第26話 すれ違う想い

 はるか雲の向こうで閃光が瞬き、少し遅れてくぐもった爆音が響いてくる。空色は宙に浮かんだ魔法陣の上から、その光景を静かに見つめていた。


「終わったわね」


 ひと言つぶやくと、前方の大地に新たな魔法陣をひとつ描き出した。

 やがて、はるか空の高みから、人影がとんでもないスピードで落ちてくるが、それは地面に激突することなく、ちょうど描かれたばかりの魔法陣に触れて、音もなく動きを止めた。

 落下の衝撃は魔法陣によって打ち消されていたが、その天使はすでに満身創痍といった有様で、ピクリとも動かない。身にまとっていた機械鎧マシンメイルは原形すら留めておらず、背中にあった炎の翼も消失し、白い肌からは赤い血が滲み出ていた。

 空色は宙に浮かんだ魔法陣から大地に飛び降りると、まるで物でも扱うかのように天使の体を引きずり起こす。


「少しは懲りたかしら?」


 暗黒の魔女さながらに、冷ややかな口調で話しかけた。だが、その表情が突然凍りつく。


「え、円城さん――!?」


 先ほどまで顔を隠していたバイザーはすでに無く、そこに天使の素顔が露わになっている。


「ど、どうしてあなたが天使なんかに……」


 蒼白な顔でつぶやく。その声は、はっきりと震えていた。

 詩弦はかすかに目を開くと、弱々しい笑みを空色に向ける。わずかに口を動かしかけるが、受けたダメージが大きすぎるらしく、言葉を発する前に意識を失くしてしまった。

 もっとも、回復力の高い天使にとって、この程度の傷が致命傷にいたることはない。数日身を休めれば、すぐに元どおり動けるようになるだろう。あれでもまだ空色はじゅうぶんに手加減していたのだ。

 しかし普通の人間には、詩弦はいまにも息絶えそうな瀕死の状態に見えただろう。実際そう思い込んだ人物が、その光景を茫然と見つめていた。

 彼は突然プレハブのほうから駆け寄ってくると、趣味の悪いヘルメットを投げ捨てて声を張りあげた。


「もうやめろ、天咲! やめてくれ!!」

「か、笠間くん……!?」


 空色は青ざめた顔で突然の乱入者――笠間槇志を見つめた。



 槇志があげた制止の声に、空色は放心したように詩弦から手を放した。力を失った詩弦の体が大地に崩れ落ちるのを、槇志は駆け寄って、なんとか受け止める。そのまま膝の上に抱え込むようにして、槇志は詩弦に呼びかけた。


「円城!? しっかりしろ、円城!」


 反応はない。詩弦は苦しげな表情を浮かべたままだ。出血はすでに止まっているようだったが、裂傷や火傷が体中に及び、あまりにも痛々しい姿だった。


「か、笠間くん……」


 か細い空色の声を聞いて、槇志は強張った顔を彼女に向けた。険しい視線にさらされて、空色は怯えたように後ずさる。その姿にはっとして、槇志は己を恥じた。空色を非難する資格が自分にないことくらい彼にもわかっている。

 この戦いは空色が望んだものではない。いくらなんでもやり過ぎだとは思うが、それは詩弦も同じことだ。槇志が見た限り、どちらが命を落としてもおかしくない戦いだった。

 そしてこの戦いを招いたのは他ならぬ槇志自身だ。悪夢に怯え、未来に怯え、考え足らずのまま、ミゲルたちの言葉に従ってしまった。

 しかし、いまさらながらに槇志は思う。


(どんな理由があろうと、空色が世界を滅ぼすことなんてあり得ない!)


 この春はじめて出会ったその日から、槇志はずっと空色を見てきた。最初は恐怖ゆえに、そしていつしか愛しさゆえに。だから彼女が本当はどんな人間なのか、とっくに理解していたはずなのだ。

 たしかに意外なほどに好戦的な一面と、信じ難いほど強大な魔力を秘めてはいたが、それでも普段の姿が偽りや演技であったとは思えない。

 この春、夏生の命の危機に際して、それまで隠していた魔法の力を躊躇うことなく使い、今また敵である詩弦のために、魔法陣を描いてその体を受け止めていた。

 冷酷であるはずはない。無慈悲であるもずはない。やさしくないはずがなかった。

 それなのになぜ信じてやれなかったのか。

 たとえあの悪夢が未来予知だとしても――いや、ならばなおさらのこと、それを彼女に告げることで、未来を変えるべきではないか。

 天咲空色を――彼女を愛しているのなら、そうできるはずだ。

 目の前で立ちつくす少女を、槇志は真っ直ぐに見つめ直した。空色は相変わらず怯えた表情のまま、こちらを見つめている。か細い肩がかすかに震えているようだった。


(好きな女の子を信じてやれなくてどうするんだ)


 自分に言い聞かせると、槇志はすべてを打ち明けることを決意した。


「聞いてくれ天咲。俺たちは決して悪意があって、こんなことをしたわけじゃないんだ」

「俺たちって……」


 空色は困惑の表情を浮かべた。槇志がこの騒動に関わっていたことを知らなかったからだろう。


「俺は子供の頃から、何度となく不思議な夢を見てきた」

「夢……?」

「黄昏に包まれた世界で、おまえが俺もろとも世界を滅ぼしちまう夢だ」

「――っ!!」


 空色は愕然とした表情で大きく息を呑んだ。両手で口元を押さえ、はっきりと青ざめている。

 仲がいいと信じていたはずの友人から、悪の権化のように思われていたのだから、ショックを受けるのも当然だった。後悔と自嘲めいた想いを抱えたまま、槇志は説明を続ける。


「俺は最初、それが前世の記憶なんじゃないかって思ってた。だからこの春、俺はおまえを怖がってたんだ。おまえにまた殺されるんじゃないか、おまえはまた世界を滅ぼしちまうんじゃないかって……」

「…………」

「だけど、実際のお前を見ているうちに考えが変わってきた。おまえは明るくてお人好しで、こんな奴がそんなことをするはずはないって、そう信じられるようになったんだ」

「だったら、どうして……」


 空色の声は消えてしまいそうなほどにか細い。いたたまれない気持ちに耐えかねてうつむきながらも、槇志は絞り出すような声で話をつづけた。


「気づいちまったんだよ。昨日おまえの家に行ったときに……。あれが過去じゃなくて未来だって。これから起きることなんだってことに」

「え……」

「だから俺たちは、お前から世界結晶を取りあげようとしてたんだ。あれさえなければ、お前は世界を壊せない。あんな未来は訪れない。そう思って……」


 言い訳をするつもりではなかったが、自分の言葉が言い訳じみていることに気づいて、槇志は言葉をつまらせた。

 おずおずと視線を戻すと、空色は力無くうなだれている。長い前髪が表情を隠し、どんな感情を抱えているのかは見当もつかない。

 次に彼女が口を開いたとき、そこから罵声が放たれたとしても、嘆きの言葉が漏れたとしても、それはすべて自分の責任だ。槇志は覚悟を決めて、彼女の反応を待った。

 やがて、空色はスカートのポケットに手を入れると、そこからそっと何かを取り出し、こちらに向けて差し出してきた。半ば反射的に受け取った槇志の手の平には、青く輝く小さな宝石がのせられている。


「え……?」


 意図がわからぬまま槇志が視線を戻すと、空色は囁くような声で話しはじめた。


「世界が欲しいのなら、わたしは世界それをあなたにあげる」


 その言葉の意味するところを悟り、槇志は息を呑んだ。

 あらためて宝石を見つめ直すが、それは夢の中の黒い石とは異なり、美しい空の色をしている。闇が漏れ出すどころか、わずかな穢れも感じさせることなく、気高いまでの輝きを放っていた。


「まさか、これが世界結晶なのか……」


 驚く槇志に向かって、空色は独白のように語りかけてくる。


「わたしの持っているものなら、あなたにはなんだってあげられる。たとえそれが世界でも、わたし自身の命でも。だって……」


 声が震えた。


「わたしはあなたが好きだもの」


 告白の言葉とともに空色は顔をあげた。そこには儚げな笑みが浮かんでいる。


「でも、わたしはあなたに愛されるわけにはいかないの。だってわたしはあのとき……あなたの恋人を殺してしまったんだもの」

「な……!?」


 想像もしていなかった彼女の言葉に、槇志は言葉を失った。脳裏に誰かの顔がよぎるが、それが誰なのかどうにも思い出せない。

 混乱する槇志に向けて、空色はさらに言葉を続けた。


「ごめんね、笠間くん。やっぱりわたしはあなたの前に現れるべきじゃなかった。あなたを殺したわたしを、あなたが怖がるのは当たり前だもの」

「…………」


 驚きの連続に、槇志はもはや声すらあげられなかったが、ようやく自分の致命的な勘違いに気づいていた。


(未来なんかじゃなかった……やっぱり、あれは前世なんだ)


 認識は実感を伴い、すぐにそれは確信へと変わった。夢にさえ見ることの無かった過去の光景が断片的に脳裏をかすめていく。何かを思い出しかけているのだが、未だ形にはならず、かえって混乱するばかりだ。

 空色は揺れる瞳で、槇志をじっと見つめていたが、やがて意を決したように口を開く。


「さようなら笠間くん。ゆるしてなんて言えないけど、わたしは本当にあなたのことが好きでした」


 彼女の頬を一筋の涙が濡らした。


「…………」


 一瞬、槇志は何を言われたのかわからなかった。だがすぐに理解する。それは愛する者への別れの言葉だ。望まぬ別れを選んだ者の悲しい言葉だ。そんな言葉を紡ぎ、涙で頬を濡らしながら、それでも空色は笑っていた。

 なんのために? 

 誰のために?


(考えるまでもない俺のためだ! 俺に少しでもつらい思いをさせないように、空色は無理やり笑ってるんじゃないか! あのときだって、夢の中だってそうだ! あれは薄笑いなんかじゃない! 必死で悲しみを押し殺して、あんなにも悲しい笑顔を浮かべていたんだ!)


 ようやくそれを悟った槇志は、我に返ると同時に空色に手を伸ばした。


「ま、待て、天咲!」


 しかし、その指が触れる瞬間、空色の姿は霞みのように消え失せてしまう。最後の一瞬まで、彼女は悲しい笑顔のままだった。


「天咲ーっ!」


 槇志の悲痛な叫びが荒れ果てた大地に虚しく響き渡る。だが放心する暇もなく、今度はぼやくような声が背後から聞こえてきた。


「やれやれ、今度は卒業できると思ったんだけどな」


 槇志は慌てて振り返るが、今度は手を伸ばす余裕もなかった。

 どこか困ったような笑みを浮かべた綾子が、空色と同じように大気にとけ込むように消えた。


「彩河……」


 取り残された槇志は肩を震わせて呻く。手の中には空色が残していった世界結晶が、変わらぬ輝きを発していた。


「いらねえ……こんなもんはいらねえんだ。俺が欲しかったのは、こんなものじゃねえ」


 前世よりも、未来よりも、世界よりもなお大切なものが彼にはあったのだ。それなのにその一番大切なものを、自分の手で傷つけてしまった。

 このままでは終われない。終わりにしたくない。せめて、会ってあやまりたかった。たとえ、ゆるされないとしても。


(けど、いったいどこに行けば……)


 空色は世界から世界へと渡り歩く森羅万象師シンラマスターだ。へたをすれば、もうこの世界にはいないかもしれない。綾子ともども時空の彼方へと消えてしまったのであれば、槇志にそれを追いかけることは不可能だ。


(いや、その前にあいつには、まず帰るところがあるじゃないか)


 ――山の手に立つ天咲家の館。

 思いつくと同時に、立ち上がろうとした槇志は、自分がまだ、詩弦の体を抱えたままだったことに気づいた。

 視線を向け、ざっと傷の具合を確認する。驚いたことに全身の裂傷も火傷も、すでにほとんど残っていない。天使の回復力は常人とはケタが違うことを槇志は初めて知った。

 とはいえ、さすがに放り出していく気にはなれない。たとえ自分を騙していたのだとしてもだ。

 一刻も早く天咲家へと走りたい衝動に駆られ、焦る槇志の背後から、ちょうどタイミング良く綺理華の声が聞こえてきた。


「マキちゃん!」


 プレハブから慌てた様子で駆けつけると、戦いの余波で荒れ果てた大地を、唖然と見回しながら問いかけてきた。


「マキちゃん、空ちゃんは!?」

「消えちまった……」

「消えたって――!?」


 驚きの声をあげる綺理華だったが、槇志はそれ以上答えることなく立ち上がり、意識を失ったままの詩弦を差し出した。


「手当を頼む」

「え?」


 綺理華はきょとんとしながらも、詩弦の体を抱き止めている。


「マキちゃん……?」


 邪魔な革ジャンを投げ捨てるとともに、槇志は短く告げた。


「後で話す」


 それだけ約束すると、綺理華に背中を向け、全速力で走り出した。

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