第29話 忘れるものか

 世界が黄金の彩りを帯びる時刻。

 風間かざま和哉かずやは豪華な洋館のテラスで、天咲空色と向かい合っていた。

 広々とした床の上には白いテーブルとイスが並び、開け放たれた扉の向こうでは、真っ白なカーテンが風に揺れている。手すり越しに見える街並みは強い陽射しに霞み、その陰影だけを浮き彫りにしていた。

 季節は夏だ。日中の気温は今日も三十度を超えていたが、いまは涼しげな風が吹きつけており、暑さはほとんど感じない。

 和哉はTシャツにジーンズといったラフな出で立ちだったが、空色はシックなブラウスとスカートに身を包んでいる。いかにも育ちの良いお嬢様らしい格好だった。

 もう少しバランスを考えるべきだったかもしれないと思ったが、べつに記念撮影をするわけではない。何かを残すのではなく、すべてを失うためにここに来たのだ。


「そろそろはじめるか」


 和哉は穏やかな笑みを浮かべて、真っ直ぐに空色を見つめた。

 相変わらず美しい少女だった。肌は透き通るように白く、瞳はエメラルドのように輝き、長い黒髪は軽やかに風に躍っている。


「これでお別れだな」


 和哉はしんみりとした気持ちを隠し、努めて明るく言った。


「おまえとの学園生活は楽しかったよ。ちょっと騒々しすぎたけど、それでも毎日がまるで夢を見てるみたいだった」

「わたしも楽しかったわ。こんな楽しい時間が、この世にあったなんて知らなかった」


 透き通るような笑みで空色は答えてくる。その言葉に未練が込み上げるのを、和哉はどうしても抑えきれない。


「本当はもっと色んなイベントがあったんだぜ。文化祭とか修学旅行とかさ……」


 自分が泣き出しそうになっていることに気づいて、和哉は一度言葉を切った。ここで泣き出すわけにはいかない。悲しみを押し殺し、努めて軽い口調で和哉は言った。


「でも、しかたないな」


 これ以上この世界を延命させれば、霊的ウィルスは他の世界への侵蝕を開始する。そうなればこの世界に生きる人々も死後、転生する先を失うことになるのだ。その意味では皮肉にも世界を滅ぼすことこそが、この世の人々を救うことだった。


「そうね、しかたないわね」


 空色は風に煽られた髪を片手で直しながら、微妙に苦笑めいた笑みを浮かべると、そのままの調子でつづけてくる。


「まあ、当分は我慢することにするわ。生まれ変わったあなたが、もう一度高校生になるまでは」

「え……?」


 和哉は驚いて空色を見つめ返した。


「待ってるわ、わたし。ここに似た世界を見つけて、そこにあなたが生まれてくる日まで」

「そんなことができるのか……?」


 和哉の問いに、空色はやや得意気に胸を張った。


「風間くん、わたしを誰だと思ってるの? わたしは世界を支配する魔女の娘よ。魂の行き先くらい、好きなように制御できるわ」

「け、けど、そのとき俺は、おまえのことは忘れてるんじゃないのか?」

「……でしょうね」


 空色の笑みが寂しげなものに変わる。


「だったら……」


 意味はない――一度はそう言いかけたが、和哉はすぐに考え直した。たとえ覚えていることができなくても、それでもやはり自分はこの少女にもう一度会いたい。生まれ変わってもう一度同じ時を過ごしたい。好きなのだから、そう思うことが当たり前だ。

 しかし、その場合懸念すべき事がひとつある。空色自身の気持ちだ。


「俺は構わないけど、おまえはどうなんだ? 自分を忘れちまった俺に会ったって、おまえ自身が傷つくだけじゃないのか」

「たしかに忘れられてしまうのはつらいわね」


 空色はわずかにうつむく。だがすぐに笑みを浮かべて顔を上げた。


「でもそれはわたしにとっては当たり前のことなの。たとえ魔法で時を止めても、魔法使いでない者は精神が劣化し、悠久の時を生きつづけることはできない。出会いと別れは逃れられない魔法使いの運命なのよ」


 残酷な現実を受け入れながらも、空色の瞳に悲壮感はない。


「だけどね、風間くん。時とともに積み重なるのは何も悲しみや痛みだけじゃない。ぬくもりや喜びだって、わたしはいくらでも未来に持っていけるわ」

「それでいいのか……」

「ええ、あなたに出会えた喜びを持って、来世のあなたに会いに行くわ。そうすればわたしはまたひとつ、新しい喜びを得ることができるんだから」

「そっか……。なんか羨ましくなってきたな。俺だけ忘れちまうなんて不公平な気がするぞ」

「そのぶん毎日を楽しませてあげるわよ。あなたにはわたしが魔法使いであることを隠す必要なんてないんだから」

「けど、そのときの俺がどんな性格になってるかなんてわかんないぞ。秘密をネタに脅迫とかするかもしれないしな」

「そのときは、たっぷりとお灸を据えてあげるわ」

「はは……お手柔らかにな」


 和哉は笑った。最初は苦笑だったが、その笑みはすぐに本物の笑顔へと変わる。

 世界が終わろうとするこのときに、和哉はもう何も怖れてはいなかった。あとは空色を信じて、未来を心待ちにするだけだ。

「もう一度会えるまで、どれくらいかかるんだ?」


「わからないわ。たとえ魂を特定の世界へと導いたとしても、生まれ変わりにかかる時間は人それぞれなの。百年から二百年くらいが平均的だけど……。でも、たとえ何年かかっても、わたしは待っていられるから」


 寂しさを見せまいとして、空色は無理にほほえんでいる。和哉は胸が痛むのを感じながらも、あえて気づかぬふりをして、軽い口調で話しかけた。


「ひとつ、頼みがあるんだけどいいかな?」

「何かしら?」

「今度会ったら俺の恋人になって欲しいんだ」

「それはダメよ」


 空色は無情にもあっさりと却下した。


「わたしはそこに円城さんの魂も連れて行くわ。だから今度こそ、あなたはそこで彼女を幸せにしなさい」


 その言葉に、和哉は軽く首を横に振った。


「あいつが俺に言ったんだよ。わたしに構わず、自分の本当の気持ちに素直になりなさいって」


 その言葉を残した翌日、彼女は一足先にこの世を去ってしまった。


「それでもダメ。わたしに恋したって、わたしはあなたをふってあげる」

「ひでえな」


 和哉は言葉とは裏腹に楽しそうな顔になった。


「けど、それならそれで俺も宣言させてもらうぜ。俺は必ずおまえを落としてみせる!」


 ビシッと指を突きつけて言い放つ。


「十年早いわよ」


 からかうように笑われた。


「ふん、生まれ変わったら十年ぐらいとっくに過ぎてるさ」

「じゃあ少しだけ期待させてもらうわ。あなたがどんなふうにわたしを口説くのかをね。でも失恋しても泣いちゃダメよ」

「しないから余計な心配はするな。おまえこそ俺にメロメロになっても、パニックを起こして逃げ出したりするなよな」

「それこそ余計な心配よ」


 ふたりはお互いに、おどけたように言葉を交わすと、顔を見合わせて笑い合った。それはふたりにとって、この世界で最後となる、心からの笑顔だった。

 やがて、会話が途切れると、空色はスカートのポケットから真っ黒な石を取り出した。濃い闇をまとうかのような不気味なその石は世界結晶のなれの果てだ。


「何かやり残したことはない?」

「生まれ変わってからやるよ」


 穏やかに答える。駆け寄って抱きしめたくなる衝動にかられてはいたが、あえて実行には移さない。この寂しさもせつなさも、未来へ持っていくことに決めたのだ。たとえ記憶を失ってしまっても、空色への思いだけは忘れないために。


「じゃあ、未来で待ってるわね」

「ああ、またな」


 ふたりは再会を信じて別れの言葉を交わした。

 同時に空色は世界結晶を握りつぶす。氷が砕けるような涼しげな音色が世界中に響き渡った。

 見上げれば、黄昏の空を不思議な赤い光が稲妻のように斬り裂いていく。それは世界に生じた致命的な亀裂だ。そこを起点として、さらなる亀裂が空を走り、無数の小さなひびが世界中を覆い尽くしていく。

 陽射しの中に霞んだ街並みは急速に色を失い、建ち並んだ住居や街路樹、通りを歩く人々までもが、ガラス細工のように透き通ってはひび割れ、砕け散っていった。空からは、世界のカケラがガラスの花びらのように、ゆっくりと舞い降りはじめている。

 儚くも幻想的なまでに美しい、世界の終わりだ。

 その中にあって、この館と空色だけが変わることなく佇んでいる。

 和哉が愛した少女は、泣き笑いにも似たやさしい笑みで、じっと彼を見つめていた。

 なんとなく照れくさい思いで、軽く頭をかこうとした和哉は、自分の腕が途中から上がらなくなっていることに気づく。見れば彼の腕もすでに無数の亀裂に覆われていた。呆気にとられている間にも、肘から先があっさりと崩れ落ちてしまうが、痛みも苦しみも感じない。死の恐怖さえ、ここには存在しなかった。

 空色は崩れゆく和哉の姿を、それでも黙って見つめつづけている。まるで彼の姿を永遠に心に刻みつけようとするかのように。

 和哉は何か気の利いた台詞をかけたいと思ったが、こんな時に限って何も思い浮かばない。

 考えている間にも崩壊は進み、彼の膝あたりでガラスが砕け散るような音が響いた。同時に体が大きく傾ぎ、硬い床の上にゆっくりと落ちていく。

 どうやら気の利いた台詞は来世で言うしかなさそうだ。

 最期に瞳に映ったのは、天から降りしきるガラスの花びらの中で、微笑を浮かべた空色の姿だった。


(やっぱり忘れたくない……忘れるものか)


 和哉は最後の最後に心の奥底でそれを誓った。

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