第17話 巨大な洋館とメイド
うだるような炎天下の中、セミの声がそこかしこから聞こえてくる。今年は随分と姿を現すのが早い気がしたが、まるで八月半ばのようなこの気候には、むしろ相応しい情景だといえるかもしれない。
暑さを苦手とする槇志が、わざわざこんな日曜日に外出することになったのは、従姉の片割れ、沢木南陽に届け物を頼まれたからだった。荷物も軽く、届け先もそう遠くないとあって二つ返事で引き受けたのだが、目的の場所が山の手であるというのが誤算だった。
地図を見た限りでは、ほとんど北に直進するだけだったのだが、実際に歩いた道のりは常に上り坂で、進めば進むほどに傾斜が増していく。おまけに降りそそぐ、この直射日光ときては、もうほとんど拷問だ。
幸い道に迷うこともなく、すんなりと目的は果たしたものの、すっかり汗だくになった槇志は、来た道を戻ることは避け、なるべく日陰を選んで帰ることに決めた。
ゆっくりとと言うよりは、もはやだらだら歩いていく。直射日光を浴びるよりマシとはいえ、暑いことに変わりはない。喉の渇きを覚えて足を止めた槇志は、自販機の姿を求めて周囲を見渡した。
やたら長くて高い塀が、右にも左にも延々と続いている。この辺りは高級住宅街だとは聞いてはいたが、それでもこの敷地の広さは想像以上だ。
「こりゃ金持ちの家って言うより、もはや大富豪の家だな」
こんなところに自販機があるとも思えず、槇志はがっくりと肩を落とした。
「……笠間くん?」
ふいに誰かが彼の名を呼んだ。
「うん?」
きょろきょろと辺りを見回すと、声の主は道路ではなく、塀の一角に設けられた、小さな通用門の隙間からこちらを覗いていた。
黒地に白のエプロンやカチューシャを付けた絵に描いたようなメイド少女だ。もちろん槇志が実際にメイドを見たのは、これがはじめてだったが、間違えようもないほどに完璧にメイドだった。
「やっぱり、笠間くんじゃない。何してるの、こんなところで?」
メイドは言った。
「えーと、どちら様で……」
「なによそれ? 昨日のショックで記憶喪失にでもなっちゃったの」
半ば本気で心配するかのような口調に、槇志があらためて見つめ直すと、見覚えのあるクールな容貌がそこにあった。
「彩河?」
「ええ、わたしよ。他の誰にも見えないでしょ」
なにを言わんやといった調子で言うと、綾子は鉄製の門を開いて、手招きしてきた。
「どうぞ」
「いや、どうぞとか言われても……」
さすがに、とまどう槇志。
「いいからいらっしゃい。冷たいものを、ご馳走してあげるわ」
その一言が決め手になった。気後れする気持ちはあったが、いまは一刻も早くのどの渇きを潤したい。槇志は促されるままに、おずおずと門をくぐって、敷地の中へと足を踏み入れた。
「うわ……」
思わず感嘆の声が漏れる。そこには想像以上に美しい庭園が広がっていたのだ。
緑の芝生や植木とともに、色とりどりの花が整然と咲き誇り、通路には異国情緒の漂う石畳が敷き詰められている。大きな噴水からは澄んだ水が水路を通って流れ出しており、涼しげな音を奏でていた。道の途中には当然のようにベンチや外灯が設置され、まるで公園か何かのようだ。
それだけでも、もうじゅうぶんに驚きの連続だったが、館はさらなる威容をもって槇志を出迎えた。青い屋根と真っ白な壁を備えた巨大な洋館だ。中央を母屋と考えても、左右それぞれに別館が建てられており、屋根付きの通路で繋がっているようだ。中世貴族の大邸宅――そんな言葉が脳裏をよぎる。
「さ、彩河。俺やっぱり帰ったほうが……」
場違いだという思いにかられて、槇志は踵を返しかける。その腕をさっとつかむと、綾子は怒ったように言った。
「いちいち逃げないでよ」
そのまま強引に彼を引っ張っていく。まったく迷いのない足取りで中央の建物に向かうと、綾子は我が物顔で扉を開けた。
館内はやはり空調が効いているのか、ひんやりとしていて心地よい。内装も思ったとおり豪華で、あきれるほど高い天井には巨大なシャンデリアが、いくつもぶら下がっている。周囲の壁には絵画や鎧の置物が飾られており、床に敷かれた絨毯は見るからに上等で、土足で足を踏み入れるのを躊躇してしまうほどだった。
槇志はその威容に圧倒されるばかりだったが、綾子に腕を引かれている以上、立ち止まることもできず、彼女と共にホールに設置された大きな階段を上りはじめた。
「彩河ってメイドさんだったんだな」
とりあえず他に言うことも見つからず、槇志が口を開くと、綾子は振り向きもせずに答えてきた。
「違うわよ」
「違うって……どう見てもメイドに見えるんだけど」
彼女が着ているのは誰がどう見てもメイド服だ。半袖から伸びた細い腕を飾るカフスが、なかなかにファッショナブルである。彼女がメイドでなくて、いったいなんだというのだろうか。
一瞬コスプレという言葉が脳裏をかすめるが、それだけでは、この館の説明がつかない。続けて
槇志が考え込んでいるうちに、三階まで足を進めた綾子は、彼の腕を引いたまま、長く延びた廊下を歩きはじめた。途中、別のメイドとすれ違ったが、そちらのメイド服は青地に白であり、綾子が着ているものとは色違いだった。
「あの人もメイドじゃないのか?」
「あれはメイドよ」
今度はあっさりと認めてくる。ますます困惑する槇志だが、綾子は説明することなく歩き続け、やがて一際豪華な扉の前で止まった。
「どうぞ」
ノックもせずにドアを開けると、槇志に入室を促した。
「あ、ああ」
やはり気後れしつつも、槇志は言われたとおりに扉を抜けた。自分の部屋とは比べる気にもなれない広々とした部屋だ。クローゼットや本棚。円いテーブルとイス、天蓋付きの大きなベッドなどが置かれている。おそらく、どれもこれもが目が飛び出るような高級品なのだろう。
「適当にくつろいでて。冷たいジュースを持ってくるから」
綾子はそれだけ言い残すと、槇志を置き去りにして部屋から出て行ってしまった。
くつろげなどと言われても、何もかもが豪華すぎて落ち着かない。とはいえ、いい加減足もくたびれていたので、槇志はイスのひとつを借りると、そこに腰を下ろすことにした。
部屋の装飾を眺めていると、異国というよりも、もはや異世界に迷い込んだ気分になってくる。棚に並んだ書物は背表紙からして読めない文字で書かれており、魔術書か古文書のようにしか見えない。どさくさ紛れにおかれている国内製のCDラジカセだけが、かろうじて現実世界との繋がりを保証してくれているようだった。
槇志がぼんやりと待ち続けていると、綾子はたっぷり十分以上――全身の汗が冷たく乾ききるだけの時間をかけてから、ようやく姿を現した。
言葉どおりおぼんの上には、氷の入った冷たいジュースがのせられていたが、槇志はそれよりも、それを持ってきた綾子自身の姿に軽い驚きを感じていた。
さっきまでのメイド服ではなく、Tシャツに白いスラックスという、実に平凡な服装に着替えていたのだ。
「どうぞ」
綾子はジュースを差し出しながら、槇志の対面に腰を下ろした。
「ありがとう」
素直に礼を言うと、槇志はストローを使って、冷えたジュースをゆっくりと喉に流し込んだ。ありきたりなオレンジジュースのようだったが、喉が渇ききっていたこともあり実に美味しい。
「わたしはここの居候なのよ」
綾子は何気ない口調で説明してくる。
「部屋代も食費も払ってないし、義務づけられた仕事も無いっていう、正真正銘完璧な居候でね。だからときどき、ああやってメイドの仕事を手伝わせてもらってるってわけ」
「へえ……」
他になんと言っていいのかわからず曖昧な返事を返す。複雑な事情がありそうだが、無遠慮にそれを訊くわけにもいかないだろう。槇志はとりあえず再びストローに口をつけ、ジュースのつづきを啜りはじめる。
「ここ、空色の家なのよ」
「ぶっ――!?」
思わずジュースを噴き出しかけた。
「ついでに言えば、この部屋も空色の部屋だったりするし」
「なっ――!?」
槇志は仰天して立ち上がると、あらためて部屋の中をぐるりと見回した。
「じゃあ、この本棚も、あのクローゼットも、この机も、あのベッドも天咲のものだって言うのか!?」
「当たり前じゃない」
平然と告げてくる綾子。たしかに当たり前かもしれないが、図らずも片想いの少女の部屋に入ってしまったとき、男はいったいどういう反応をすればよいのだろうか。
「なんならベッドの匂いとか嗅いでみる?」
「俺は変態か!?」
「うん」
「肯定するなよっ」
槇志は両手で頭を抱えた。
「だいたい勝手に入ったことを知ったら、天咲だっていい気はしないっていうか――絶対怒るだろ!?」
「怒るとしたら、それはわたしに対してよ。笠間くんは気にしなくていいわ」
「と、とにかく場所を変えてくれ。さもなきゃ俺は帰るぞ」
焦る槇志を綾子は涼しげな顔で眺めている。
「慌てなくても、あの娘は当分帰ってこないわ。今日は八条くんと市民プールに行ってるから」
その言葉で焦る気持ちは吹き飛んだが、胸の痛みは倍増した。今頃あのふたりは薄い布きれ一枚の大胆な姿で、初夏の休日を満喫しているのだ。
「心配しなくても大丈夫よ。改装されたばかりの市民プールなんて混雑の極みで、とてもいいムードにはなれないから」
「彩河、もうよしてくれ。俺の恋は終わったんだ」
呟く槇志の顔は減量に失敗してやつれきったボクサーのように覇気が無い。それを見て綾子は、思いっきり顔をしかめた。
「ちょっと、こっち来なさい」
綾子は何を思ったのか、彼の腕をつかんで窓際に引っ張っていく。そのまま大きなガラス扉を開いてテラスに出ると、手すり越しに庭の一角を指差した。
「あれを見て」
そこにあったのは、澄んだ水を湛えた大きな円形のプールだ。プールサイドでは先ほどと同じ青いメイド服を着た別のメイドが、この暑い陽射しにもめげず、せっせと床にブラシをかけている。
「プールもあるのか、この屋敷は」
無感動に言うと、綾子は少しいらついたように言った。
「あのね、笠間くん。この意味がわからないの?」
「意味?」
「自宅にプールがあるのに、わざわざふたりっきりになれるはずのない市民プールに出向いた意味よ」
「家族の目を避けるためだろ?」
「避けなきゃなんない家族なんて、ここにはいないわよ」
綾子の言葉に、槇志は詩弦の話を思い出した。空色の母親は世界を支配する魔女であり、その娘たちは気ままに世界を渡り歩いていると。ならばここにその母親がいるわけはなく、父親もまた然りだろう。
「けど、ここには彩河がいるじゃないか。友人の前じゃあ、天咲だってさすがにラブシーンは演じにくいだろう」
「なんでそんなにマイナス思考なのよ」
「……ピンと来ないんだよ。あいつが俺のことを好きになるなんてさ」
槇志は手すりに両腕を乗せたままうなだれた。
「八条くんなら、ピンと来るわけ?」
「…………」
来るはずもなかった。むしろ違和感大ありである。
しかし槇志がすぐに答えなかったせいか、綾子はさらに落胆した様子だった。
「もうダメ、あなたじゃ話にならないわ。八条くんも意外に手強いし。こうなったら残るひとりを問い詰めるしかないわね」
どうやらターゲットを空色当人に変更したようだ。
「なあ、彩河。おまえにしろ紫葉にしろ、なんでそんなに俺と天咲をくっつけたがるんだ?」
槇志にはそれが不思議でならない。
「綺理華の理由は知らないけど、わたしの理由は単純よ」
「どんな理由だ?」
「空色に幸せになってもらいたいから」
綾子は真顔だった。
「俺と恋人になったって、あいつが幸せになるとも思えないけどな」
「それを決めるのは空色よ。もちろん、わたしだったら、あなたみたいな弱虫は願い下げだけどね」
言いたいことだけ言うと、綾子は背を向けて部屋の中へと戻っていった。
「大きなお世話なんだよ……」
負け惜しみのようにつぶやき、槇志はゆっくりと空を見上げた。陽射しは相変わらずの強さだが、ここは山に近いせいか、気持ちのいい風が吹きつけてくる。
「空色か……」
群青色の空に向かってポツリとつぶやく。そんな自分の行いに自嘲めいた気分を感じて頭を振ると、広がる景色に背を向けた。
その足が――ピタリと止まる。唐突に目眩にも似た既視感に襲われていた。
(なんだこれは……)
槇志の目の前で白いカーテンが風に揺れている。傍らには円テーブルとイス。見回せば手すりの装飾にさえ見覚えがある。
恐る恐る視線を手すりの向こうへと向けて槇志はさらに慄然とした。
悪夢の中で何度となく目にしてきた景観が、そこに広がっているのだ。
もちろん夢で見る西日に霞む街並みと、この時間帯とでは、かなり印象が異なっているが、ここの高さと家屋の広がり方は、記憶にあるそれとあまりにも酷似している。
「どういうことだ……!?」
背筋を、ぞくりと冷たいものが走り抜ける。久しく忘れていた恐怖が甦り、心音が早鐘のように加速していた。
「こんなバカな……」
世界がぐるぐると回り出すような錯覚を感じて、槇志は手すりにしがみついた。
「あれは、ただの夢じゃなかったのか……」
頭を振って、何度も深呼吸を繰り返す。乱れた呼吸をなんとか整えながら、槇志はふらつく足で室内へと戻った。その様子に気づいた綾子が、慌ててイスから腰を上げる。
「ち、ちょっと、どうしたの笠間くん!? 顔色が真っ青じゃない!」
「悪い、彩河。今日はもう帰るよ」
それだけ告げるのがやっとだった。
「帰るって……少し休んでいったほうが」
綾子の言葉に答える余裕もなく、黙ったまま部屋を出て行く。廊下を抜けて階段を下りていくと、途中、見知らぬメイドが同じように声をかけてきたが、槇志は片手を上げてそれを制すると、そのまま逃げるように館を後にした。
正門から続く坂道を下っていくうちに、徐々に身体的な不調からは立ち直りはじめたものの、心にのしかかった重圧はどうにもならない。
(あれはただの夢だ。円城が言ってくれたじゃないか。空色はただのお人好しだって……)
槇志はその言葉を信じていた。だからあの夢が前世であると考えることをやめたのだ。しかしすべてのファクターがあの館には揃っている。見おろした街並み、豪華な洋館、さらに言えば季節も夏だった。
(つまり、あれは過去じゃなくて未来なのか……。この夏にでも、あれが起きるっていうのか……)
そう考えれば、すべての辻褄が合った。
「ふざけるなっ! あいつが――天咲がそんなことするわけがねえ!」
ひとり声を荒げる。静かな住宅街に自分の声が虚しく反響したが、そんなことにさえ気づく余裕がない。
だが、その声に応えてきた者がいた。
「どうした、少年!? もしやラピス・ラズリが何やら悪事を企てているのか!」
朗々たる男の声が、槇志の声など問題にならない迫力で清閑な住宅街に響き渡る。次々にご近所の窓が開かれる中、彼が驚いて声の方向へと顔を向けると、すぐ近くの民家の屋根に、ひとりの巨漢が腕を組んで立っていた。
男は異様なことに、まるでSF世界から抜け出たかのような、硬質のプロテクターを体の各部に装着し、左腕には小型の盾を、右の腰には光線銃らしきものを携えている。
やはりコスプレイヤーという言葉が脳裏をよぎったが、ただのコスプレがあんな場所に立つなどあり得ない。
さらに空色をラピス・ラズリと呼ぶところを見ると、この男は間違いなく詩弦の関係者で、だとすればその答えはひとつしかない。
「天使……なのか」
槇志は呆然とつぶやいた。その小さな声を聞き逃すことなく男は満足げに頷くと、片足立ちの怪しげなポーズで、朗々と名乗りを上げる。
「そう、私は天使!
さすがに背後に爆発や稲光を背負ってはいなかったが、そうであってもおかしくはない迫力があった。
茫然と立ちつくす槇志の中で、天使という言葉の持つイメージが、音を立てて崩れ去っていく。そんな槇志の心中などお構いなしに、男は勢いよく宙に身を躍らせた。
周囲の家々から驚きの声が上がるが、男は重力を無視するかのように悠然と滑空し、一瞬で槇志のもとへと飛来する。てっきりその場に降り立つものだと思っていたら、男はそのまま丸太のような腕で槇志の体を抱え込み、勢いよく大空へと舞い上がってしまった。
「どえぇぇぇぇっ!」
いきなり空中へと連れ去られたことと、むさ苦しい大男に抱きかかえられた不快感に槇志は悲鳴をあげた。
「とりあえず話は秘密基地で聞こう!」
男は叫ぶとともに背中のパーツから風を吹き出し、一瞬でとんでもないスピードに加速する。
色んな意味で現実のすべてを拒絶したい気持ちになりながら、槇志はその凄まじい
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