第32話 好きだから

「うわっ、奇跡が起きちゃったよ」


 焦った声を出す綺理華。詩弦はもとより、夏生本人も目を丸くしている。

 槇志は真っ直ぐに綾子のもとへと駆け寄ると、両手を伸ばして、その肩をしっかりとつかんだ。

 一瞬、消え失せるのではないかと不安に駆られたが、その気配はなく、綾子はやや怒ったような顔で視線を逸らしている。


「彩河、空色はどこにいるんだ――あいつに会わせてくれ、あいつに会いたいんだ!」

「痛いわよ、そんな強くつかまれちゃ」

「わ、悪い」


 慌てて手を放すと、綾子は顔は背けたまま、視線だけを動かして槇志を見据えた。


「会ってどうするの?」 

「あやまりたいんだ。俺はとんでもない誤解をして、あいつを傷つけちまった。だから会ってあやまらねえと……」

「ダメ、理由が気に入らない」


 突き放すように告げて、綾子は首を振った。


「彩河……」


 槇志は困惑して綾子を見つめる。彼女もまた槇志を見つめていた。澄んだ瞳が彼の瞳を覗き込んでいる。

 どうやら綾子は彼を空色に会わせまいとしているわけではないようだった。首を横に振ったのに、そこから立ち去る気配を見せないのがその証拠だろう。

 しかし、いったいどう言えば納得してくれるのか。


(いや、違う。彩河は言葉遊びをしてるんじゃないんだ)


 人は口先だけならどうとでも言える。顔も知らない誰かの残した立派な台詞や哲学を知識として持っていれば、たとえその意味を理解していなくとも、もっともらしい態度を取ることができる。

 だがそんなものを、この頭のいい少女が望んでいるとは思えない。自分の言葉で語れなどと、ありふれたことを言っているわけでもないだろう。きっともっと単純なことだ。

 お互いに好き合っていた自分と空色が、なぜこんな遠回りをしてしまったのか。それを考えたとき、槇志はふいに理解した気がした。


(そうか、そうなんだ。答えはこんなにもシンプルなことなんだ)


 気負うことなく笑みを浮かべると、槇志は穏やかに言った。


「彩河、俺は空色が好きだ。何をおいても、まずはそれが一番なんだ。好きだから会いたい。好きだから一緒にいたい。好きだから、この想いを伝えたいんだ。これ以上の理由なんてないよな」


 空色が好きだというのに、夢に振り回されてばかりで、ついには彼女を深く傷つけてしまった槇志。

 槇志が好きだというのに、過去の罪悪感から、夏生と偽りの恋人を演じて、槇志を深く傷つけてしまった空色。

 ふたりはどこか似た者同士なのかもしれない。

 綾子はゆっくりと視線を下げ、うつむくように下を向く。表情が前髪に隠されて見えなくなった。しかし、すぐにその口元には笑みが浮かぶ。


「うん、それだよね、やっぱり」


 顔をあげたとき、綾子は明るい笑みを浮かべていた。

 そのままくるりと振り向き、こちらに背中を向けると、カフスの付いた右手を宙にかざす。音もなく空間に歪みが生まれ、その先に空色の住まう館が姿を現した。


「うわ……」


 その不思議な光景に綺理華が驚きの声をあげた。


「大きいね、空ちゃんの家って」

「そっちかい」


 めずらしく夏生がツッコミ役になっている。


「結局、ここから動いてなかったんですね。どうりで別の世界をいくら探しても見つからないわけです」


 詩弦は苦笑を浮かべていた。その瞳には、どこか懐かしげな感情が込められているように見える。おそらくは彼女がまだ人間だった頃に見覚えがあるのだろう。


「マキちゃん」


 綺理華に呼ばれて振り向くと、彼女は親指をビシッと立てて笑みを浮かべた。


「頼むよ。わたしだって空ちゃんのこと好きなんだからね」

「ああ、引っ張り出してくるよ」


 槇志はうなずくと、傍らに置いてあった、ふたり分のカバンを持ち上げて、その片方を綾子に渡した。


「毎日毎日、悪いわね。辞書だって入ってるのに」

「毎日って……おまえ、ずっと知ってたのかよ。俺がここに来てることを」

「まあね。本当は夏休みいっぱいは頑張らせようって思ってたんだけど……」


 綾子は横目で夏生を睨みつける。


「歌エネルギーの勝利だ!」


 夏生は腰に両手を当てて得意気に言った。


「まあいいけどね」


 綾子は苦笑いを浮かべて肩をすくめる。


「しかし、物陰でこっそりと俺を眺めて、ほくそ笑んでいたとはひでえ女だな。残酷だ、冷酷だ、無情だ、今度なんか奢れ」


 ふざけて槇志が拗ねたように言うと、綾子は意外にあっさりとうなずいた。


「わかってるわよ。でも、ほくそ笑んでなんていないわ。見てるほうだって、けっこう心が痛かったんだからね」

「わたしも痛かったわよ、悲しそうなマキちゃんを見てると、胸がすっごく」


 綺理華が恨みがましくつづける。


「わかってるわよ、あなたと、それから円城さんにも奢らせてもらうわ」

「うん」


 綺理華は満足そうにうなずいた。それを見ていた夏生が便乗を試みる。


「僕も痛かったよ。なにせ槇志ってば、もはや痛いヤツだったからね」

「…………」


 綾子は反応さえしなかった。


「槇志、なんか僕の扱い悪くないか!?」

「たぶん性格が悪いからだよ」

「がーん!」


 夏生は擬音を口にすると、膝を抱えて座り込んだ。相変わらずのノリに槇志が苦笑していると、今度は詩弦が声をかけてくる。


「笠間くん」

「うん?」


 槇志が顔を向けると、詩弦は穏やかな笑みを浮かべていた。髪型や話し方は変わっても、そのやさしげな笑顔だけは昔のままだ。


「もし天咲さんが、わたしを理由にごねるようなら、お仕置きしてあげて下さい。わたしは自分の意志で転生を放棄して天使になりました。時には先日のような、おかしな作戦に引っ張り出されることもありますが、基本的に天使は世界を守る存在です。天使であることに、わたしは誇りを持っているんです。ですから、彼女がわたしに気を遣うなんて、わたしに対する侮辱に他なりません」

「わかった。伝えとくよ。色々とありがとうな詩弦」


 槇志は笑顔で答えると、空色の館に向き直った。


「行こう、彩河」


 迷いはすでに無く、槇志の声は自然と力強いものになっていた。その彼の手を取って、綾子は笑顔で頷く。


「ええ」


 ふたりは並んで空間の歪みへと足を踏み入れる。

 かすかな風を感じるとともに、槇志は一瞬視界が白むのを感じた。

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