【ファング・イン・ファルス】 #1
黒は汚れが目立たない、などと誰が言ったのか?九龍の脳には、そんな暢気なことばかりが過る。現実逃避であることはわかっているが、それをコントロールできれば苦労はしない。((九龍だけに、か?))巡る思考を、九龍は必死に押さえつけようとする。 1
星空探偵社の事務所には、人型の異形が蔓延っていた。闇色の鎧を纏い、隙間から赤黄色い肉を覗かせるそいつら。鋭利な機械爪で仲間だったであろうものを引き裂き、サメめいた牙持つ口へ運び、貪る。虚ろな瞳を何処へか向ける死体の腹にかぶりつき、音を立てて啜る。事務所は、血に塗れている。 2
『それ』はゆっくりと顔を上げ、一斉に九龍を見た。血濡れた口を開き、ケタケタと笑う。「粛清だ」異形のひとつが言った。「粛清…?」「粛清だ」他の者が同調し、戦く九龍を嘲笑った。「粛清だ」「粛清だ?」「粛清だ!」「粛清だ」「粛清だ」 3
「ま…待ってくれよ」九龍は後退り、しかしすぐに壁にぶつかった。向けられる視線は、加虐的な殺意に満ち満ちていた。「粛清って、一体うちの社が何を…」「粛清だ」影が飛び掛り、九龍を押さえた。「ひ、」「粛清だ」別の影が九龍の腹を爪で裂いた。「あッ、ぎ、いいいいいうう!?」「粛清だ」 4
影は大口を開け、九龍の内臓に齧りついた。「あっ、がっ、がっあ」「粛清だ」「やっ、やっ」「粛清だ」他の者が腕に、足に集り、喰らいつく。「粛清だ」「いだっ、いだッイイ」「粛清だ」「ああああぐあ」「粛清だ」「粛清だ」「ぐっ、あば」「粛清だ」「粛清だ」「ッう、う」「粛清だ」「粛清だ」 5
探偵粛清アスカ
【ファング・イン・ファルス】 #1
「ああッ!」無様そのものの叫びと共に、九龍は跳ね起きた。薄暗いコンクリート部屋には、自分と荷物以外に何もない。窓の外からは、目の眩むようなネオンの光。出社する勤め人たちの気怠い靴音。ニッポン都市部の典型的な早朝である。九龍は、汗でじっとりと湿った胸から、大きく息を吐いた。 6
「くそッ…またか」九龍は、濡れて顔に張り付く髪をかき上げる。流れるような黒が、ぎらついた光を血のような赤に照り返す。金色の瞳の下には隈が濃く、ここ数日、全くと言っていいほど休めていないことを叫んでいた。だが、それでもぼんやりとしていることは許されない。 7
荷物を引っ掴むと、雑居ビルを後にした。ヨコハマ・シティ地表に空きテナントを持つビルは、実際珍しい。TOKYOに程近い大都市であり、人も店舗も入れ替わり立ち替わりだ。辿り着くのが一日、遅くても早くても、ここで休むことは出来なかっただろう。 8
雑踏に紛れ込み、肩を落とした。隠密は尾行の前提。それを教えてくれた師は、もういない。死んだ。殺された。粛清されたのだ。『やり過ぎた』探偵社の下に災厄は現れ、粛清の名の下に鏖殺する。後に残るは無惨のみ。九龍の所属する星空探偵社は、そうして潰滅した。 9
何をやり過ぎたのか?九龍は知らない。三日前、彼が仕事を終え探偵社に帰還したときには、全てが終わっていた。血と臓物に塗れたオフィスで、群れを成して仲間だったものの肉叢を食む影じみた異形の人型。その後のことは、よく覚えていない。確実なのは、彼らに追われていること。 10
((クソ、どうしてこんなことに))そうぼやいた瞬間、ギラついた、捕食者じみた視線を感じた。ぎくりと見を固くしながら周囲に目を走らせる。奴らの姿はない。胸を撫で下ろしながら人混みを外れ、裏路地へと入る。途端に視線は貪欲さを増し、舐めるような粘ついたものに変わる。 11
「へへ…兄ちゃん、カワイイ顔してるじゃん」「そうだね…けど俺的にはもうちょい濃いめの方が…けどコレもアリかも」前後を挟むように二人の男が現れる。九龍は荷物を地面に置くと、呼吸を整える。「兄ちゃん、やる気かい?」「どうせならヤってからにしない?一緒に気持ちよく…なろ?」 12
前の男が、ズボンの後ろから拳銃を抜いた。下卑た笑みと共に向けられた銃口を、九龍は真っ直ぐに見返すと、体をほぐすように軽く飛び跳ねる。無言の挑発だ。前の男の眉間がヒクついた。粘つくような視線は、鈍い殺気へと変わる。引金に掛けられた指に力が掛かる。空気が軋む。…………BLAM!! 13
「はッ!」九龍の裏拳が、後ろからの銃弾を弾いた。「な」「はッ!」怯んだ後ろの男に飛び掛かり、チョップで首をへし折る。「べ!」「へ、あ」屍と化した男から拳銃を奪い、状況を呑み込めていない、もう一人の眉間に穴を開ける。「もッ!」 14
倒れ込む男に関心を示さず、九龍は拳銃を分解して捨てた。探偵を営むからには、腕には覚えがある。そこらのチンピラ相手に遅れを取りはしない。だが、星空探偵社を襲ったもの…追い掛けて来るものには、自分では勝てない。信頼できる者のところまで、逃げなければならない。 15
荷物を拾い、大通りへと戻った。すぐ近くで銃声があったにも関わらず、誰も彼もが無関心に足を急がせていた。ニッポンでは、悲しんでいる自分の代わりに泣いてくれる者はいない。目覚めてよりの一年で嫌と言うほど理解できたのは、それだけだ。 16
『洗濯の殿堂』顔を上げた九龍の目に飛び込んだのは、コインランドリーのネオンサインだった。そう言えば、逃避行の始まりから一度も洗濯はできていない。旧式洗濯機の音は、嫌いではない。漫画や自動販売機も置いてあるだろう。僅かばかりの休息を期待し、九龍はコインランドリーに入った。 17
整然と並んだ乾燥機は、一つとして稼働していない。…が、長椅子に寝そべって漫画雑誌を読む女が一人。女は九龍に気付き、起き上がった。「どーも」「…どうも」九龍は訝った。衣類が入っている洗濯機はない。なのに何故、この女は居るのか?((まさか追手か?)) 18
女は九龍の視線に気付いたか。ばつが悪そうに漫画雑誌を本棚に戻し、そそくさとランドリーを後にした。その背をぼんやりと見送る九龍。追手としては余りに隙だらけだ。恐らくは否。努めて考えないようにしながら、九龍は洗濯機に衣類と、購入した小分けの洗剤を放り込んだ。ピ。ピ。ピ。スタート。 19
ゴウン、ゴウン、ゴウン…。ぼんやりと回り始めた洗濯機が、無愛想な音を立てる。九龍はしばし、その様を見つめた。無機質なリズムが心地よかった。このときばかりは、安らかでいられた。異形の人型に叩き付けられる殺戮の悦楽を、思い起こさずに済む…。九龍は、洗濯機に背を預け、目を閉じた。 20
自動ドアが開いたのは、九龍が音に身を任せた瞬間だった。反射的に体を起こす。そこにいたのは異形の黒い人型。鎧の隙間から鮫じみた牙を軋らせ、鋭利な機械爪をガチガチと鳴らせる。血の記憶が九龍の脳裡に蘇る。「粛清だ」それは、あの夜と全く同じ声音で笑った。 21
「あ」九龍が上擦った声を上げるのと、影が飛び掛るのは全く同時だった。「うわあああッ!」情けなく転がる九龍の後ろに爪が突き立つ。「HA!! HA!! HA!!」牙の下から哄笑が漏れる。爪は、壁を削りながら九龍を追う。そこには残虐な愉悦、弱者を甚振る優越が確かに存在しているように見えた。 22
「うわ、うわ、うわ」よたよたと逃げる九龍。爪は居並ぶ洗濯機をも断つ。迷い無き横縞を刻まれた扉が崩れ落ち、ガラガラと床に転がる。九龍の使用洗濯機も衣服ごと切り刻まれ、音が止まった。「ぎゃ!」足をもつれさせ転ぶ九龍。「ひ、あ、あ」怯える九龍を、影が嘲笑う。 23
カシュン。再び自動ドアが開いたのは、その時だった。何故か極限においてすらハッキリと、威圧感すら伴って聞こえた音に、二人は我知らず停止する。長髪を靡かせながら、パンツスーツの女が歩いてくる。あどけなさすら残す顔立ちの彼女は、先刻、ランドリーから退出した女であった。 24
女はガスマスクめいた面を取り出し、装着する。逆の手には名刺。異形は黙し、洗濯機から爪を引き抜いた。強敵と認めたか。そして、両者は同時に腕を打ち揮った。異形の爪には女の名刺が突き刺さっていた。異形が投げたチタン合金名刺は女の手に。女は名刺を懐にしまい、瞬間、異形が飛び掛かった! 25
「HA!!」爪で挟み込むような一撃の、女は内側に潜り込む。それを迎え撃つように、異形は牙を剥いた!「ふッ!」しかし、女のワンインチ・パンチが速い!「AAAAGH!!」鎧を大きく凹ませながら吹き飛び、洗濯機に小さなクレーターを穿つ。水と洗剤が漏れ、床に泡を作る。…だが、泡は凍り付いてゆく。 26
ランドリーの室温は、凄まじき冷気によって急低下していた。その冷気は、女より発せられている。異形は身を起こそうとし、異変に気付いた。胸部装甲が凍り広がり、体の動きを封じている!「UUUUGH…!!」苛立つように唸る。氷に亀裂が広がり、だが既に女が目の前で、氷の拳を引き絞る! 27
「ふぅアァァァッ!」KRAAAASH!!限界まで引かれた矢めいて放たれた氷の拳が、異形の頭を粉砕した!女はそのまま拳を下に落とし、異形の鎧を引き裂く。バキバキと音を立てながら凍り、砕かれてゆく鎧。その隙間から漏れる体組織もあまねく氷であり、鮮やかに煌めいていた。鎧が、完全に砕け散った。 28
「ふぅ」女は面を取ると、九龍に手を差し出した。「災難だったね」「あ…ああ」九龍はその手を掴み、よろよろと立ち上がる。氷よりも冷たい手に、彼は震えた。否、単独とは言え異形を瞬殺する、女の凄まじさにか。「しかし白昼堂々牙に襲われるとは。キミ、何やらかしたの?」「牙?」「牙探偵社」 29
「アレが探偵だッてのか!?」女は、先に異形が投げたチタン合金名刺を九龍に見せた。無機質な明朝体で『牙』とだけ刻印されたそれを受け取り、わなわなと震える。「牙探偵社はハイドアンドシークに登録もされた、れっきとした探偵社だよ」「マジかよ」名刺を女に返し、頭を抱えた。 30
「牙が単独で一人を襲うッてのは、どうも腑に落ちない」女は牙の名刺を手の中で弄ぶ。「何があったのか、ちょっと聞かせてくれない?」「その前に、アンタ何者だ?」「あ、そうだったね」女は自分の名刺を差し出した。(株)ハイドアンドシーク諜報部13班 篠田 明日香。九龍も自分の名刺を渡す。 31
「いくら粛清ッつってもさ。あんな残酷な真似する必要はあったのか」ハイドアンドシークはトモシビグループ第一位…頂点10企業、火守すら統べる最強の人材派遣会社であると共に、探偵統括社だ。探偵に関する全ての権利は同社にある。「粛清?」九龍の恨みじみた言葉に、しかし明日香は首を傾げた。 32
「待って。星空探偵社が粛清されたの?」明日香は九龍の名刺を何度も見返す。「ああ、そうだよ。俺がいた星空探偵社は、粛清されたよ」九龍は当てこするように繰り返した。明日香は促すように身を乗り出す。「……」九龍は、粛清の内容を掻い摘んで話した。牙による襲撃。逃避行。 33
「牙に…粛清された?」「ああ。じゃなきゃなんであんなに粛清粛清って…」「牙はメッセンジャーを請け負うことがある」明日香は言った。「星空探偵社鏖殺を依頼され、そして粛清のメッセージを『依頼者』に託された」「何の意味があるんだよ」「わからない、だけど… 34
…火警、処刑者、監査官。弊社は外部に対して何らかの執行を行う場合、必ずそれら役職を持つ者が行う。牙に依頼なんて有り得ない」「ウチがどっかのイメージダウン戦略に巻き込まれたッてか!?」九龍は声を荒げた。明日香は、静かに首を振って応える。「知ってる人は多い。それこそ意味がないよ」 35
「じゃあ何で」「多分『依頼者』が私を誘ってる」「…何?アンタ?」「ごめん、少しだけ名刺返して」差し出された手に、九龍はおずおずと彼女の名刺を返した。明日香は、素早くそこに何かを書き加え、また九龍に返す。「これこそ、マジかよ」九龍は、加えられた『監査官代理』の文字に首を振った。 36
「粛清は始まってる。同時期に『粛清』の名を借りた殺戮なんて、誘ってるとしか考えられない」「…」九龍はへたり込んだ。「どうしてウチなんだ」「そこまでは何とも。直接聞くしかない」明日香は、牙の名刺を裏向けて九龍に見せた。そこには凹部が、何らかのパターンによって打刻されている。 37
「これは…パンチシート?」「牙の名刺には、依頼者の情報が記載される。それによれば、依頼者は」明日香は断定した。「風切羽探偵社社長、石動 朝子」「は?」九龍は髪を振り、明日香を見た。血色の照り返しが毛先へと流れる。「そんな、そんなウソついてんじゃねえよ。あの人が、あの人が」 38
「この件に、貴方はもう無関係じゃないと思う。だから言うけど、風切羽は正式に粛清対象と認定されている」「何でだよ!何であの人が!」「ふッ!」掴み掛かった九龍の腕を、明日香は軽く捻り上げる。「あッだだだ!」「だから、直接確かめてみない?」「確かめ…」「一緒に、さ」 39
関節技を解かれた九龍はバランスを崩し、倒れた。彼が逃避の果てに向かっていた場所こそが、風切羽探偵社であった。石動 朝子は星空探偵社社長、ウェイランド・サーストンと共に、過去なき己を鍛えてくれた人物である。それが粛清される。そして自分たちを狙ったなど。何があったと言うのか。 40
推測することはできない。あまりにも、何もかもが唐突であった。ならば。ならば。((…確かめるしか、ないのか))九龍は震えた。もし本当に朝子が自分と星空を狙っていたなら、自分はどうすればいい。だがそうでなければ、助けを求められる。「……わかった」九龍は立ち上がった。「確かめよう」 41
「ん」明日香は頷き、外を覗いた。「大丈夫、牙はいないよ」手招きする明日香に続き、外に出た。ランドリーの外は、我関せずとばかりに歩く人々ばかり。ランドリーの警報も機能していないようだった。「ヨコハマ・シティ、治安あまり良くないしね」「…そうだなぁ」二人は、ぼんやりと歩き出した。 42
…九龍は、自分を値踏みするような明日香の視線に気付かなかった。彼女が見ていたのは、九龍の髪。光を血色に照り返す艶やかな黒き色彩に、読者諸兄も覚えがあろう。先に粛清された包帯探偵社と滲み探偵社。彼らの粛清に際し登場したクローンレイブンと、全く同一の特徴である。 43
そして、明日香さえもそれに注視していたが故か。彼らは、牙とは異なる追跡者に気付かなかった。おお、見るがいい。殺意に鋭きその眼差し。懐から覗くそれは、録音機と拳銃型の再生機ではなかろうか?何故、何故この男がここにいるのか。彼は粛清された筈。滲み探偵社社長…真壁 亮太! 44
(つづく)
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