第33話 困った人

 ふたりの姿が向こうの世界へと消えると、空間の歪みはゆっくりと消失し、あとにはごくありふれた景観が戻ってきた。

 それを見送ると同時に、夏生は立ち上がって、大きく伸びをする。


「さーて、帰るとするか」

「彼を待たないんですか?」


 意外そうな詩弦の言葉に、夏生は軽い口調で答えた。


「いいさ。槇志はここ一番じゃ、へまはしない。結果はもうわかり切ってるよ」

「そうだね」


 綺理華はくすりと笑った。

 おそらく夏生は夏生なりに、やはり空色のことが好きなのだろう。しかし、ここでは泣くに泣けない。こう見えても彼は男の子なのだから。

 綺理華は何も言わずに先頭を切って歩きはじめた。夏生と詩弦もそれにつづき、ゆっくりと山の手の坂道を下りはじめる。

 詩弦は一度だけ立ち止まると、肩越しに槇志が消えた場所を振り返った。


「困った人だね。最後の最後に名前で呼ぶなんて……でも少しだけ嬉しかったわよ、和哉」


 少しだけ寂しげに笑うと、詩弦は再び歩きはじめた。

 そんな彼女たちの姿をミゲルは人知れず小高い屋根の上から見つめている。穏やかな眼差しには天使の肩書きに相応しい慈愛の光が宿っていた。


「これで良いのだな。同士アストレイア・ゼロ・セブン」


 ミゲルはもちろん、部下の経歴を最初から把握していた。だから、お節介とは思いつつも、詩弦におかしな指示を与え、学校に潜入させて笠間槇志と再会するようにし向けたりもしたのだ。

 実を言えば、彼を自らの企てに巻き込んだのも同様の意図があってのことだった。

 結局は悪ノリと浅慮によって事態を引っかき回してしまったが、すべてが丸く収まったいま、彼は心底安堵していた。残念ながら、同士アストレイア・ゼロ・セブンと笠間槇志を引っ付けることはできなかったが、他ならぬ彼女自身が、そんな結末を望んでいないことは理解できた。

 だからきっと、これで良かったのだ。

 胸の裡でもう一度繰り返すと、ミゲルは軽く屋根を蹴って静かに宙へと舞い上がる。

 いつしか空の色は深みを増し、月明かりが静かに街並みを照らし出していた。

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