第13話 オーデル公の記憶

 過去のオーデル公と一体化したヒラクはルミネスキ城の奥の居館を歩いていた。

 大広間を抜け、螺旋階段を上り、廊下を歩くオーデル公は、もつれそうな勇み足で何度も前につんのめりながら、苛立ちをつのらせている。


(何をそんなにいらついて、どこに行こうっていうんだ?)


 オーデル公の感情は、そのままヒラクに流れ込んでくるが、その理由まではわからない。


 オーデル公は侍女たちの控える部屋を抜け、絵画や木彫り彫刻の壁に囲まれた部屋をさらに抜けると、立ち止まり大声をあげた。


『一体どういうことだ!』


 そこには窓辺にたたずみ外を眺める女王の姿があった。

 大きな格子の窓から日の差し込む部屋の中には、絹張りのイスと細かな装飾がほどこされたテーブルが置かれ、壁際には飾り戸棚がある。

 女王は今よりも若い姿だが、ヒラクが見た過去の地下牢で父王と面していた少女の頃より大人になっている。


 女王は落ち着き払った様子で表情も変えずにオーデル公を見た。


『何のことでしょう?』


『何のことだと? 余が何も知らぬとでも思っているのか。余に何の断りもなく、ネコナータの難民たちを引き取ってどういうつもりだ』


『身寄りのない子どもたちです。慈善も王族の務め。王族出のあなたが反対されるとは思っておりませんでしたが、何かお気に触ることでも?』


 軽くあしらうような言い方にオーデル公は激怒した。


『何が慈善だ。聞けばほとんど少年たちばかりというではないか。世継ぎに恵まれぬ女王の慰めか? 余はとんだ笑いものだ。この国の飾り物の王となって五年。どこまで余をこけにすれば気がすむのだ』


 記憶の中に入り込んだヒラクには、オーデル公として自らの口から出る言語はしっかりと理解できるものの、何のことを言っているのか、なぜそこまで怒っているのかはさっぱりわからない。それは女王も同様で、不思議そうにオーデル公を見ている。そしてまるで独り言のように誰かに話しかけた。


『マイラ様、なぜ彼はこのように苛立ち、気を高ぶらせているのでしょう。何不自由のない城での暮らしを望んでいたのではないのでしょうか』


 一瞬、ヒラクは、女王がオーデル公の中にいる自分に向けて言ったかのように感じた。だが、女王の言葉に返答する者は別にいた。


『この者は、自分が望むものが何かわかっていないのでしょうな』


 ヒラクは驚いて声の主を見た。

 いつからそこにいたのか、女王のかたわらには幼児のような身長の小さな老婆が全身を覆う黒布に埋もれるようにして立っていた。その目がじっとヒラクを見る。

 正確にはヒラクが入り込んでいるオーデル公を見ているのだが、それでもその灰色に濁った銀の目は、ヒラク自身をみつめているように見えた。

 そしてそれを確信させるような言葉を老婆はゆっくりと言った。



「おまえはなぜこんなところにいるんだい?」



             ●

                


 次の瞬間、ヒラクは別な過去にいた。


 ヒラクは手に持つランプで薄暗い地下牢の鉄格子の中を照らしていた。

 牢の中にはずぶぬれの少年がいる。

 その少年にヒラクは見覚えがあった。


『今夜はずいぶんと冷える。放っておいても朝には凍え死んでいることだろう。一年前にはなかった命だ。惜しむこともあるまい』


 ヒラクはオーデル公の口から出る言葉を自ら話しながら聞いていた。勝手が許されるならば、少年を名で呼び確かめてみたかった。


(ロイ!)


 床にはいつくばる少年は震えながら、水色の瞳で悲しげにオーデル公を見上げている。


『何だその目は……』


 オーデル公は一度閉めかけた牢を開け、ランプを足元に置くと、少年の濡れた髪を乱暴につかんで中から引きずり出そうとした。

 ヒラクはオーデル公の中で煮えたぎる強い憎悪に息がつまる思いだ。


『そこで何をしているのです』


 オーデル公が振り返るのと同時にヒラクは目で女王の姿をとらえた。

 先ほどの過去よりもさらに年を重ねている。

 そして隣にはやはり小さな老婆がいて、黒布をまとった姿で手にランプを持って立っていた。しわを多く刻んだ顔、大きくとがった鼻、おちくぼんだ目の濁った銀の色、これらの老婆の特徴は何ら変わらず、年齢の変化も見られない。


『恥を知れ」


 女王はつかつかと歩み寄り、オーデル公の目も見ず、すれちがいざまはき捨てるようにそう言うと、震えるロイを優しく抱き起こした。


『恥を知れだと? その言葉、そっくりそなたにお返ししよう』


 オーデル公はわなわなと震えながら言った。

 ヒラクはオーデル公の心臓の拍動がしびれるように指先まで伝わるのを感じた。


『何の気まぐれか月の女神の生贄となる少年の一人を手元に置くとは……』


『何のことでしょう』


 女王は平然としているが、オーデル公はなおも食い下がる。


『余はすべて知っているのだ。太陽神の妃とされる月の女神は悪しき神だ。満月の夜、魔女たちは森に集い、女神へ生贄を捧げるのだ。そなたもまた魔女の一人だ。そなたが十五年前からネコナータの難民の子どもたちを集め始めたのも、女神へ捧げる生贄を準備していただけにすぎないのだ』


 そう言って、オーデル公はひきつけを起こしたかのように笑った。その笑い声がむなしく頭に響くのをヒラクは聞いていた。


『何か悪い夢でもごらんになりましたか』


 女王は冷めた瞳でオーデル公をみつめながら口元に笑みを浮かべた。

 オーデル公は我を忘れるほどに取り乱して怒鳴りつける。


『黙れ、この魔女め。その少年を今ここで食らってみせろ。今すぐここで殺せ! 余の前で殺してみよ!』


 オーデル公の言っていることは支離滅裂で、一体化しているヒラクにもその乱れた感情は理解できない。おそらく本人も自分が何に対して敵意を向けるのか、憎しみを感じるのかまるでわかっていないのだろう。


『記憶が錯綜しているようですな』


 それまでじっとおとなしくたたずんでいた老婆が言った。


 老婆は濁った銀の目でじっとオーデル公をみつめながら、一歩一歩近づいてくる。

 オーデル公の中にいるヒラクは身の毛がよだつ思いがした。それはオーデル公が感じているものか、自分自身の思いなのかはわからない。ただ、老婆の瞳を見ていると気が遠くなるような思いがして、そこに吸い込まれそうになる。そんな吸引力をもつ不思議な瞳をヒラクは以前にもどこかで見たような気がした。

 老婆はオーデル公の瞳をのぞき見るようにして言う。


「私に覚えはあるかい?」



             ●   

             


 気がつくと、ヒラクは深い夜の森にいた。


 目の前には月をたたえた鏡のような湖が広がっている。満月の道筋が湖面に伸びる。


(あの絵と同じ……)


 満月の夜の湖は、玉座の間の一連の壁画を思い出させた。その壁の絵を見せながらロイがルミネスキの建国物語を語ったのだ。


(まさか、その実際の場所にいるってわけじゃないよな)


 ヒラクは辺りを見回して確かめたかったが、他人の過去の記憶の中では体の自由はまるできかない。

 ヒラクはオーデル公が過去にこの場所で何をしていたのかを早く知りたかった。


 しばらくすると、森の中から頭から黒い布をかぶった数人の人影がばらばらと出てきた。


『薬草はもう十分集まった?』


 そう言ったあと、ヒラクは自分の口から出た声に驚いた。それは明らかにオーデル公のものではない。


『もう帰りましょうよ。気味が悪いわ、この森』


 まちがいなく、それは若い女の声だった。


『待ちなさい』


 闇を払う凛とした声が響いた。

 人影の中から前に進み出る者がいる。

 ヒラクの前に近づくその声の主の顔が月の明るみにさらされた。

 その顔を見て、ヒラクは息を呑んだ。

 黒布の頭巾の前からはみ出た豊かな長い黒髪、少し広い額、弧を描く眉、鋭い瞳。その姿はまちがいなく、ヒラクが何度も目にした黒髪の女、そして月の女神と名乗った存在そのものだった。


『月の女神への感謝の儀がまだよ。満月の恵みを受けた薬草を森から勝手に持ち去るわけにはいかないわ』


 黒髪の女の言葉に、ヒラクが中に入っている人物は不機嫌になって言い返す。


『何が月の女神よ。月の女神は太陽神である黄金王に消滅させられてもういないわ。いないものに対して何の儀式が必要だっていうのよ。それとも古の儀式になぞらって、生贄でも捧げて女神様の復活を祈ってみる?』


 ヒラクは自分の口から出る言葉を聞きながら、自分が入り込んでいるのはオーデル公ではないと確信した。


(誰なんだ、この女……)


 ヒラクはすぐにも月明かりの水面に映した自分の姿を確かめてみたかった。だが、ヒラクが入り込んだ人物は、黒髪の女をじっと見て、その反応を待っている。


『月の女神は消えてなどいない。今は姿をお隠しになっているだけよ』


 黒髪の女は静かに言った。

 それを聞いてヒラクが一体化している女は笑う。


『同じことじゃないの。いないものはいないってことよ。こんなことは無意味だわ。ここはもう太陽神である黄金王の国なのよ』


 その言葉を言い終える前にヒラクは自分の頬が熱くなるのを感じて後ろによろめいた。黒髪の女がヒラクが入り込んでいる人物を平手で打ったらしい。


『よくもそんなことが言えたわね。太陽神信仰を強要された月の女神信仰者たちの成れの果てをあなたも知っているでしょう? 姉妹たちの死にあなたは胸が痛まないの?』


『むしろ愚かな人たちだって思うわ』


 ヒラクはまた頬を打たれるのではないかとはらはらした。だが、ヒラクが入り込んでいる女はなおも言葉を続ける。


『太陽神は自分の妃神としての月の女神の信仰は許してくださっているじゃない。だからこそ、姉妹たちに自分の妻となることを薦めた。それを拒んで勝手に死んだ人たちに同情なんてしないわ』


『あなたって人は……』


 黒髪の女は低く声を震わせる。辺りの空気が張りつめる。黒い影のような人々は息をつめ、遠巻きに二人の様子を見守っている。


『大体、あんたも気に入らないのよ』


 まさか自分の側から怒りの矛先を向けるとは思っていなかったヒラクは驚いた。

 それは黒髪の女も同様のようだ。


『私が……? なぜ?』


『すでに黄金王の妃となった月の女神信仰者たちに薬草や香草を届けてやってるっていうけど、ずるいわよ』


『ずるい? 私はただ太陽神に身を売り、月の女神に背信したことを嘆く哀れな信仰者たちに女神の恩恵を与えることでその信仰を保たせてあげたいだけよ』


『あんたは何? 月の女神の使者? それとも月の女神の化身とでもいう気? あたしは知ってるのよ。黄金王はあんた自身を月の女神としてお望みだって。あんたこそ太陽神の妃神たる月の女神にふさわしいと言っているって』


 ヒラクは自分が入り込んでいる女の中からわきあがってくるどす黒い感情をなんというのかわからなかった。嫉妬という言葉の意味さえヒラクにはわからない。

 黒髪の女は相手の感情を十分理解した上で言い返す。


『城に行けば黄金王に謁見せざるを得ない。あの黄金の玉座の前でひざをつき、頭を下げる屈辱があなたにわかるというの?』


『わからないわよ。私は城に入ることさえないもの。どうして王は私を望んでは下さらなかったのかしら。こんな暗闇の中で生きるのはもううんざり。日の当たるあの場所で、何不自由なく贅沢に暮らしてみたいわ』


『……それがおまえの望みかい?』


 しわがれた声がして、ヒラクは自分が入っている女同様ぎょっとした。

 人垣の影の中から進み出て歩み寄ってくる小さな黒いかたまりがある。黒い頭巾の隙間から、その人物は顔をのぞかせる。それは、過去のオーデル公の記憶の中で常にルミネスキ女王のそばにいた老婆だ。その濁った銀の瞳がヒラクをとらえて離さない。


『おまえはおまえの望む人生を送るだろうよ』


 その言葉にぞっとしたのはヒラクだけではなかったのだろう。ヒラクが一体化した女にも老婆に恐怖し、身をひるがえして、逃げるようにその場を去った。


『私はこの暗い夜の森から抜け出したいだけよ。華やかな城の暮らしにあこがれるのがそんなに悪いこと? 望む人生が送れるならとっくに送ってるわよ』


 ヒラクは、女が不満をこぼすのを聞きながら、老婆のことを考えていた。

 なぜ老婆がここにいるのかヒラクにはさっぱりわからなかった。

 オーデル公の記憶にもぐりこんだはずのヒラクは、今はまったく別人である女の中にいる。しかもここは黄金王がまだ生きている時代らしい。それがどれぐらい前のことかヒラクにはよくわからなかったが、それにしても老婆がまったく変わらない姿で存在しているのが奇妙に思えてならない。


 ふいにヒラクは後方の気配に気づいた。振り返ってみたかったが、ヒラクが中に入っている女はまったくそれに気づくことなく怒りにまかせた早足で前に進んでいく。


 気配は背後に迫っている。

 そして耳元で声がした。


「こんなところに迷いこんだおまえは一体何者だい?」


 振り返るヒラクの目は吸い込まれそうな銀の瞳をとらえていた。

 いつ老婆に追いつかれたのか、いや、そもそも老婆はどうしてここにいるのか。


「おまえこそ一体何者なんだ!」


 ヒラクは自分が言った言葉に驚いた。それは紛れもなく自分の意志を持って発せられた言葉だ。

 それと同時に、自分がすでに女の体から抜け出していることにも気がついた。

 それまで自分が入っていたらしい黒布をまとった女の後ろ姿が遠ざかっていく。

 ヒラクは女の姿を見送りながら、今の自分が何者であるのかを確かめるように足元から体を見た。


(体が……ない!)


 あるのは自分という意識だけだ。

 そして老婆もそれは同様で、黒布をまとった体は闇の中に溶け込み、銀色に鈍く光る目だけがそこに存在している。


「私が一体何なのかって? それを一番知りたいのはこの私さ」


 老婆の声は直接ヒラクの意識に届いた。


「こちらにおいで」


 その言葉は強い吸引力を持っていた。


 ヒラクは自分が自分であることを必死に失うまいとした。


 そしてヒラクは思いもよらない場所で目を覚ました。

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