第27話 生徒と教師
「失礼します」
明寿が教科準備室に入るのは初めてだった。教科を受け持つ教師にはそれぞれ教科準備室という教室が与えられていた。そこには教師が授業に使う教材を置いていたり、補習や面談で利用したりと用途はいろいろあった。
荒島が利用する教科準備室は一年生の教室の近くにあり、視聴覚室からまたわざわざ教室近くまで戻ってきた。扉には「使用中」と書かれたプレートがぶら下げられていて、まだ生徒が先生と補習を行っているらしい。
(いや、補習という名の……)
部長や甲斐に言われた言葉が頭に浮かんで、嫌な想像をしてしまった明寿は慌ててその妄想を打ち消す。そんな、危険な行動をする先生なわけがない。きっと、生徒思いの先生で、他人に誤解されているだけだ。
使用中というプレートを無視して、明寿は扉をノックする。もし、本当にただの補習ならば、扉を開けてくれるはずだ。ノックと同時に声もかけると、中から大きなガタガタっという音が聞こえた。数秒後、扉が開いて出て来たのは荒島先生と女子生徒だった。
「ごめんね、新しい学校だと勝手がわからなくて、つい一人一人に対する時間が延びちゃって。あら、君は一組の白石君、だよね?」
荒島は明寿に気づくと、一瞬目を見張ったがすぐに明るい笑顔になった。明寿のことを覚えてくれているようだ。まだ一度しか授業を受けていないのに、名前を覚えられている。とはいえ、覚えられたのはきっと、明寿の授業中の不審な行動のせいだろう。
「先生、ご指導ありがとうございました。加藤先生より、教え方が上手で英語が好きになりそうです」
「それは良かった、また分からないところがあったら、いつでも聞きに来ていいからね」
女子生徒は荒島にお礼を言って、その場を後にする。その場には明寿と荒島が残された。
校庭からは野球部の練習の掛け声が、校内からは吹奏楽部の演奏の楽器の音が聞こえていた。
「荒島先生は」
「白石君も勉強のことで分からないことがあったのでしょう?中に入ってちょうだい。廊下じゃ教えにくいから」
「は、はい」
明寿の言葉に荒島が言葉をかぶせて、準備室に入るよう促される。明寿もそれに賛成で素直に教室に入った。
「それで、白石君はどこが分からなかったのかな?今日は初回の授業でそこまで難しいことを教えたつもりはないんだけどな」
準備室ということもあり、中にはポスターやラジカセ、ホワイトボードなどの雑貨や段ボールの箱が教室の奥に積まれている。手前に机が二つ並べられていて、向かい合わせに椅子が置かれていた。荒島は奥の椅子に腰かけたので、明寿は手前の椅子を借りることにした。
「エエト……」
「白石君は私の噂をどこまで聞いたのかな?」
分からないところは事前に用意していた。カバンから教科書とノートを取り出していると、今度は低い声で別の質問を投げかけられる。本人は自らの噂をどれくらい把握しているのか。
「どんな噂なのか知りませんが、それは先生にとって悪い噂ですか?だとしたら、その噂をする人はバカですね。まだ一度しか授業を受けて居ませんが、先生に悪い噂は似合いません」
「そ、それならそれで、いいんだよ。さっきの子は私の黒い噂を真実か確かめるために、勉強を装って近づいてきたんだ」
先ほどの準備室から出て来た生徒のことを振り返る。明寿に気づいていたはずなのに、あからさまに無視をされてしまった。見たことのない生徒だったので、明寿のクラスの生徒ではないはずだ。女子生徒は頬を赤く染めて、まるで恋人との逢瀬を楽しんだかのような幸せそうな笑顔だったことが気になった。
「先生はどうして、赴任してたった一日で変な噂が広まったと思いますか?」
荒島の素性を聞くのはもう少し、彼女と親しくなってからした方がよさそうだ。いくら明寿が噂のことを気にしないと言っても、荒島は明寿のことを警戒している。だったら、ここはひとつ、噂を聞きに来た生徒を装い、しっかりと噂は嘘だと納得したと思わせて、徐々に仲を深めていった方がよい。
(簡単な話だ。この学校で私より年上の人間はいない。年下を相手にするのなんてお手の物だ)
「さっきと言っていることが違うじゃない!勉強が分からないって言ってなかった?」
「まさか、それをうのみにしているんですか?普通の高校生はよほどのことがない限り、放課後の貴重な時間を使って、先生の元に指導を仰ぎになんて行きませんよ。それ相応の目的がなければ」
「そ、そんなことないわ!前の学校では私に教えを請いに来た生徒はたくさん、いたもの」
明寿が少し詰めよれば、なぜか荒島は顔を真っ赤にしてうろたえ始めた。これではどちらが年上なのか分からない。実年齢的には明寿の方が上に決まっているが、見た目で言うのなら、荒島の方が上だ。荒島の態度に先生という威厳はまったくない。ただ生徒になめられている哀れな教師にしか見えない。しかし。
(火のない所に煙は立たぬ)
噂の出所は今のところ不明だが、何かしらの根拠があるから広まったのだ。もしかしたら、生徒を吟味しているのかもしれない。そう思いたくはないが、可能性はある。明寿と同様に、相手の様子をうかがっている最中なのかもしれない。だとしたら、かなりの演技派ということになるが。
「からかってすいません。授業中の先生の態度と違うから、ついからかってみたくなりました」
とりあえず、今回は真面目に勉強を教えてもらうことにしよう。今のところ、黒い噂はただのでたらめだとしか思えない。荒島は明寿の言葉にほっとしたような安堵の表情を浮かべる。
「先生をからかわないでください!ただでさえ、白石君に——に似ているから、変な気持ちになるのに」
「エエト……」
「今のは気にしないで」
荒島は重要なことを口にした。誰に似ているのだろうか。明寿の親戚の誰かを明寿に重ねているのかもしれない。だとしたら、こちらとしても好都合だ。
「まずはここの文法について教えてください。休み時間に宿題をやろうとしたら、分からなくなってしまって」
「それなら、こういう風に考えてくれればいいわ。例えば……」
明寿はその後、まじめに荒島から勉強を教えてもらうことになった。それは誰が見ても、和やかな雰囲気で勉強を教える教師と生徒にしか見えない光景だった。
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