第18話 こんなセリフは言いたくない

 空がうっすらと茜色に染まる時刻、ようやく空色は館に戻ってきた。少し疲れたような足取りで石畳の上をゆっくりと歩いてくる。

 その様子をテラスの上から眺めていた綾子は、空色の部屋に戻ると、意図して彼女のベッドにしわをよせてから、そこに座り込んだ。つづいて自分の髪を適当にかき乱し、Tシャツをだらしなく歪んだ形に整える。

 我ながら悪趣味だとは思わないでもないが、意外に強情な一面を持つ空色から本音を引き出すには、夏生のまねをするのがもっとも効果的だと思えた。

 綾子がわざわざくたびれたような表情を用意して待っていると、やがて扉を開けて空色が入室してくる。


「あれ……?」


 空色は綾子に気づくと、軽い驚きの声をあげた。


「お帰りなさい、空色」


 眠たげな顔で告げる。


「た、ただいま」


 空色は怪訝な顔のまま、とりあえずは言葉を返してきた。


「デート、楽しかった?」

「え、ええ。夏生くんって面白い人だし」


 空色が夏生を褒めるときは、たいていこの表現だ。素敵だなどとは形容した試しがない。


「好きなのよね、彼のこと?」

「え、ええ、もちろんよ。彼氏だもん」


 空色は作り笑いを浮かべて、いつもどおりの答えを返してくる。


「それより、どうして綾子がわたしのお部屋に?」


 誤魔化すように話を切り替えてきた。しかし、それも計算のうちだ。


「笠間くんが来てたのよ」


 綾子は何気ない口調で言った。


「え……」


 空色の表情から笑みが消える。


「彼、空色のことが好きだから、せめてどんなところに住んでるのか見せてあげようと思って」

「そ、そう……なんだ」


 空色は無理に笑みを浮かべて、うつむきながらうなずいた。


「でも、勢いって怖いわね」


 綾子は目を細め、視線はそれらしくあさっての方向に向ける。


「な、何の話?」


 空色の声はやや震えていた。嫌な予感を感じているのだろう。


「最初は彼をなぐさめようとしただけだったんだけど……」


 綾子は内心の羞恥心を一切顔に表すことなく、意図して気怠い声で告げた。


「わたし、彼と寝たわ」


 言った瞬間、綾子は死にたくなった。

 実際には未だ穢れを知らぬ乙女だというのに、何が悲しくて、こんなダメ女みたいな台詞を言わなければならないのだろうか。

 それもこれも全部、空色のせいだ。思い知れ、空色――そう叫びたい気持ちではあったが、実際効果は抜群だった。

 空色は茫然と目を見開くと、手にしていたカバンを床の上に取り落とした。全身からさあっと血の気が引いて、綾子が面食らうほど蒼白な色合いに変わっていく。目尻には大粒の涙が浮かび、あとからあとから頬を伝い落ちていった。狙いどおりと喜ぶには、どうにも破壊力があり過ぎたようだ。


「嘘よ、嘘!」


 綾子は慌てて告げた。


「え……」


 空色はまだ茫然とはしていたが、とりあえず涙を止めて綾子を見つめ返してくる。


「たしかに彼はここに来たけど、ジュースだけ飲んですぐに帰っちゃったわ。ちょっと具合が悪かったみたい」


 綾子は衣類と髪の乱れを直しながら説明する。


「具合が悪いって……まさか病気なの?」

「さあ? 急に冷たいものを飲んだから、お腹が痛くなったのかもしれないわね。でも大したこと無さそうだったわよ、坂を下りていくときの足取りは普通だったから」

「…………」


 空色は綾子の言葉にも安心した様子を見せず、不安そうな表情を浮かべている。


「好きなんでしょ彼が」


 綾子は言った。


「え?」

「いまさらとぼけてもダメよ。さっきの反応を見れば一目瞭然だわ」

「ひ、ひどいわよ、綾子。あんな悪趣味な嘘を吐くなんて」


 さすがに非難がましい声をあげたが、綾子は動じなかった。


「さっきあなたが味わった苦しみは、ここ最近ずっと笠間くんを苛みつづけているものよ」


 冷たく告げると、空色ははっとしたように息を呑む。


「彼はあなたのことが好き。それは理解してるんでしょ?」


 綾子が問うと、空色は後ろめたそうな顔で言い返してくる。


「でも、それは、ハシカみたいなものだって、夏生くんが……」

「は?」


 意外な言葉に綾子は目を丸くした。


「どうして、ここで八条くんが出てくるの?」


 問い直すと、空色はうつむいたまま黙り込む。


「答えたくないってわけね」

「約束だから……」


 空色はぽつりと言って言葉を切った。

 いったい夏生とどんなやりとりがあったのかは定かではないが、他言無用の約束を交わしたのであれば、それを聞き出すのは難しそうだ。


「まあいいわ、それはそれで。でも実際のところハシカじゃないってことは、もうハッキリとしているでしょ。ここずーっと彼が元気ないのは、あなたを八条くんに取られたせいなんだし」

「え? 親戚に不幸があったからじゃないの」

「は?」


 綾子は首を傾げた。そんな話は聞いたこともないし、そもそもそれが原因でないことは間違いない。


「夏生くんが言ったのよ。それで彼は元気がないんだって。でも、そのことに触れられると彼はもっと傷つくから、気づかないふりをするのが彼のためだよって……」


 空色の言葉を聞いて、綾子はようやくカラクリの一端が見えてきた。

 口では否定しているが、空色が槇志に恋をしているのは火を見るよりも明らかだ。そんな彼女が、自分の虚偽の交際が原因で、槇志を傷つけたと知れば、当然ながら自然体でいられるはずがない。そこで狡猾な夏生は一計を案じ、あらかじめ布石を打っておいたのだ。


「あ、あのラップ男ぉぉぉっ!」


 綾子はいつになく憤然として唸るような声を発した。


「あ、綾子?」


 理由がわからずとまどう空色。


「空色!」


 綾子は怒りに燃える目を彼女に向けた。


「は、はい?」

「いまからわたしがする話をよーく聞きなさい。あなたがあのラップ男に騙されていたことを、小学生低学年にもわかるように懇切丁寧に説明してあげるわ」

「ど、どうか、お手柔らかに」


 空色はこめかみに冷や汗を浮かべながら答えた。綾子は彼女の腕を取ると、ベッドの上に座らせて槇志の苦しみと、それを嘲笑う夏生の卑劣さをスパルタ教官のような口調で解説しはじめる。

 はっきり言って夏生は悪く解釈されすぎだったが、その心情はともかく、彼が実際に企てた悪質な計略については的確だった。

 空色が自らの嘘を認めるまでに、もはやさほど時間を要することはなく、ニセカップルはこの時点において完全に崩壊したのだ。

 しかしこの時すでに、事態はさらなる混迷へと突き進んでいたのである。

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