はじめてのおつかい(ねこからの)

両目洞窟人間

はじめてのおつかい(ねこからの)

 休日。何も予定がない私はいつものように散歩をしている。

 齢が20数年以上生きてきて、未だに予定の組み方というものを理解していない私はどうしても一人行動が多くなってしまう。

 そのことに対してそんなに危機感を覚えていなかったけども、人は「そんな生活をしていたらずっと一人だよ」と言う。

 その言葉を浴びせられる度に、うるせえと思うけども、同時に孤独なまま一生を送るのは嫌だなと思う程度には私は人間的な強度は弱い。

 今日はお日柄もよく~と天気予報士が言っていたように、陽がとても気持ちよく散歩にはずいぶんと向いている日だった。

 私はニューバランスのスニーカーをずんずんと前に進ませて歩いていた。

 耳にはイヤホンをつけて、好きな音楽を聞いていた。

 スカートを聞いていた。20/20というアルバム。澤部さんの歌声を聴きながら歩き続ける。

 それはとても気持ちよくて、こんな気持ちのいい日を誰かに邪魔されるくらいならば、一人でも良いと思っている。

 でも、一生こうだとしたら、飽きてしまった時が最悪だなと思う。

 私は今、散歩に飽きていないから、散歩を続けているわけで、散歩に飽きてしまったら私はいよいよすることが無くなってしまう。

 そんなことが頭を過ぎる。あんまり考えないようにする。

 小さな猫が目の前を通りすぎていく。白い小さな猫。

 私はなんとなくその猫を追いかけていく。特段どこかへ行く用事があったわけではない。

 散歩だから。小さな猫を追いかけるのだって、選ぶことが出来る。

 小さな猫は路地に入っていく。私はその路地に入る。

 住宅と住宅の隙間に生まれた路地を歩いて行く。

 その路地は住宅の屋根や庭に生えた木々のせいで、陽の光が全く入ってこなくて、暗く、そして涼しい。

 小さな猫はその路地をすいすいと歩く。私はがたがたになった路面に足を何度かもつれさせながら、小さな猫を追いかけていく。

 小さな猫は路面の行き止まりで立ち止まる。

 私も立ち止まって、かがむ。

 そして「にゃーにゃー」と喋ってみる。

 こんな姿、会社の人に見られたら、恥ずかしくて死んでしまいそうだけども、ここは会社から電車で1時間は離れた場所で、同僚も近くには住んでいないから全く気にせずに「にゃーにゃー」と喋る。

 すると小さな猫は私に振り向く。

 小さな猫は大きな目で、私をじっと見る。

「にゃーにゃー」と私は言う。

「うみゃあ」と小さな猫は返答をした。

 それから、小さな猫は路面をぱしぱしぱしぱしと掘り始めた。

 私はそれをじっと見ていた。なんらかのトリガーに触れてしまった気がして、それをじっと見るしか無いと思ったからだった。

 数分ほど、小さな猫がぱしぱしと路面を掘るのを見ていた。

 路面から小さな金属片のようなものが見えていた。

 私は、近づいて、金属片を取り出す。

 それは鍵だった。

 小さな鍵。

 鍵の後ろには黄色の楕円のプラスチックが付いていて、そこには「歌舞伎町5番。27」と書かれていた。

コインロッカーの鍵?なんでこんなところに。と思っていると、小さな猫は私の膝に飛び乗った。そして、私の顔をじっと見た。

「うみゃあ。うみゃあ」

 多分だけども、この鍵を開けろと言っているのかしら。

 なんてことを思ってみた。

 それは多分、私の思い違いなんだろうけども、そう思ってしまったのだから、仕方ないなと思ってしまった。

 直感的に動くことも時には必要で、小さな猫の目は私の直感を揺さぶってきたのだ。

私は「これを開けに行ったらいいの?」と聞いた。

「うみゃあ。うみゃあ」と猫は鳴いた。

 ならば開けに行こうじゃないか。

 私は「にゃーにゃー。にゃーにゃー」と言った。「開けてくるから、ちょっと待っててね」という意味で言ってみた。

「うみゃあみゃあ」

 通じたみたいだった。

 今日の私は猫語を操れるみたいで、いつの間にこんな能力をと思ったけども、これも全部、思い違いなのかもしれない。

 でも、私は小さなコインロッカーの鍵を小さな猫に渡されてしまったので、開けに行かなければならない。それは予定の無い私がしなきゃいけないことで、他の人には任せられることじゃない。

「じゃあ、開けてくるから。にゃーにゃーにゃーにゃー」と私は言う。

「うみゃあ。うみゃあ」と小さな猫は転がり回った。喜んでいるみたいだった。



 最寄りの駅から、新宿までは1時間くらいかかる。

 なぜ歌舞伎町のコインロッカーの鍵があんな路地に埋められていたのだろう?

 私は真っ先に薬物取引のことが思い浮かぶ。

 薬物取引のために誰かがあそこに鍵を埋めていたんじゃないか。

 だとしたら、私は今とんでもない社会の沼に足を埋めようとしているのではないだろうか。

 しかし、それを考えると、あの猫の姿が浮かぶ。

 うみゃあ。うみゃあ。

 私は薬物取引のことを考えるのをやめる。代わりに猫のお使いに手がけているというファンタジーの世界に自分の思考を沈ませる。

 そんなわけはないと思いながら、猫のお使いにでかけるのは楽しい。

 どうせ今日は予定がない。薬物取引だったら、すぐに警察を呼べばいい。

 私は、ただ鍵を拾ってあけただけだと言えば大丈夫だ。

 薬物取引じゃなかったら、私は猫のお使いをしているだけの孤独な20代女性。

 それはそれでどうなんだろうと思いも、やっぱり過ぎるけども、あんまり考えないようにしていたら、気がついたらそこは新宿。



 新宿に来るのは久しぶりで、あまりの人の多さにめまいを起こす。

 私は人の多い場所が得意でなくて、人の多い場所は思考があまりに落ち着かなくて、イヤホンのボリュームを無意識にあげる。

 ぎゃーんというギターの音に耳をすませながら、人の波をすいすいとかき分けて歩き続けたらそこは昼間の歌舞伎町。

 ゴジラの顔がくっついた映画館の下で、スマホの地図アプリを立ち上げる。「歌舞伎町 5番 コインロッカー」と打ち込むと、地図に赤いピンが刺さる。

 歌舞伎町のラブホ街の近くにある小さな路地の先にピンが刺さっていた。

 私はそこに向かって歩く。昼間の歌舞伎町は観光客しかいない。

 まだ怪しい雰囲気はそれほどないので、女性1人で歩いてもまだなんとか怖くなかった。

 もし、夜にあの猫と出会っていたら、断っていただろうなと思いながら、私はラブホ街に足を進める。

 ラブホ街に入ると、カップルや風俗嬢みたいな人をちらほら見かけた。

 私は1人その中を地図アプリを何度も確認しながら歩いた。

 ピンは『レインボー』という名のラブホの近くの路地に刺さっていた。

 私は『レインボー』を探した。

 携帯を片手に『レインボー』を探す私の姿は客がいるラブホを探す風俗嬢みたいだなと思った。

 その姿がなんかおかしくて私はうにゃにゃにゃと笑いそうになった。



 『レインボー』というラブホテルは文字通り、7色に光っていた。

 LEDの照明がけばけばしく7色に数秒ごとに変化する。

 ここかと思っていると、カップルが一組入っていった。

 休憩は2900円と書いてあった。

 しかし、私は『レインボー』に用はない。さっきのカップルも私には関係ない。私は、『レインボー』の近くの路地に興味があるだけだった。

 『レインボー』の近くに路地がないか見ていると、『レインボー』と、隣の雑居ビルの間に鳥居が、そしてその向こうには、ビルの影に隠れた神社があった。

 地図アプリを見る。

 コインロッカーはこの先にあるようだった。



 私は鳥居をくぐる前に一応、礼をしておいて、それからくぐった。

 鳥居から小さな社寺までの参道は『レインボー』のせいで、7色に代わる代わる光っていた。

 私はその参道を進む。

 小さな社寺から少ししか離れていない場所に私が探していたコインロッカーはあった。

 私は社寺で一旦、そして一応、礼をして、それからそのコインロッカーに向かった。

 ここら一帯はラブホと雑居ビルに囲まれているせいで、影になっていたけども、コインロッカーの上には緑色の屋根が取り付けられていて、その屋根に装備されていた蛍光灯のせいで、コインロッカーだけがまるで聖なる場所のように輝いていた。

 私はコインロッカーの27番を探そうとした。すると「みゃあみゃあ」と声が聞こえた。

 ふと、その声がした方に向くと、猫たちがいた。

 黒猫がみかん箱に乗っていた。その黒猫を囲むように、複数の猫たちがいた。

 黒猫は私にむかって「みゃあみゃあ」と鳴いていた。

「どうしたの?」と聞く。勿論、言葉が通じるとは思っていない。でも、黒猫はコインロッカーを指さした。

「これ?」と私が聞く。すると、黒猫はうなずいた。そして周囲の猫たちも「みゃあ、みゃあ」と鳴き始めた。

「にゃーにゃー」と私は言ってみた。今から開けるよ。って意味で言ってみた。

 通じるなんて思ってなかったけども、猫たちは途端に喜ぶような声色で「みゃあみゃあ!」と騒ぎ始めた。

 私は27番のコインロッカーを見る。鍵は刺さっていない。私はポケットから、鍵を取り出して、回す。

 そして開く。

 匂いがした。

 カレーの匂いだった。

 そこにはできたてのカレーライスが皿に盛り付けられた状態であった。

 ありゃりゃと思っていると猫たちは歓喜の声を上げていた。

 みゃあ!みゃあ!みゃあ!

 私はその皿を取り出す。皿は温かい。本当にできたてのようだった。そしていい匂い。

 私はその皿を猫たちの近くに置く。すると黒猫がみかん箱から降り立ち、そのカレーをくんくんと匂いを嗅いだのちに、食べ始めた。

 黒猫は猫舌を物ともせず、どんどん食べていく。

 みゃあ!みゃあ!

 黒猫は喜んだ。そして、その声の後に周囲の猫たちもそのカレーライスに群がった。

 みゃあ!みゃあ!みゃあ!

 猫たちは喜んでいるようだった。

 なぜ、できたてのカレーライスがこのコインロッカーの中にあったかなんか私にはわからないし、その鍵が1時間以上離れた路地に落ちていたかもわからない。

 でも、私は呼ばれたのだと思った。

 この猫たちにカレーを振る舞うのがどうやら今日の私の任務のようだった。

 27番のコインロッカーをもう一度のぞき込むと、奥に袋が入っていた。

 それを取り出すと、それはレトルトカレーの袋だった。

 みゃあ。と黒猫は言った。

 その時、あの小さな猫の姿が思い浮かんだ。

「これをあの小さな猫に持って行ったらいいの?」

 みゃあ。黒猫はうなずいた。

「にゃーにゃー」と私は言った。わかった、持って行くよ。という意味で言ってみた。

 私の猫語はやっぱり通じて、黒猫たちは歓喜の声を上げた。

 みゃあ!みゃあ!みゃあ!



 鳥居を再びくぐり、レインボーの隣に出た。

 陽は少しだけ傾きかけていた。

 私は戻って、このレトルトカレーをあの小さな猫に渡しに行こうと思った。全てのことはわけがわからない。今日のことは何一つわかっていない。

 あの小さな鍵がなぜあんな場所にあったかも、今日の私はなぜ猫語をしゃべれるかも、なぜできたてのレトルトカレーがコインロッカーに入っていたのかも、全てはわからない。

 ミステリーだ。全ては謎に包まれている。

 でも、今日、私は呼ばれてしまったのだ。この全ての物事をつなぐ人間として私は呼ばれてしまったのだ。

 孤独で、予定のない、私がその責務を果たさなきゃいけなかったのだ。

 それはたまたまだったのかもしれない。誰でもよかったのかもしれない。

 でも今日に限っては私だったのだ。誰が仕組んだことか、神様が仕組んだことか、それか酔狂な人が仕組んだことか、それすらもわからない。

 でも、今日は私だった。それだけでいい。

 世界は広いのだ。

 世界は広くてわけがわからないのだ。本当はそうなのだ。

 私たちはわかっているふりをしているだけで本当はわかっていないのだ。

 だからコインロッカーにカレーが入っていることだってありうるし、猫たちのバイパスになりうることだってありうるのだ。

 私はそんな風に、自分を納得させた。



 自宅近くのあの路地の戻ってきたときは、もう陽はほぼ沈んでいて、路地はさらに暗くなっていた。でも、あの路地の行き止まりに小さな猫はいた。

「にゃーにゃー」私は猫に向かって話しかけた。全部やってきたよって意味で話しかけた。

 猫は私に気がついた。にゃーにゃー!と嬉しそうに猫は私に返答した。

 私は鞄の中から、レトルトカレーの袋を取り出した。

「これ、持って帰ってきたよ」と言う。小さな猫はこくりとうなずいた。

「にゃーにゃー」と猫は私に言った。多分、ありがとうという意味だったのだと思う。

 小さな猫はレトルトカレーの袋をくわえる。小さな猫とほぼ同じサイズなのに、いとも簡単に猫は袋をくわえた。

 私は「にゃーにゃー」と言ってみた。

 でも小さな猫は私の猫語には反応せず、そのままどこかへ行ってしまった。



 それ以降、私と猫が意思疎通できることはなかった。

 私が猫語をしゃべれたのはあの日のあの時間だけで、そして、あの『レインボー』の近くにあったコインロッカーも気がついたら無くなっていた。

 全てはあの日のあの時間だけのことだった。

 でも、いい。

 私は猫とおしゃべりができたのだ。

 私は猫のお使いを頼まれたのだ。

 そしてそのお使いを完遂したのだ。

 それは私だからできたのだ。

 あの日の私だったからできたのだ。



 相変わらず、予定の埋め方が下手な私は1人で休日を過ごしている。

 そんなのじゃ、いよいよ孤独になるよと私のことを揶揄する声もたまにある。

 でも、私は孤独でも、予定の埋め方がへたでもいいと思う。

 それはあの日のことがずっと残っているから。そしてたまに私の家の前にレトルトカレーの袋が置いてあるからだ。

 そのときはあの小さな猫のことと、あの不思議だった時間のことを思い出す。

 散歩をしていると、小さな猫が私の前を横切った。

 私は咄嗟に「にゃーにゃー」と言ってみた。

 猫は私に振り向きもしなかった。

 もう猫語をしゃべれることはないんだなあと思った。


 みゃお。みゃお。

 あの小さな猫の声がした。

 私はさっきまで猫がいたところを見た。

 でも猫はどこかへ消え去ってしまっていた。

 私は散歩を続けた。ニューバランスのスニーカーでずんずんと前に進んだ。

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