第18話 遠く連なる女王の記憶Ⅰ

 ルミネスキ女王の記憶の中に入ったヒラクは、今と変わらない女王の部屋にいることに気がついた。


 壁際には飾り戸棚があり、絹張りの椅子とテーブルが窓辺に配置されている。


『希求兵たちをあやしまれずに送り込むためとはいえ、海上を自由にしすぎました。ノルドに神帝が現れて20年。神帝国は国として大きくなりすぎた。いまやメーザ全体の脅威です』


 その冷淡で鋭い口調はルミネスキ女王聖ブランカのものだ。

 ヒラクは、自分の口から語られる言葉を聞きながら、今、自分はごく最近の女王の記憶の中にいることを知った。


 女王が視線を向ける先にいるのは老マイラだ。含み笑いで目を細めている。


『もう二十年にもなりますか。かつてメーザを震撼させた神王の生まれ変わりとされる神帝が現れてから』マイラは言った。


『ええ、もう二十年です。一体いつになったら勾玉主は現れるのですか』


 そう言った女王の苛立ちが直接ヒラクに伝わってくる。

 マイラは気にもとめない様子だ。


『まあでもこの二十年、神帝がおとなしくしていてくれるおかげでメーザも安泰。脅威に備えて列強の国々とも仲よく手をつないでいられる。結構なことではありませんか』


 そう言って、マイラは口元のしわをのばしてにいっと笑った。


『本来の目的はそこにありません』


 女王はわずかに声を荒げたが、すぐに声を落として冷ややかな口調で続けた。


『この国は、太陽神と月の女神が結ばれて生まれた国です。真の王はこの二神の産み落とした神でならなければならない。それこそが黄金の玉座に迎えるべき正統な王であり、真の神でもあるのです』


 ヒラクは、冷静さを保ちながらも女王の気持ちが高揚しているのを感じた。


『マイラ様、あなたは私に、偽りの神を打ち払い、真の神を導く者こそが勾玉主だとおっしゃいました』


『ああ、言ったよ』


『太陽神とされた黄金王が勾玉主だったという事実は、勾玉主と月の女神が結びつき、新しい太陽神が生まれるということを意味していたのではないのですか』


『はて? そんなことを言ったかい?』


 マイラはとぼけた口調で言った。


『いいえ、あなたがそれを言ったかどうかはもはや問題ではないのです。私はそのことをすでに昔から知っていたのですから』


 そして女王は過去の出来事を回想した。

 すると、ヒラクの意識は女王の思い出の中にまでとけこんだ。


             ●


 黒髪の少女が金の装飾に縁取られた大きな鏡の前に座り、誰かに背後から髪をくしでとかしてもらっている。

 ヒラクは黒髪の少女の中にいた。

 やさしげな手で髪をすく女性の声が耳元に下りてくる。


『星の輝く夜空のように光を帯びて美しく輝いている。絹のようになめらかな手触り……わたくしよりもずっときれいな髪ね。この髪は月の女神様からのさずかりものです。大事になさい』


『月の女神様は私と同じ髪の色をしていたのですか? 母上』


『ええ、あなたにはまだその姿を見せたことはありませんでしたね』


 目の前の鏡台に銀のくしが置かれると、髪をすいていた手はやさしく少女の小さな手をひいた。


『いらっしゃい』


『どちらへ行かれるのです? 母上』


『宝物庫ですよ』


 ヒラクの意識が入り込んでいる黒髪の少女は、母親に連れられて、城の中の宝物庫に向かった。


 侍女たちに運び出された絵を目にしたとき、黒髪の少女とはまたちがう驚きがヒラクの中にあった。


(月の女神!)


 その絵には、森の中にたたずむ女の姿が描かれている。

 辺りの闇に溶け込む黒衣を着た女の漆黒の髪が月の光で輝いている。

 ロイに案内された書庫のような部屋に飾られていた月の女神の絵と同じ、そしてロイの遠い記憶の中で、青年王がシャロンに見せた絵と同じものだ。


『母上、この女の方はどなたですか?』


『月の女神のお姿が描かれたものといわれています』


 優美なドレス姿の女性は微笑んで言った。

 その女性も少女と同じ黒髪だ。

 その面差しはどこか現在のルミネスキ女王に似ているが、やさしげな表情はずいぶんとちがった印象を与える。


『この地は月の女神様が守ってきた場所なのです。そして太陽神と結ばれてルミネスキという国ができたのですよ。あなたは月の女神の娘。太陽神とともに輝き、この国を見守っていってちょうだいね』


『はい、母上』


 そして場面は暗転する。


             ●


 すさまじい感情の高ぶりに、ヒラクは一瞬我を忘れ、何が起こったのかまったくわからなくなった。


『いやーっ、母上! 母上ーっ!』


 甲高い悲鳴がヒラクの頭の中で反響する。その手には毛髪の束が握られている。涙に濡れた目でみつめるその髪の色は少女と同じ黒髪だ。

 そばに控える侍女たちのすすり泣きが聞こえる。


『頭部は神王のもとへ……このわずかばかりの御遺髪を残すのが精一杯で……』


『仮にも一国の王妃様が……おいたわしい……』


 ヒラクが入り込んだ黒髪の少女は憎しみに燃える目で母の遺髪を握りしめ、全身を怒りで震わせた。


『……許さない。私は父上を許さない!』


 そしてまた場面は変わる。


             ●


『……母上が処刑され、一夜にして私の黒髪は、白髪になったのだ』


 ヒラクは黒髪の少女の姿から白髪のルミネスキ女王の姿になっていた。

 かたわらで女王の言葉に耳を傾けているのは、白いローブ姿で杖をついているロイだ。さらりとした金髪は肩につく程度の長さで、ヒラクが知るロイよりは少し若く感じられる。


 マイラの姿はない。

 場所も女王の部屋から書庫となっている部屋に変わり、ヒラクは女王の目を通して、壁にかかる黒髪の月の女神の絵を眺めていた。


『思えば私はあのときすでに月の女神に代わる存在ではなくなっていたのだろう。十五でこの国の女王となり30年。月の女神の代理として太陽神の証を持つ勾玉主の子を宿すことで、ルミネスキの真の王を生み出すことができると思っていたが、どうやら思い違いだったようだな』


 口ではそうはいうものの、まだあきらめきれないでいる女王の気持ちをヒラクは感じ取っていた。


『私が兵士として少しでも役立つことができたなら、神帝国に勾玉主を探しにいけましたものを……』


 ロイは申し訳なさそうに言った。


『何を言っている。待つだけの日々に唯一私の気を紛らわせてくれるのはそなただ、ロイ。そばにいると気が安らぐ。私にとっては数少ない心許せる存在だ』


『陛下……そのような……もったいなきお言葉……』


 戸惑い、恐縮しながらも、ロイはどこかうれしそうだった。

 ロイは熱を帯びた潤んだ瞳を伏せながら言う。


『私の命は陛下に救われたのです。勾玉主のための戦士にもなれなかった私を神官としてお引き立ていただいたご恩は一生忘れません。生涯お仕えいたします』


『そなたは神官なのだから、私ではなく神に仕えよ。表向きは太陽神信仰を強化しながらも、月の女神信仰も怠ることのないように。そしていずれ黄金の玉座に迎える真の神にこそ心より仕えよ』


『仰せのままに』


 女王の目線は深々と頭を下げるロイから月の女神の絵に移った。

 ヒラクは女王の目を通して絵を眺めていた。


 しばしの沈黙の後、女王は再びロイを見て親しげに語りかける。


『不思議だな。そなたとは以前もこうしてこの絵を眺めていたことがあるように思える』


『……私もです、陛下』


 ロイは小さくつぶやくと、瞳を潤ませて女王を見た。

 女王の中に、なつかしさにも似た感情がわいてくる。その感情の波にのまれるように、ヒラクはさらに深い記憶にもぐっていく。


             ●


 場面は城の中の別な一室に変わる。


 ヒラクはその部屋に見覚えがあった。

 壁や柱を縁取る黄金の浮き彫り、細かな装飾を施した調度類、刺しゅうの入った絹地をあてた椅子が目に飛び込んでくる。


 ヒラクがこの部屋を見たのは、シャロンの目を通してだった。

 ここはその当時のルミネスキの青年王の部屋だ。

 だが、今ヒラクの目の前にいるのは、王ではなく、色の薄いブロンドの長い髪をもつ、儚げな女性だった。


『どうだ、シャロン。この十年でやっと余の気に入る絵が完成したぞ。これこそ夢の中の女神の姿そのものだ』


 ヒラクは、かたわらにある画架の絵にかぶせられていた布をはぎとって言った。


『陛下、このような絵が人目については……』


 女性は不安げな表情で声をひそめて言う。


 どこかで聞いたやりとりだと思い、ヒラクは自分の口から出る言葉に注意深く耳を傾ける。


『案ずることはない。これが女神の姿であると知るのはそなたと余のみ』


 ヒラクは、自分が今、青年王の記憶の中にいることに気づいた。目の前にいる女性はシャロンにちがいない。


(シャロンはロイの前世なんだよな……。じゃあ、この王は……)


『陛下、失礼します』


 入り口の扉の向こうから声がした。


 シャロンはすばやく絵に布をかぶせた。


 扉が開き、年老いた侍従が姿を現した。


『例の者が参りました』


『うむ、通せ』


 青年王が言うと、シャロンはそばを離れた。


『では、わたくしはこれで……』


 シャロンと入れ違いに入ってきたのはマイラだった。

 扉が閉まるなりマイラは言った。


『天に異変の兆しあり……』


『……父上のご容態と何か関係があるのか?』


 王はマイラに尋ねた。

 ヒラクは王の不安と緊張を感じ取っている。


『うわさでは、黄金王はエルオーロの神殿に自らの像を神像として安置するおつもりだとか』


『神像を? なんのために?』


『ご自身の死期を悟ってのことなのでしょう。太陽神としての御威光を残したいのでしょうな』


『父上が……死を覚悟されて……』


 そのまま王は黙り込む。

 ヒラクは王の動揺を感じながら、今、話題にしている神像のことを考えていた。


(エルオーロの神殿で見たやつのことだ。今ならあの神像の勾玉の正体がわかるかな……)


 けれども王の記憶の中にいる以上、自らの意志でそれを口にして確かめることはできない。


『太陽神とされる父上が死を迎えるなど……光を失ったこの世界はどうなってしまうのだ』


 王は苦悩をあらわにする。


『新たな太陽神が求められるでしょうな』


『どういうことだ?』


 王は不可解そうにマイラを見た。


『太陽神のいない地上に月の女神も留まりますまい』


『月の女神が地上から……いや、この国から去るというのか』


 王は思わず布をかぶせた画架の絵に目をやった。

 その視線をとらえてマイラは言う。


『そこに何が?』


 王はかぶせた布をとり、黒髪の女を描いた月の女神の絵をさらした。


『ほう……』


 マイラはおもしろいものでも見るように目を見開いて凝視する。


『とうとう月の女神のお姿をその目にとらえることができましたか』


『ああ、先月の満月の夜だ。いつものように、余の夢の中を訪れる月の女神は声と気配しか感じさせなかった。だが、余は暗闇に射しこむかすかな光をみつけた。それは月の光の道筋のようにも見えた。歩み寄ってみるとその光の中に突然月の女神が姿を現したのだ』


『それがその黒髪の女の姿だったというわけですか』


 マイラは口元に笑みをたたえながら、灰銀の瞳の奥を光らせる。


『女神はあなた様に助けを求めるために、とうとうそのお姿をお見せになったのでしょうな』


『余に助けを?』


『太陽神の輝きをあなた様にお求めになられているのでしょう。闇が世界を包む前に……』


『余にそのような資格は……』


『資格? 勾玉のことをおっしゃっているのですか? あれこそ太陽神の証だと、誰もが皆そう思っている。だがしかしそれならば、すでに勾玉を失った黄金王は太陽神ではないということになる』


『黄金王が勾玉を失っただと?』


 ルミネスキ王は信じられないといった顔をする。

 マイラはルミネスキ王に近づいて、不思議な銀灰色の瞳でじっと王をみつめた。


『黄金王はいつからか、勾玉に代わるものを太陽神の証としていました。自らの光をなくした王は、その「代わるもの」により、偽りの輝きを保持していたのです』


『それは一体何なのだ?』


 ルミネスキ王はおそろしいことを聞かされたというように声を震わせたが、ヒラクは好奇心でいっぱいだった。


『御自分で手に入れて確かめてごらんなさい。神像とともにエルオーロの神殿に安置されることになっているようです。私が確かめられたのはここまで。おそらく月の女神は、もはや太陽神としての輝きを失った黄金王のことは見限られたのでしょう。新しい太陽神が求められているのですよ』


『……しかし、太陽神信仰を強化するために、月の女神の信仰者たちの多くを殺めて、この国の王となった余に、月の女神が助けなど求めるとは思えない』


『その虐殺を命じたのは黄金王です。忘れてはなりませぬ。月の女神の信仰者たちを殺し、月の女神の存在さえ脅かしたのは、黄金王なのです』


『黄金王が、すべてを奪った……』


 そうつぶやいたのは、ルミネスキ王ではないとヒラクは思った。

 もう一つの意識が深いところからよみがえりつつある。

 ルミネスキ王の表層の意識がその深い意識に包まれていく……。


『黄金王はもうその役目を終えられようとしている。安らかな眠りに導くための薬をお望みなら、いつでも私がご用意しますよ』


 そう言って、マイラはにいっと笑った。


 ルミネスキ王の中に殺意が芽生え、それは意識を侵食するように広がっていく。


(これは誰だ? 誰の意識なんだ?)


 やがてヒラク自身、その深い意識にとりこまれていった。


            

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