女は名刺を構えた。戦士の流儀、名刺交換の備えである。 25



名刺交換は絶対のマナー。無視することは許されない。文宏、寛之は、己が組織の代表として名刺を構えた。次の瞬間、名刺は投げられ、それぞれの手の内に収まる。((…やはり))文宏は目を細めた。監査官…代理。後半の2文字に目を奪われるが、しかし彼女は、凄まじき戦士の気迫を纏っていた。 26



名刺交換を終えて尚、誰も何も発さなかった。しかし誰もが一流であり、その立ち振る舞いから最も強き者を探り当てていた。それは単なるシンクロニシティか、或いは竦む戦士の定石か。強者より狩るべし。不可思議な連帯感が、この場の者を繋いでいた。「ああ、その、これは」寛之は頭を掻いた。 27



「シャギャアアア!」奇怪なる聡の裂帛が戦端を開いた!「ふッ!」飛来する蒼海じみた膿を弾く寛之に、照準光が当たる。「しゃあッ!」轟音と共に康生は熱い光を放った!「ふッ!」「うわッ!?」だがその直後、康生の体が浮く。寛之は既に康生の足元にいた!「ジャッ!」水琴が寛之の背後より突進! 28



「ふッ!」寛之は宙返り跳躍しつつ、浮いた康生の頭を足でホールド。そのまま水琴に叩き付けた!暗黒武術の奥義、フランケンシュタイナーである!「「うッ…」」同時に崩れる両者から離れた時、既に文宏と明日香が迫っている!「ふッ!」寛之は両手を打ち開き、稲妻纏う拳と、氷の刀を止めた。 29



「うあッ!?」明日香が苦鳴を上げた。寛之の体表を伝い、緋の電撃が襲ったのだ!「ふッ!」そのまま二人を投げ飛ばす。「ぐう…」明日香と文宏は折り重なって倒れる。「ふッ!」寛之は跳躍。膝を突き出し、隕石めいて落ちる!文宏は転がる。しかしその下にいた明日香は…避けられない…!SMAAAASH! 30



明日香の喉に膝が突き刺さった!明日香は呻きも上げられず、絞り出すように、微かに血を吐いた。吐いた血は寛之の頬に付いた。「ンンー」寛之は血を舐め取る。「こういう仕草、ワルっぽくていいですよねェ」より深く膝をねじ込む。寛之の膝が凍り始めるが、意に介すこともなく拳を振り上げた! 31



しかし、その腕が振り下ろされることはなかった。突如として上方の闇より血色の鴉が舞い降り、寛之の腕に止まったのだ。「ンン?」訝る寛之。だがその瞬間、彼の第六感が警鐘を鳴らした!「ふッ!」博之は、逆手で鴉の首を刎ねる。しかし鴉は佇み、首なき首を寛之に向ける…そして膨張を始める! 32



SPLAAAASH!鴉が弾け、八方に血を撒き散らした!「うッ!?」刃と化した血液に体を貫かれる寛之。外れた血液は新たな鴉となり、寛之を襲う!「チイーッ!」バク転で明日香より跳び離れながら対応する。そこに再度、文宏が襲い掛かった!掴みかかった文宏を、後ろに倒れ込みながら投げる!巴投げだ! 33



寛之はブレイクダンスめいた動きで襲い来る血の鴉を払いながら起き上がり、構え直した。「何奴…!」「俺だ!」もはや壁穴と化した扉から、一人の少年が現れる。光を血色に照り返す奇妙な黒髪の下で、金色の瞳が爛々と輝く。クローンレイブン!「九龍…!」明日香が割れた声を出した。 34



「援護に来たぜ!」手首から血を流しながら、九龍は叫んだ。部屋にいる者の視線が、彼にのみ注がれる。九龍は格上存在の意識を受け、ビクリと身を震わせた。「ンンー」寛之は首を傾げた。「レイブン、レイブン、クローンレイブン。未熟なるクローン如きが、この神聖処刑大虐殺場まで」 35



「そッ、そんなの関係あるかッ!」「随分と震えていることですねェ」寛之は嘲笑った。「恐ろしいことですか、私が」「こ…、ッこ怖くねぇッよ!」「でしょうねェ。不意打ちとは言え、私に一杯食わせたことだ。一流ですよ、ええ」どろりと空気が濁る。それはやがて、鋭い殺気となった。「殺します」 36



次の瞬間、寛之は九龍の目の前にいた!「ふッ!」「ギャ!」九龍の首に足が掛けられ、引きずり倒すように投げられる。部屋の中央に転がる九龍を目掛け、寛之は跳躍した。「く…ッそ!」僅かな失神から己を取り戻した康生がバズーカを寛之に向けた。だが次の瞬間、彼の腕にナイフが刺さっていた! 37



「ッぐう…!?」何たる先見!「ふッ!」寛之は空中回転の中からナイフを四方八方に投げ続け、その場の全員を牽制する。弾き、或いは躱したとて、そこに新たな刃が飛来する。恐るべきまでの驟雨であった。「ゴうッ」九龍の顔面に瓦割りパンチを落とすが如く、寛之はマウントを取った。「フウー…」 38



寛之の視線には、憐憫が籠もっていた。「おかわいそうに。もはや本来の役割すら果たすことができぬ程、自我が定着している」「可哀想に見えるなら放せ!」「いけませんねェ」寛之は九龍の頭を掴む。「再利用するなら、脳ごと取り替えなきゃいけない。そんな手間をかける価値は、貴方にはもうない」 39



「何を…言っている…」その質問に答えず、寛之は九龍を苛んだ。「あ、ああ…」目前に迫る死に、時間が泥めいて鈍化する。指が頭蓋に食い込む。圧迫された脳が悲鳴を上げる。喉が痒い。頭蓋の隙間に指が掛かる。喉、いや胸が痒い。頭蓋が開かれる。腹の底が痒い。頭蓋と共に意識が開け、白く輝く。 40



パ チ ン 41



その瞬間、開かれた九龍の口から光の柱が伸び上がった!「AAAAAGH!?」「な」瞬く間もなく寛之の顔面を覆った波は、蠢き、這いずり、不快な音を立てる。寛之は数秒で抵抗をやめた。だらりと腕が弛緩し、仰向けに倒れる。その腹が膨張し、破裂した。血肉と共に光が溢れ出した!「ぶぶぶぶぶぶぶぶ」 42



蝿の羽音であった。不浄なるWi-Fiを放つ蝿が部屋に充満を始めた!「うわあああッ!」白無垢の一人がパニックに陥り、頭を抱えうずくまった。「馬鹿、立て!」康生の光学バズーカから放たれるレーザーが蝿を焼く。しかし一丁のバズーカで守り切るは到底不可能!「アバーッ!」蝿に飲み込まれる! 43



彼の体は膨張破裂。亡骸爆散と共に蝿の群れが立ち上がる!「ああ…!」「死ぬんだ!みんな死ぬんだッ!」パニックが伝染!「せいッ!」緋の稲妻が走り、蝿を叩き落した。「聞け!総員…」「わあああ!」パニック探偵が文宏を襲う!「ぐうッ…」「アアアーッ!アアアアーッ!」殴打が続く! 44



「こいつかッ!こいつがーッ!」別の探偵が文宏殴打に合流!「やめろ、落ち着け…!」「アバーッ!」新たに合流しようとした探偵が蝿に呑まれて死!爆散して新たに蝿を撒き散らす!「ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ」音と光が氾濫し、死と狂気を醸成する。「何が……何が、起こっているんだ……!」 45



明日香は冷気を撃ち放ち、迫る蝿を撃墜した。((間違いない、ルミナスバグのNEWO≪ネオ≫だ))光の幕を見通すように目を細める。先に九龍を人質に取った際、油断なく仕込んでいたのだろう。それを最大威力を以て発揮した。……最初からこれが狙いだったのだろうか。九龍は、無事なのか。 46



羽音の中、九龍は部屋の外に向け走っていた。その先にいるのは、左腕を破損したモノアイの人型ロボット。「ルミナスバグ…!」明日香の声は羽音に消えた。この厚みでは、蝿を冷凍して切り抜けることも難しい。ルミナスバグはわかっている。先の交戦から、明日香の限界を推測したのだ。 47



「そいつを返せ!」明日香は冷気を纏い、蝿の壁に突貫した。ルミナスバグは想定外と言わんばかりにモノアイを明滅させると、軽く手を振った。蝿の密度が瞬く間に上がり、物理的衝撃を伴って弾き返される。「うッ…」明日香は転がりながら、ルミナスバグと共に去ってゆく九龍の背中を見た。 48



装備と冷気のお陰で体内侵食こそ防げたが、いつまで保つかもわからない。追跡は不可能…以前に、脱出すら困難であろう。「…」明日香は部下に襲われる文宏を見た。データ曰く、白無垢は下層の探偵社である。それと戦線を張るのが最善手。明日香の背筋を嫌悪感が這い上がる。 49



だが、一組の兄妹が脳裡に浮かび、それをせき止めた。明日香は諦めたように息を吐くと、組み合う文宏らに飛び掛かった。「ふッ!」「ム…!」対応しようとする文宏をすり抜け、探偵の頭に手を宛がう。明日香の手は冷たく、彼らの脳から温度、そして意識を瞬く間に奪い、鎮圧した。「貴様…!」 50



「殺してない」明日香は弁解した。「早急に脱出しないと手遅れになる。今は手を組むべき」「…」苦々しくも真っ直ぐ見つめる明日香に対し、文宏の目は疑念に満ちていた。彼の脳裡には、寛之の言葉が張り付いている。『監査官は命を刈り取りまくり、於炉血を器として目覚めさせるでしょう』。 51



寛之は、嘘をつく男ではない。それだけは知っていた。於炉血と生贄。事情はどうあれ自分たちの任はあくまで防衛である。だが彼女が粛清の、殲滅の為にMoISに現れたなら、それこそが、この状況の原因ではないか?無論、寛之の言を信じればであるが、今の彼にそれを判断する冷静さはなかった。 52



その時。ZGOOOOM。部屋…否、空間が、MoISが揺れた。溢れ出る蝿と死の重みに耐えかねたようだった。生き残った者は、たまらず膝を突いて己を支える。揺れは止まらず、やがて部屋に亀裂が走り始めた。否、部屋ではなく、空間そのものが割れていた。それは瞬く間に広がり、明日香らの間を割った。 53



明日香を見る文宏の目には、疑念と怒りがあった。「粛清、か」押し殺したように文宏は言った。「なあ、監査官…代理。君は粛清の意義を考えたことはないか?」明日香は訝るように目を細める。「我々探偵にその基準は知らされず、恐る恐ると働くしかない。…では何故、粛清というシステムがある?」 54



「…」「探偵たちに恐怖を与え、制御する為の暴力装置。それが監査官だ。わかるか?突如として蹂躙されるかも知れない恐怖が。監査官の存在が探偵を凶行に走らせる」「やめろ、文宏!」水琴を介抱する康生が叫んだ。「そんなデータも証拠もない。取り消せ!」「だとしても、理不尽に変わりはない」 55



文宏は凛とした格闘を構えた。空気との摩擦で稲妻を生む魔拳を。「誰かが理不尽と斗わねばならない」「文宏…!」「わかってる。言い掛かりだ。正義はない」「正義?」明日香が鬼めいて低く言った。「下層探偵如きがぬけぬけと。ニッポンに正義などありはしない。そのようなまやかしに縋るなど」 56



「正義なき世に、弱者は踏み躙られるしかない」「お前らの正義なぞ…」明日香の目が憎悪に燃えた。「壊し尽くしてくれるッ!」「せいッ!」稲妻が迸った!空間のヒビを回折し、明日香を襲う!明日香はジグザグに走って躱し、文宏を叩く!文宏は対応する! 57



稲妻と氷が乱れ弾ける。額がぶつかり、肩が触れ合う程の超至近格闘。この空間が長く持たぬを察し、高速でけりをつけるつもりなのだ。憎悪と義憤、二つの怒りが交錯する。決着はすぐに訪れる。その先を、彼らは考えてはいない。ただ目の前の相容れぬ存在を討つべし。それのみが、彼らの存在意義! 58






(つづく)

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