第35話 眠れる館の魔女
室内に明かりは点いていなかったが、窓から差し込む星明かりはじゅうぶんに明るく、ものを見るのに不自由はない。しかし、ベッドには半ば天幕がかけられており、その場所からは空色の姿は確認できなかった。
槇志はゆっくりと歩きはじめる。分厚い絨毯が自然に足音を消し、室内に満ちた静寂を乱すことはない。心を満たす感情は緊張感でも高揚感でもなく、ただひたすらに空色に対する愛おしさだった。
ベッドの傍らにたどり着くと、彼は中途半端に開かれた天幕の隙間から、そっと中を覗き込んだ。
空色はそこで静かに眠っていた。
まるで童話のお姫様のような乱れのない寝姿で、もの悲しげな表情を浮かべている。
「空色……」
再会の喜びと、泣きたくなるようなせつなさを同時に噛みしめながら、槇志はそっとベッドの傍らに屈み込んだ。
「やっと会えたな、空色」
寝顔に向かって囁きかける。
「…………」
反応はない。
眠れる魔法使いを起こす術など、もちろん槇志は知らない。
それでもただひとつ、眠り姫を起こすための、世界でもっとも有名な方法なら知っている。もちろん、それで空色が目覚めるという保証はなく、当人の了解を得たわけでもない。だが、お互いの想いが通じ合っていることを、いまさら疑いはしなかった。
「起きてくれ、空色……。約束のつづきをしよう」
やさしく囁きながら、寝顔に向かって屈み込むと、槇志はそっと空色の唇に、自分の唇を重ねた。
しばし時が止まったかのような静寂がつづき――、
「んん――っ!?」
いきなり空色が唸った。
「空色!」
槇志は胸中で歓声をあげた。もちろん、目覚めることを祈ってはいたが、まさかこれほど上手くいくとは。
いっぽう空色はというと、薄闇の中でもはっきりとわかるほどに、頬を真っ赤に染めて、狼狽えた表情を浮かべていた。
「ど、どどど、どうして笠間くんが、わたしのお部屋にいるの……!?」
問いかけているのか、自問しているのか微妙な口調だ。
「し、しかも、どうして、どうして、どうして、いきなり寝込みを襲ってくるの!?」
完全に混乱しているようだった。
「いや、おまえがなんだか、不思議な眠りに就いてるって言うから……」
説明しかけたところで、槇志はようやく違和感に気が付いた。自ら長い眠りに就いていたにしては、空色の慌てようは、いくらなんでも不自然だ。
槇志が焦った顔で部屋の入口を振り返ると、扉の隙間から覗き込んでいたメイドが小さく舌を出していた。唖然とする彼を置き去りにして、綾子はあっという間に顔を引っ込めると、音もなく扉を閉じてしまう。
「謀られた……」
茫然とつぶやく槇志。どうやら空色はただ単に、ごく普通に眠っていただけのようだ。おそらくは正真正銘のふて寝だったのだろう。
しかし事情を知らない空色は体を起こすなり、槇志をポカポカと叩きはじめる。
「バカバカバカバカ!」
「痛い痛い痛い痛い」
相手のテンポに合わせて声をあげるが、実のところちっとも痛くはない。
「どうしてくれるのよ、わたしのファーストキス!」
何百年も生きているくせにはじめてだったらしい。
「責任取って!」
勢いに任せたように空色が叫ぶ。
「ああ、任せろ」
槇志は力強く応えた。
「え……?」
「責任は取る。一生かけておまえを幸せにしてやる」
「あ、あれ……?」
空色は性急な展開に混乱しているようだったが、槇志はかまうことなく抱き寄せた。空色は腕の中でわずかにもがこうとはしたものの、すぐに力を抜いて身を委ねてくる。
「笠間くん、説明して」
耳元で空色の声がする。
「おまえが好きだ」
槇志は極端に要約して答えた。
「それだけ?」
「おまえが好きだからここに来た。おまえが好きだから抱きしめてる。おまえが好きだから、これからも一緒にいたい。これ以上の理由なんて必要無いだろ」
最初から必要なのは言い訳でも、謝罪の言葉でもなかった。この大前提さえ告げていれば、些細な誤解やトラブルなどに、いちいち振り回されることはなかったのだ。
槇志の腕の中で、空色も同じことを思ったのか、静かに同意の言葉を返してくる。
「そっか……そうだよね」
囁くような言葉とともに、空色はそっと槇志の背中に腕を回した。
「わたしも笠間くんが好き」
素直に告げた後、空色は少し声のトーンを落とす。
「でも円城さんが怒るかしら……」
「んなこと言ったら、お仕置きしろって、あいつに言われたな」
「え……?」
空色は少し焦ったように槇志を見上げる。彼はそっと体を離すと、両手を相手の肩に添えたまま、真っ直ぐに見つめ直した。相変わらず驚くほど美しい少女がそこにいる。かすかに潤んだ瞳で、こちらをじっと見つめ返している。
「お仕置きだ空色、目をつむれ」
その言葉の意味を正確に理解して、空色は瞼を閉じた。お互いにゆっくりと顔を近づけると、ふたりは二度目のキスを交わす。
悲劇と絶望と二百年の時を超えて、この日、愛し合うふたりは、ようやく恋人同士になったのだ。
そっと顔を離すと、槇志と空色は頬を朱に染めながら、さらに見つめ合う。そしてもう一度、ごく自然に顔を寄せ合い……かけたところで、空色は突然槇志の顔を押しのけた。
「ぶっ――お、おい?」
いきなり顔を横に向けられて驚く槇志だったが、その視線の先にいくつもの人影を見つけて納得する。
いつの間に集まってきたのか、館のメイドたちが、折り重なるような体勢で、興味深げに覗き込んでいたのだ。その一番下で、綾子は苦しそうな表情を浮かべていた。どうやら動きたくても動けなくなってしまったようだ。
「覗くなーっ!」
空色が顔を真っ赤にしてマクラを投げつけると、メイドたちは悲鳴をあげながら、組み体操のように折り重なって倒れた。
一番下で呻く綾子に、槇志は少しだけ同情した。
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