第3話 二人の思惑
『悪いけど、今週のデートなしにしてくれないかしら』
春のスマートフォンに、真珠から連絡が来たのは。アルバイトを終えて、歩いて帰路についていた時のことだった。
春のスマートフォンは、契約を結ばされた時に、真珠に強制的に持たされたものであり。交友関係が狭いこともあり、家とバイト先以外には、真珠の連絡先しか入っていない。
『グループ関連の急な用事が入ったの。申し訳ないけど、そういうことだから』
絵文字も何もない淡々としたメッセージに、春は「了解」とだけ返信して、スマートフォンを仕舞った。
一万円のボーナスが消えたのは惜しいが、急な用事なら仕方がない。雇用されている春に、基本的に拒否権はないのだ。真珠が「無理」と言えば、従うしかない。
だがデートに合わせて、アルバイトのシフトを空けておいたため、土曜日が一日暇になってしまった。追加でシフトを淹れようにも、既にどこも提出済みである。
別に家で勉強したり、家事をしたりしてもいいのだが。ふと、春は摩季のことを思い出し、仕舞ったスマートフォンを再び取り出した。
摩季の電話番号は覚えているため、番号をプッシュして電話を掛ける。時間が時間であるため、なかなか出ないかと思ったが、ワンコールで受信音が響いた。
『はい、こちら尾田です』
知らない番号からかかってきたせいか、電話に出た摩季の声に少し緊張が滲んでいた。
だから春は、安心させるように気軽な口調で言った。
「あ、もしもし、僕だけど。菊森春」
『春くん?!』
さっきまでの緊張感はどこへやら、途端に弾んだ声で、摩季は春の名前を呼び返した。
『びっくりした……これ、春くんのスマホからかけてきてるんですか?』
「うん。まあね」
真珠に持たされているスマホだ、ということは伏せておくことにした。わざわざいう必要もないだろう。
『番号登録しておきますから、いつでもかけてください、私もかけますから!』
「う、うん」
食い気味に言う摩季にやや戸惑いながらも、春はさっさと用件を切り出すことにした。
「ええと、今週の土曜日の予定が、急に空いたんだけど。よかったら、一緒に過ごさないかなって」
『過ごします!それってデートのお誘いですよね?』
「え、あ、まあそういうことに、なるのかな?」
『私、楽しみにしてますから。絶対に、来てくださいね』
「そ、そう。じゃあ、土曜日の午前九時に、中央公園で」
『はい、約束ですからね!』
念を押すように言って、電話は切れた。春はため息を吐き出すと、スマートフォンの電源を切って仕舞い込んだ。
別にデートのつもりはなかったが、言われてみれば確かにデートかもしれない。公園でのんびり一緒に過ごす、だけではあるのだが。
真珠と違って、付き合っても別に金をくれるわけでもない摩季に、こちらも金をかけるつもりはなかった。一緒にいるだけで十分と言ったのは彼女なのだ、公園でのんびり過ごすだけでも別に構わないだろう。
それに暑さが落ち着いてきた秋の公園は、紅葉だったり秋の虫が鳴いていたりと、のんびり歩いているだけでも楽しいものだ。今度また今回のように暇な時間が出来たら、妹の桜を連れて遊びに行ってもいいかもしれない。
そう思うと、少し楽しみになってきて。春は心なしか浮かれた足取りで、遠くに見えて来た我が家へと向かう。
土曜日。春は出来る限り綺麗な服を着て、待ち合わせ場所の公園に向かった。
といっても古着のTシャツに、しわや汚れの少ないジーンズを履いただけだが、生来の顔の良さも相まって、それなりに様になっていると思う。
中央公園は春の暮らす街の中でも一番大きな公園であり、芝生の広場や運動場、遊具エリアや売店など、大きな公園にあるような設備や施設は一通り揃っている。
「あ……」
公園についてから、詳細な待ち合わせ場所を指定しておけば良かったと後悔した。一応スマートフォンは持ってきているものの、こんなことで電話を掛けるのは、通話代と電池がもったいない。
だから春は公園の中に建つ時計塔が見える位置にある、ベンチに座って摩季を待つことにした。
気温は程よく、日差しが暖かく心地よい。昨日遅くまで勉強していたこともあり、時折時計に目をやりながら摩季を待っていると、春は次第に眠くなってきた。
うつらうつらと、船を漕ぎ始め。ついにはベンチにもたれ掛かって眠り始める。こうして一人でまったりくつろぐなんて、いつぶりだろうか。
だがそんな心地よい居眠りは、駆け寄ってくる足音と、肩に置かれた手によって、あっけなく断ち切られてしまった。
「春くん、起きてください、春くん」
「ん……」
軽くゆすられ、春が目を開くと、目の前に摩季が立っていた。丸袖の白いブラウスに、ココアブラウンのAラインスカート。ショートボブの黒髪には、リボンのついたカチューシャを差している。
「もう、恋人を置いて居眠りなんて、酷いです」
頬を膨らませながら、摩季は春から体を離した。白いブラウスを、相変わらず大きな胸が盛り上げている。
「ごめん……」
頭を掻く春に、摩季はわざとらしくしかめっ面をして見せてから、にっこりと笑って言った。
「それで、今日はどこ行きますか」
「あ、ええと、今日はこのままこの公園で、のんびり過ごそうかなって」
今日ほどの散歩日和はなかなかないだろう。一緒に紅葉を眺めながら歩いて、芝生に座って他愛ない会話を交わす。それが春の考えて来たプランだった。
「えっと……冗談ですよね」
しかし。摩季は春が変なことを言ったかのように、眉をひそめて首を傾げて見せた。
「え」
「私、せっかくお洒落してきたんですから、色々なところに行きたいです」
そう言って、摩季はスカートの端をつまんで、持ち上げて見せる。言うだけあって、可愛らしいことは確かだ。
それでも摩季の要求は、春にとって無茶なものだった。とりあえず困った表情を浮かべて、春は摩季に告げる。
「でも僕、お金持ってなくて」
「……は?」
「今日公園で、のんびりするつもりだったから。飲み物代、三百円しか持ってない」
「それは……」
信じられないというように、摩季は絶句した。彼女の中では、デートをする男は、金を持ってくるのが当たり前なのだろう。
どんなにねだられても、無いものは仕方がない。出来るだけ穏やかな表情を浮かべて、春は言葉を失う摩季に口を開く。
「だから、今日はこのまま―――」
「じゃあ、下ろしてくればいいじゃないですか」
「……はい?」
いい案を思いついたとばかりに、摩季は明るい表情を浮かべると、春の手を取った。
「近くにコンビニがありますから。そこで下ろしましょう」
「で、でも」
「せっかくのデートなんですから、目いっぱい楽しみましょう、ね」
にっこりと笑って、摩季は春の腕をぎゅっと自分の胸に抱きよせる。
柔らかな感触が伝わってくるが、今は話が別だ。金について話しているのに、色仕掛けに動揺している場合じゃない。
「そんな、無理、無理だって。僕、そんなにお金ないから、マジで」
早口で必死に伝えると、摩季は衝撃を受けたような顔をして、春の手を離した。
直後、彼女は俯く。表情はとても悲しそうで、目はすぐに潤みだした。
「酷い……春くんの方から、誘ってくれたのに」
「それは……でも、君が一緒にいるだけでいいって、言ったんじゃないか」
「そのままの意味に受け取らないでください!私春くんと、もっといろいろなことがしたいんです。一緒に美味しいもの食べたり、映画を観たり、ショッピングをしたり―――」
最後の方は、声が震えていた。悪いのは金を下ろすことをせびる摩季のはずなのに、なんだかこちらの方が悪く感じてしまう。
ずるい。これだから女は、ずるい。こんな女の彼氏になってしまったことを、春は早くも後悔していた。
だが一方で、このままでは不味いことも分かっている。今胸の中に湧き上がる軽蔑をぶつければ、摩季はギャン泣きしてどんな行動に走るか分からない。
悔しいが、とても悔しいが。ここは下手に出るしかない。出費は痛いが、手切れ金だと思って何とか耐えよう。
苛立ちと軽蔑を何とか押し殺して、春は強張った表情で泣き出しそうな摩季に言う。
「わ、分かった。今回だけだからね」
「ほんとですか?!」
ばっと、摩季が顔を上げる。そこには嬉しそうな笑顔が浮かんでいて、悲しみは微塵も存在しない。
可愛らしいその顔面を、握りこぶしで殴りつけてやりたいと思いながら。春は相変わらずひきつった顔で、摩季に言った。
「……コンビニ、行ってくる」
それから。下したなけなしの五千円は、食事代とゲーム代であっさりと消えた。
摩季はどうやら、デートの代金は男が全て出すものだと、信じて疑わないたちらしく。春にあれだけせびっておきながら、自分では一円も出そうとはしなかった。
食事は摩季の行きたかったという、SNS映えする料理を出す店で。確かに見た目は綺麗だったが、味は大味で美味しくなかった。春が無言で料理を胃袋に片付ける横で、摩季は適当に写真を撮って半分食べるとあとは残していた。
店を出た後は近くのゲームセンターに寄ったが、摩季は春にゲーム代をねだる癖に、プレイが下手ですぐゲームオーバーになっていた。それでも「楽しいね」という摩季に、春は死んだ目で頷くことしかできず。最後はUFOキャッチャーのぬいぐるみをねだられ、財布に最初から入っていた三百円を使って何とか取ってやった。
ゲームセンターを出ると、可愛くもないぬいぐるみを抱きしめた摩季は、嬉しそうな表情で春を振り返る。夕陽に染まった彼女は最高に可愛らしかったが、春にとってはもはや寄生虫のようにしか思えなかった。
「春くん、今日はとっても楽しかったです」
「うん」
「また、デートしてくれますよね?」
「……」
「約束ですからね!」
念を押すように人差し指を立てて言い、摩季は心から楽しそうに笑うと、春に背を向けた。
歩き出してから、一度立ち止まって。春を振り返って手を振る。
「じゃあ、月曜日にまた、学校で」
「うん」
春が頷くと、摩季も頷いて、さっさと歩き去ってしまった。金がなくなった男には、もう用が無いということだろう。
二度とデートなんてするか、あんなクソ女と。内心で思い切り毒づいて、春はぎりぎりと歯ぎしりをする。
死ぬ気でアルバイトをして稼いだ五千円が、クソみたいなことで消えてしまったのだ。いくら巨乳の持ち主だからといって、金には代えられない。
「……うん、別れよう」
溜まった気持ちを吐き出すように呟いて、春は歩き出した。お陰様で、帰りの交通費すら無い。
「ごめん、もう耐えられない、別れよう」
週末の開けた月曜日。昼休みに、告白された校舎裏の花壇に摩季を呼び出すと。春は溢れ出す思いそのままに、彼女に別れを告げた。
「え……」
唖然として硬直する摩季に、春はもう限界だということを伝える様に、余裕のない顔と声でまくしたてる。
「最初に言った通り、僕にはお金がないんだ。それなのに、前みたいなデートを繰り返すのはごめんだ」
「ちょ、ちょっと待ってください、冗談ですよね」
慌てた様子で、摩季は春の腕を取るが。春はそんな摩季の手をうっとおし気に振り払うと、軽蔑するような視線を投げかける。
「僕が汗水たらして働いて、稼いだお金を。君みたいな何も考えてない女の子の我儘に使うなんて、無駄の極みだ」
「そんな……酷い、酷いです、春くん」
摩季はまた、悲しそうに俯いて見せるが、もう騙されない。噓泣きの構えに入った摩季に、春は呆れ果てたため息を吐きかけてやる。
「酷くて結構。少なくとも僕の中では、君よりお金の方が大事だから」
やっぱりこんな能無し我儘女より、付き合うだけで毎月十万円くれる真珠の方がずっといい。
一度は付き合ってやったのだ、彼女も満足だろう。病んだふりをして気を引こうとしても、彼氏に金を下すようにせびったという事実を盾に、切り抜ける自信がある。
言いたいことは言ってやったとばかりに、春は摩季に背を向けた。こんなことの為に、貴重な昼休みを浪費させられたのが腹立たしい。
「待って―――」
呼び止められても、立ち止まらないつもりだった。腕を掴まれても振り払って、決して振り向かないつもりだった。
だが摩季は背後から、春の体を抱きしめると。必死に縋るような声で、繰り返すように言ったのだ。
「なんでも、なんでもするからっ」
「……」
なんでも。その言葉に、春は止めないはずだった足を止める。とはいえ、まだ振り返ることはしない。
「なんでもするっ。お金も割り勘でいいからっ。だから、だから私のこと、捨てないで……」
どうやら摩季は自分が本当に捨てられると気づいて、嘘ではなく泣いているようだった。まったくどこまでも、愚かな女である。
けれども。なんでもするというなら、一つだけやりたいこと、やらせてほしいことがある。
春は自分を抱きしめる摩季の腕を振りほどくと、ゆっくりと振り向いた。顔にはあえて、優しい微笑みを浮かべておく。
「本当に、なんでもしてくれるんだね」
「え……は、はい」
動揺しながらも頷く摩季に、春も頷き返し、優しい笑顔を向けたまま、要求を告げた。
「じゃあ、僕とセックスしてよ」
「今日、友達の家に泊まるって、家に言ってるんだけど」
人気アニメの専門ショップに訪れた帰り道。香次の腕を取って、熱っぽい視線を向けて、真珠は彼に言ってみた。
「それは―――」
「ちゃんと口裏合わせて、アリバイ工作もしてあるから。どう?」
どこからどう見ても、誘っている態度と言葉。これで勘違いするのなんて、ラブコメ作品の主人公ぐらいなものだ。
現に香次も露骨に反応するのが分かった。鼻の穴が膨らみ、息が荒くなる。自分では隠しているつもりでも、性欲が強いせいで興奮が漏れ出しているところが可愛い。
カジュアルなファッションに身を包んでいても、真珠は己の美貌と魅力を理解していた。美しく若い女から誘惑されて、反応しない男はいない。
どれだけ紳士的に振る舞おうとしても、香次が真珠とヤりたがっているのは見え透いているのだ。それなのに一向に手を出さないなら、こちらから誘惑してやろうということである。
香次の手を取って、熱っぽい眼差しを送って見せる。都合の良いことに、周囲は派手な建物が建ち並ぶホテル街であり。腕を組んだ恋人たちが、今もまさに隣を歩いて行った。
これもすべて計算済み。ここまでやったのだから、さすがに首を縦に振って欲しいものだが。
香次はしばらく硬直していたが、やがて微かに震える太い手で、真珠の手を優しく離した。
「こらこら、高校生がそんなことしちゃいけません」
「……そう」
「さあ、もう時間も遅いから帰ろう。お家の人が、心配してるだろうし」
明らかに作った笑顔を浮かべて、香次はホテル街を歩き出す。真珠はため息をついて、彼の後をついていった。
香次が自分のことを、気遣ってくれていることは分かっている。それが将来、自分の持つ月代グループの、金と権力を手に入れるためだということも。
別にそんなこと、どうだっていいのにな、と思う。
香次はきっと、真珠のことを処女だと思い込んでいるだろうが。真珠は別に処女ではないどころか、経験人数が普通に二桁は行っている。
高校入学と同時に、適当な同級生を相手に処女を捨てた後は。月代グループ令嬢として参加したパーティーや、会員制のクラブなどで、結構派手に遊んでいたものである。
元々性欲が強い方だったこともあり、色々な男と寝るのは楽しかったが。パーティーやクラブなんかにいる男は、中途半端に金や地位を持っているせいで、妙にプライドが高くて面倒くさいことが多かった。
そうでなくても容姿や学歴をひけらかす奴が多く、そういう男に限って肝心のセックスはへたくそな場合がほとんどであり。
正直辟易していたところに、ネットゲームでたまたま知り合った黄楊野香次と会うことになり。実際に現実で会ってみたところ、プライドは高い癖に地位も金もなく、容姿も残念な彼が滑稽で愉快だったため、何だかんだで好きになってしまったのだ。
かといって別に、香次とこのまま添い遂げるつもりはない。そもそも親が許してくれないだろうし、彼の能力と性格では、月代グループの重役はとてもじゃないが務まらない。
金も地位もない癖に、無駄にプライドが高いところが好きなのだ。金も地位もある香次なんて、ただのクズに他ならないだろう。
だから自由に「遊んで」いられる今のうちに、ヤッておくに越したことはないと思うのだが。真珠に気を使い過ぎて、なかなか手を出そうとしないのがもどかしい。
ホテル街を抜けたところにある、私鉄の駅の前で。香次は真珠を振り返った。
「さあ、着いたよ」
「……そうね」
「それじゃあ、僕はここで。気を付けて帰るんだよ」
巨体を揺らしながら走っていく香次を見送って、真珠は一人溜息をついた。
恋というものはなかなか、思い通りにはいかないものである。
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