第28話 追憶への誘い
闇の中で誰かが語りはじめた。
「そこはとても平凡な世界だったわ。超能力も魔法も実在しないのが当たり前の、穏やかで退屈で平和な世界」
槇志は夢うつつでその声を聞いていた。
「そこはこの世界に驚くほどよく似ていたの」
声の主は少女のようだ。
「わたしたちは平凡な社会の中で、ありきたりな大人になるために、当たり前の毎日を繰り返していた。だけど、ある日突然そこにとんでもない異邦人が飛び込んできたのよ。それは正真正銘の超常の力を操る魔法使いの少女で、名前を天咲空色といった」
聞き覚えのある声だ。遠い昔に……いや、つい最近も、どこかで聞いた気がする。
「彼女が現れたとき、あなたにはすでに恋人がいたんだけど、それでもあなたは天咲さんに心を奪われてしまったの」
少女の声は寂しげだった。
「その日以来、世間知らずの彼女が巻き起こすトラブルで、毎日がドタバタして、たぶんそれがきっと、あなたにも、わたしにも、とても楽しかった」
声は懐かしむように語る。言葉がひとつ紡がれるたびに、槇志の記憶にかかっていた霞が、ゆっくりと晴れていく。
「だけど、天咲さんは何も遊ぶために、そこにやってきたわけじゃなかった……」
声のトーンが少し沈んだ。
「実のところ、その世界は霊的ウィルスと呼称される特殊な魔物に脅かされていたの。それは放置すればその世界のみならず、数多の平行世界を滅ぼしてしまう最悪の存在だった。世界を救うためにはウィルスの中枢たるコアを破壊し、その上で世界そのものを浄化する必要があった。それこそが天咲さんの本当の目的だったのよ」
いつしか彼女の話を追うように、槇志の意識の中で、その情景が再現されはじめていた。
「あるできごとから、その秘密を知ることになったあなたは、その日以来、天咲さんに協力して、学校に潜伏しているコアを探しはじめたわ。だけど、ようやくそれを見つけたとき、それはよりにもよって、あなたのガールフレンドの中に根を張っていたのよ」
槇志は闇の中で息を呑んだ。衝撃を受けたのではない。そのとき受けた衝撃を思い出したのだ。たしかあれは一学期の終わり、終業式の日だったはずだ。
「あなたたちが事実に気づいたとき、すでにウィルスは完全に彼女の命と同化していて、分離は不可能だった。しかもそれは正体を見抜かれると同時に、彼女の体を奪って暴れ出し、天咲さんはクラスメイトを守るために、彼女をその手にかけるしかなかったの……」
実感と悔恨。そのときに感じた悲しみと、流した涙のことを、槇志ははっきりと思い出していた。
「あなたはもちろん、天咲さんはそれ以上に傷ついたでしょうね」
少女の声には空色を気遣うような響きがあった。
「だけど事件はこれで終わりじゃなかった。天咲さんが傷ついた世界を浄化するために世界結晶を使おうとしたとき、それは突然、きれいな青から不気味な黒へと変貌してしまったの。それは世界がすでに取り返しのつかないレベルで汚染されていることの証だった。ウィルスはあなたたちに発見された時点で、自分の分身を世界のありとあらゆる存在に、驚くほどに巧妙な形で同化させていたのよ。その世界に根ざすものは、人や動物、草花までもが完全に汚染されていて、それはあなた自身も例外じゃなかった。本当の絶望がそこにあったわ」
悲しい思い出を語るこの声の主を、槇志はすでに完全に思い出していた。
栗色の髪、肩口までのショートヘア。明るく快活で口うるさいが、やさしくて愛らしい少女。
――円城詩弦。
かつて槇志の恋人だったその少女は、最後に少しだけ悔しそうに笑った。
「それでも魔法使いはあきらめなかった」
その言葉を合図にして、闇の中に彼自身の記憶が奔流となって押し寄せてきた。槇志は抗う間もなくそれに呑み込まれ、時の彼方へと押し流されていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます