第17話 黒髪の女の正体
ロイの体に入ったヒラクは、肖像画の廊下を引き返し、女王の部屋に戻ったが、そこには誰もいなかった。
「一体どこに行ったんだろう」
ヒラクは、窓から外に目をやると、振り返ってあらためて部屋の中を見た。
そして、あることに気がついた。
「さっきと同じだ……」
それは、さきほどロイの記憶の中で、シャロンという女性の目を通して見た部屋の感じによく似ていた。
大きな格子窓からは湖が見渡せる。
ヒラクはさらに確かめるように部屋の奥につづく寝室をのぞいてみた。
四柱の天蓋ベッドの位置も暖炉の位置も同じで、金の装飾で縁取られた大きな鏡台もある。
「まちがいない。シャロンって人はこの部屋にいたんだ」
そのときヒラクは、寝室で自ら命を絶とうとしたシャロンが思いとどまって向かった場所のことを思い出した。
「月の女神はきっとあそこだ」
ヒラクは城館の一隅にある円塔の地下に向かった。
そこにはヒラクが思ったとおり、小さな礼拝堂があった。
石の台の上の祭壇には大理石の月の女神像が安置されている。
その前でルミネスキ女王は静かに手を合わせていた。
女王はヒラクの気配に気づくことはなく、小声でぶつぶつと何か言っている。
代わりに振り返ったのは、女王の足元の影のように控えていた老婆だ。
「よくここがわかったねぇ。前世の記憶がよみがえったのかい?」
マイラは突然の侵入者に驚くこともなく悠然としている。
ロイの体の中に入ったヒラクはその態度に腹を立て、上から覆いかぶさるように老婆につかみかかった。
「一体どういうつもりだ! 月の女神を探せとおれには言っておいて、女王には自分が会わせてやってるんじゃないか」
マイラは驚いて目を見開いた。
「おまえ……ヒラクかい?」
そのとき、マイラの隣にいる女王が急に呼吸を荒げ、うめき声をあげた。
「大丈夫。落ち着いて。続けてごらん」
マイラは女王の肩に手を置いた。
「楽にして。呼吸を深く。何が見える? 何が聞こえる?」
「月の……女神……」
「そうかい。じゃあ、尋ねてごらん。おまえが知りたいのはなんだい?」
マイラが二、三度肩を叩くと、再び女王は呼吸を静めてぶつぶつと一人で何か言い始めた。
「どういうこと? 月の女神って何?」
ヒラクはマイラに尋ねた。
マイラはあきれたようにため息をついた。
「どういうことかだって? それはこっちが聞きたいね。てっきりもう自分の体に戻ったと思っていたのに、また別の体に入り込んでどういうつもりだい?」
「これは……その、なりゆきっていうか……」
ヒラクは決まり悪そうに言った。
「どういうなりゆきでそうなったかは別にどうでもいいがね、私が言ったことを忘れるんじゃないよ。あまり長いこと自分の体を離れていると二度と戻れなくなるよ」
「わかってるよ。でも、その前に今ここで教えてよ。月の女神って一体何? 本当は何もかも知ってるんでしょう? なんでおれに探せなんて言ったりしたんだ」
「月の女神が何かって一番知りたいのはこの私だよ。それが誰かってことじゃない。何かってのが知りたいのさ」
「……全然意味わかんない」
ヒラクはあっさり聞き流すと、マイラから女王に目を移した。
「もういいや。はぐらかすなら、こっちに聞く」
ヒラクは今度は隣にいる女王の肩をつかんだ。
女王は人形のようにゆらりと体をぐらつかせた。半分閉じられた目はうつろでぼんやりとしている。
「おやめ。今、急に中断したら、記憶が混乱してしまう」
マイラはヒラクを女王から引き離した。
「女王に何したの? おかしくなってるじゃないか」
ヒラクはマイラに言った。
「おかしくもなんともなってないよ。女王は月の女神に会っているんだ」
「月の女神?」
ヒラクは思わず辺りを見回した。
「誰もいないよ。どこにいるの?」
「ここさ」
マイラは女王の額にそっと触れた。
「月の女神と呼ばれた黒髪の女は女王の前世の姿さ。女王は過去の自分の記憶と対話しているのさ」
「何それ?」
「おまえがやっていることと似たようなことさ。ただし意識をとけこませているのは過去の自分。同じ波長のものはつながりやすいからねぇ」
「なんかさっぱりわからないけど、ようするに女王は自分自身を月の女神として崇めてるってこと?」
「女王はそれが自分自身だなんて思っちゃいないよ。だからこそ月の女神の存在が一人歩きしているのさ」
「ばかばかしい。結局、全部でっちあげってことじゃないか」
ヒラクは吐き捨てるように言った。
マイラはそんなヒラクに諭すように言う。
「何層もの転生の上に今の自分があるんだ。多かれ少なかれ、誰もが前世の自分の影響を受けているんだよ」
「だからって、前世に振り回されていたら、今の自分で生きる意味なんてないじゃないか」
ヒラクは女王に視線を移した。
「しっかりしなよ。月の女神なんていないんだ、黒髪の女は前世のあなた自身なんだ」
ヒラクはマイラが止めるのもきかずに女王の体をゆさぶった。
女王は苦悶の表情でうめき声をあげる。
そのとき、ヒラクの頭の中でロイの叫び声がした。
(やめてください!)
ヒラクは吐き気を覚えた。
吐き出されようとしているのは自分自身だ。
ロイの意識が次第にはっきりしてくるのと同時に、ヒラクはロイの体の感覚を失っていく自分を感じた。
折り重なるロイの記憶からヒラクの意識がはじきだされようとしている。
その記憶の断片の一つはシャロンのものだ。
ヒラクの意識がシャロンの記憶をとらえた途端、ロイの意識が乱れた。
「ううっ」
ロイの指先は宙をさまよい、女王の前に伸ばされた。
そしてその目は女王を通して誰か別の人間を見ている。
「ずっと……お会い……したかった……」
ロイの頬を涙がつたう。
ロイは女王を抱きしめた。
そのことにロイは混乱している。
ヒラクにも何がなんだかわからなかったが、ロイの意識が戻る前に何とかするには今しかないと思った。
ヒラクは自分の意識の行き場を求めるように、女王の額に自分の額を押しつけた。
(うまく逃げ込めますように)
ヒラクは祈るような思いで、自分の意識を女王の記憶に沈めていった。
そしてさらにヒラクは月の女神の正体に迫ることになる。
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