第19話 遠く連なる女王の記憶Ⅱ

 ルミネスキ女王の深い記憶の中に潜り込み、意識を同化させたヒラクは、暗い夜の森を歩いていた。


 誰かがヒラクが入り込んでいる人物の手を引いている。

 そのしわんだ手の感触……。

 今ヒラクが入り込んでいる人物の目線の高さは普段のヒラクよりも低い。


(子ども……?)


 それは、自分の口から出た声の高さで確かめられた。


『おばあちゃん、月の女神様はもういらしているかしら』


『そうだねぇ。おまえがあまりにぐっすり眠っているから、起こすのに手間取って、すっかり遅くなってしまったよ』


 その声はマイラのものだった。


(おばあちゃんだって? おれは今誰の中にいるんだ?)


 やがて森の木々が途切れ、目の前に大きな湖が現れた。

 月が湖面に光をのばしている。


 ヒラクは自分の目を疑った。


 青白く透き通る肌を輝かせ、氷の火花をちらすかのような長い髪で暗闇に光の残像を残し、湖面をすべるように舞う女の姿が見える。

 それが女とわかるのは、丸い体の曲線が見て取れるからだったが、顔は透けて輪郭がぼんやりと見えるほどで、人というよりは、人の形をした青白いエネルギー体のようだった。


『月の女神様だわ!』


 ヒラクが入り込んでいる子どもが叫んだ。


『私たちが最後のようだねぇ』


 湖の前には貝殻や天然石を連ねた首飾りや腕輪をジャラジャラと身につけた女たちがいて、小さな弦楽器をかき鳴らし、木製の打楽器でリズムを取りながら、月の女神の動きに合わせて、その場で輪になって踊ったり、歌ったりしていた。


『ねえ、おばあちゃん、私たちも混ざりましょうよ』


 そして湖のそばに近づいていこうとしたとき、女たちの歓声が悲鳴に変わった。


 一瞬何が起きたのかわからなかった。


 一人の男が現れたかと思うと、それに続くように弓や剣を携えた男たちが後に続いて湖の前に押し寄せてきた。


『勾玉が示した場所は確かにここだ』


 最初に現れた男が言った。


(あれは黄金王!)


 ヒラクは今自分が入りこんでいる子どもの目を通して、遠目ながらもはっきりとその姿をとらえた。


 黄金王は青い浮遊体のような月の女神が舞う湖面をみつめ、水の中にずぶずぶと足を踏み入れる。


『無礼な! 月の女神様に近寄らないで!』


 そう叫んで黄金王を止めようとした一人の若い女に、水際の兵が矢を放った。

 女たちは悲鳴をあげて逃げ惑う。

 ヒラクが入りこんでいる子どもは祖母であるマイラにきつく抱きしめられた。

 だが次の瞬間、強い光が辺りに放たれ、老婆は思わず手をゆるめた。

 その手をすりぬけ、ヒラクが入り込んだ子どもは湖に向き直って指をさす。


『見て、おばあちゃん。あの男の人から光が!』


 黄金王は全身から黄金の光を放っていた。

 ヒラクは自分も同じような体験をしたことから、それが勾玉の光であることを理解した。


 そして黄金王はその輝きをおびた体を水底に沈めた。


 水の中の黄金の輝きはやがて湖全体に広がり、中心から波紋を広げるように湖面が波立った。

 青白い月の女神の光は黄金の輝きの中で薄らいで、かげろうのようにはかなく見えた。


 その黄金の湖に再び黄金王が浮上して姿を見せたとき、その両手には大きなまるい鏡が掲げられていた。


『見よ、これこそが、我が我であり、神たる証。月の女神とやら、真の神の輝きの前に、おまえは存在することができるのか?』


 黄金王はそう言って、円鏡を月の女神に向けた。鏡を掲げる両手から、黄金の勾玉の光がほとばしり、鏡の表面がまぶしく光った。

 

 青白くぼんやりと発光する月の女神の姿は、強い光の中で形を失っていく。


『やめて、やめてーっ!』


『女神様!』


 女たちが湖の中に飛び込んでいく。


 水際の兵士が次々と矢を放つ。


 老婆はヒラクが入りこんでいる子どもの手をひいて森の中へ逃げた。

 女たちの悲鳴が背後に遠ざかっていく。


 一体何が起こったのか、ヒラクにはよくわからなかった。


 そして暗闇の中を走っているうち、手を引く老婆が足元からくずれおちるようにその場に倒れた。


『おばあちゃん!』


 老婆は心臓のあたりを押さえ、苦しそうにあえいでいる。


『おばあちゃん、どうしたの? 苦しいの?』


 子どもはおびえたように泣きじゃくる。


『ここからは、おまえ一人でお逃げ』


 老婆は息も絶え絶えに言う。その目に銀の輝きがないことに、ヒラクは初めて気がついた。


『ああ、どうか月の女神よ、この子をお守りください。我が命の残り火を捧げます。月の女神よ……どうか……どうか……』


 そして老婆は息を引き取った。


 ヒラクが入りこんだ子どもはいつまでもその場で泣いていた。


 だが、老婆の死体が燐光のような青白い光を放ちだしたのを見て、子どもはすっかり涙を止めて呆然とした。


 青白い光で全身を覆われた老婆が急に体を起こしたとき、子どもは思わず小さな悲鳴を上げた。

 その悲鳴に反応するように、老婆は顔をこちらに向けた。


 ヒラクはその目に釘づけになった。

 老婆の瞳は銀灰色に鈍く光った。


『私を呼んだのはおまえか……?』


 老婆は静かに尋ねた。


『ちがう。おばあちゃんが呼んだの。あなたは月の女神様でしょう? 青く輝く女神様。そうでしょう?』


 子どもの強い確信がヒラクに伝わってくる。


『月の女神……? 私が? ちがう……本当の私は……』


 老婆の青い輝きが消え入るように明滅する。


『私は……誰だ……わからない……このままでは私が消えてしまう……』


『消えないわ!』


 子どもは老婆の手をつかんだ。


『私がちゃんとわかっているわ。あなたは月の女神様。おばあちゃんが最後に呼んでくれたの。そしてあなたを自分の中にかくまっているんだわ』


 今度は子どもが老婆の手を引いて歩き出す。


『私と一緒にいれば大丈夫です。月の女神であるあなたの存在は私が守ります。あなたがそうしている限り、おばあちゃんも死んでないって思えるもの』


 はきはきと言葉を前に押し出すように話す子どもの口調は誰かに似ているとヒラクは思った。


             ●                 


 次の瞬間、ヒラクは成長した子どもの中にいた。


(この顔は……)


 赤や緑の宝石を埋め込んだ金の彫刻に縁取られた鏡の中に、黒髪の女の顔が映し出されている。

 黒髪の女は失望しきった自分の顔を映す鏡から目をそらした。


『どうした? そなたのために作らせたものだ。鏡が望みだったのだろう?』


 大きなだ円の華美な鏡を床に立て、両手で支えてこちらに向けているのは黄金王だ。

 年は若いが鼻の下には威厳を示すかのような髭がすでにたくわえられていた。


 今いる場所はルミネスキ城の玉座の間によく似ている。

 だが、黄金の玉座のあるはずの場所には何もなく、後陣の丸天井に描かれた黄金の絵もない。


『陛下、私が望んだのはこのような鏡ではございません』


 黒髪の女はきっぱりとした口調で言った。

 ヒラクは、口から出る言葉を聞きながら、やはりさっきまでの子どもはこの女だったのかと確信した。


『あなたがこの地に現れたときに月の女神を消滅させた鏡を見せていただきたかったのです』


 その言葉で、黄金王は一瞬不快そうな顔をした。


『やはりそなたは、そのことを恨みに思っているのだな。月の女神の信仰者としては当然のことだが……』


 黄金王は鏡を床に置き、黒髪の女を背後から抱きしめた。

 黒髪の女が抱く嫌悪感がヒラクに伝わってくる。


『漆黒の夜の闇のように美しい髪だ。おまえは夜を支配する女王だ……』


 黄金王は女の黒髪を指にからめて口元に近づけた。

 そして黒髪の女の体を玉座のあるはずの場所に向けて、背後から耳元でささやく。


『あの場所には黄金の玉座を作るつもりだ。そこに我は座り、いずれは我が子がその地位を継ぎ、新しくできるルミネスキの王となる日もくるだろう。その新しい王をおまえが産むのだ』


『私に妃の一人に加われというのですか……。命乞いのために信仰を捨てざるを得なかった月の女神の信仰者たちの一人になれと?』


 黒髪の女は高ぶる感情を必死に押し殺して言った。


『そなたは特別だ。だからこそこの城にも自由に出入りさせている。城の女たちがそなたを月の女神の化身として崇めながら、隠れて信仰を続けているのも我は知っている。我がそのように仕向けたのだ』


『どういうことです?』


 黒髪の女は振り返ろうとしたが、間近に迫る黄金王の顔を見て、あわてて正面に顔を戻した。


『おまえは太陽神である我の正妃となり、新たな太陽神となる王を産む。月の女神として人々に敬われながらな』


 黒髪の女はからみつく腕を振り払い、体を退けて王の前に向き直った。


『太陽神信仰に月の女神信仰を取り込むおつもりですか。あくまで太陽神を唯一の神として、月の女神をその下に置こうというのですか』


 黒髪の女は怒りに震えた。


『月の女神信仰者を守るためにも悪い話ではない。信仰者を守るのが月の女神としてのおまえの役目だ』


『月の女神として……』


 黒髪の女はしばらく黙り込んだ。

 頭の中にはただ一つ、王の鏡のことがある。

 それがどのようなものかはわからないが、切実にそれを求める女の意識がヒラクに伝わってくる。


『……わかりました。その話、お受けいたします。ですが、こちらにも一つ条件があります』


『なんだ?』


『本物のあなた様の鏡を見せていただけませんか? それ以上は何も望みません』


『……見るだけなら、まあ、いいだろう。来るがよい』


 そして黒髪の女は黄金王の後に続いて玉座の間を出た。


 そこで一度意識の波は途切れる。


             ●                 


 次の瞬間、ヒラクは夜の森を走っていた。何か重く大きな平たいものを胸に抱えている。


『いたぞ、こっちだ!』


 後ろから追っ手が迫っている。


(もう少しで湖にたどりつく!)


 ヒラクの中に言葉として意識が流れ込んできた。


 そして次の瞬間、ヒラクは背中に衝撃を受けた。

 衝撃を受けた部分から背中全体に燃え広がるように熱い感覚が広がっていく。

 それを痛みとして感じたとき、ヒラクはその場にどっと倒れて伏していた。


 ヒラクは、その場に倒れてもなお、体をおおいかぶせるようにして胸の下にある平たいものを必死に守ろうとしている。

 追いついてきた兵士に髪を引きつかまれても、その手を決して離そうとしない。


『黒髪の女だ。まちがいない』


『早くそれを取り上げろ!』


『はなせ、こいつ!』


 あっというまに兵士たちに取り囲まれ、黒髪の女の意識は朦朧となっていく。


 ヒラクが次にはっきりと黒髪の女の意識をとらえたときには、すでにその手に抱えていた平たいものはどこにもなく、ただ悔しさと痛みの入り混じる激しい感情だけが伝わってくるだけだった。


『あと一歩のところで、残念だよ』


 いつのまにか、頭のすぐそばに誰かが立っていた。灰銀の瞳がじっと黒髪の女を見下ろしている。


『マイラ様……』


 安堵したのも束の間、女はハッとした。

 そばにいるのはマイラ一人ではない。

 黒い衣服を身にまとい闇に紛れる女たちのたいまつの炎が周囲を取り囲んでいる。

 黒髪の女は体を起こすこともできぬまま、息も絶え絶えに言う。


『マイラ様、城の兵士たちが……。お逃げください。鏡はもう……』


『城の兵士たちなら私が追い払ったよ。ここは月の女神の聖域だ。女神に仇なす者は裁きを受ける』


『女神……それは……』


『それはおまえだよ』


 マイラはしゃがみこみ、黒髪の女の顔をのぞきこんで、にいっと笑った。


 マイラが立ち上がると、周りにいた女たちが黒髪の女を取り囲み、ヒラクは自分が宙に浮くのを感じた。どうやら女たちが、黒髪の女を仰向けに持ち上げてどこかに運ぼうとしているらしい。


『月の女神は信仰者たちの手でまつり上げなくてはねぇ』


 笑いを含んだマイラの声は、ぞっとするほど冷たかった。

 黒髪の女は混乱している。

 ヒラクにも何が何だかわからなかった。


 黒衣の女たちがくりかえす陰鬱でひっそりとした不思議なメロディの歌が耳につく。

 祈りのような呪文のような歌声が森の闇に吸い込まれていく。

 黒髪の女は、すでに考えることもやめ、ただぼんやりと木々の隙間から漏れさす月の光を眺めている。

 闇に揺らめくたいまつの炎が黄泉路へいざなう鬼火のようについてくる。

 ヒラクは生と死の境目の幽境の世界にいるような気がした。


 黒髪の女の意識が次第に薄れていく。

 そしてヒラクは最後に耳元でマイラの声を聞いた。


『おまえはこれからもずっと月の女神として存在する。肉体は朽ちても存在は消えない。おまえに向けられた信仰が、おまえの姿をかたどって、女神を再生させるのさ』


(いいえ……月の女神は私ではありません……)


 女のかすかな意識がヒラクに流れ込んでくる。


『おまえが月の女神だよ。そして私は本当の私を探し続けるのさ』


 マイラの声が頭の中に広がる。


『また会おう。おまえはこれからもずっと月の女神の存在に縛られていくことだろう。自分自身の影を追い、命の再生を繰り返しながら……』


 やがてヒラクは体全体が冷たい水に浸されていくのを感じた。


『月の女神よ、永遠に!』


 マイラの声に続く女たちの歓声で辺りは騒然としている。

 だが、その目に確かめられたのは、水の中に揺らめく月の淡い影……。


 黒髪の女の意識からルミネスキの青年王の意識へ、そこからさらに聖ブランカと呼ばれる現女王の意識へ、そしてさらにそこから切り離されて、ヒラクは自分の意識の中で、マイラの言葉を思い出していた。


『月の女神を探してごらん』


 その声にまるで揺り起こされたかのように、ヒラクは目を覚ました。


             ○                 


「ここは……」


 そこは女王の寝室の四本の柱に囲まれた天蓋つきベッドの上だった。

 顔を横向けると隣には聖ブランカの顔がある。

 ヒラクは勢いよく体を起こして、自分の顔に手を当てた。


「おれは……誰?」


「意識が体を離れすぎて、自分の姿も忘れたのかい?」


 そう言って、声を掛けてきたのはマイラだ。


 寝室にはベッドで眠る女王と、そばにたたずむマイラしかいない。


「おまえの意識を戻すといって、その体をロイにここまで運ばせた。人は払ってあるよ」


 ヒラクは自分の髪の毛先をつまんでじっと見た。鮮やかな緑の髪だ。


「おれ、自分の体に戻ったんだね。いつから……どうやって……」


「さあね、私はちょっと誘導してやっただけだよ」


「でも、おれは、さっきまでこの人の中にいた」


 ヒラクはかたわらで眠る聖ブランカに目をやった。


「同じ夢を見ていただけかもしれないさ」


 マイラはにいっと笑った。


「まあいいや。それが夢でもなんでもそんなのおれにはどうでもいい。ただ、おれにはもうわかったよ」


 ヒラクは射抜くような目でマイラを見た。


「月の女神の正体はあんただ」


 ヒラクの言葉に動じることもなく、マイラは灰銀の瞳を細め、かすかな笑みを口元に浮かべた。


「……やっと私にたどりついたね」

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