第13話 今さら遅すぎる
つい先日まで、三日三晩降りつづけた雨がやむと、陽射しはさらに厳しさを増していた。
見上げた空は抜けるように青く、雲は申しわけ程度にしか浮かんでいない。これまでの暑さが、ほんの序の口であることを痛感させられるような日和だった。
あの日以来、空色と夏生は当然のように登下校をともにしていた。
夏生の話によれば、先日記念すべき初デートを果たしたとかで、以来、顔を合わす度に聞きたくもない自慢話を聞かされている。
そのいっぽうで槇志と空色の関係は、とくに変化があったわけではない。相変わらず彼女は槇志に対して親切で、話しかければごく普通に笑みをこぼし、宿題なり授業中なりと、なにかと助けてくれていた。さらには、ここ最近覇気のない彼を心配しているらしく、それとなく元気づけようとしてくれている。そんなやさしさが槇志にとってはなおさらつらい。
思い返してみれば、この春、空色を魔女として怖れていたときでさえ、ここまで心苦しくはならなかった気がする。だがいまは憂鬱な気持ちは日々膨れあがるばかりで、教室に行くことさえ苦痛だった。そこに行けば、どうしても夏生と肩を寄せ合う空色を目にすることになってしまうから。
そんな理由で学校をサボってしまった槇志は、ひとり土手の斜面に寝ころんでいた。
「我ながら女々しいよな……」
自嘲気味につぶやいて瞼を閉じる。いい加減、悩むことにも疲れてきて、このまま眠ってしまいたいような気持ちになっていた。
土手の上を吹き抜ける風は強く、肌に心地よかったが、このまばゆいほどの直射日光の下では快適なはずもない。徐々に気分が悪くなり、そろそろ移動するべきかと考えはじめたところで、ふいに体の上に影が落ちるのを感じた。
「こんなところで寝ていたら、熱射病になってしまいますよ」
ひさしぶりに耳にした声に目を開けると、赤い髪をポニーテールにした少女が、槇志の顔を覗き込んでいた。見忘れるはずもない、以前教室で空色の荷物を漁っていた正体不明の少女だ。今日は制服姿ではなく私服だった。
「おまえか、懐かしいな」
ぼんやりと告げると、彼女は眉を顰めた。
「懐かしいですか?」
「……でもないか」
考え直して苦笑すると、槇志はゆっくりと体を起こす。赤毛の少女はその隣に腰を下ろすと、右手を伸ばして槇志の額にそっと触れてきた。その途端、体に籠もっていた熱が霧散し、意識が急速に鮮明になっていく。
「魔法か……」
何か特殊な光が見えたわけでもないが、槇志は直感的に悟っていた。
「ええ、ラピス・ラズリの……いえ、天咲空色のものとは質の異なるものですけど」
「ラピス・ラズリ?」
「天咲空色の別名です。あの姉妹はみんな鉱物にまつわる別名を持ってるんですよ」
「姉妹……」
その言葉に驚きを感じる槇志だったが、考えてみれば空色にも家族がいて当前だ。
「お姉さんか妹がいるのか?」
「姉も妹も大勢いますよ。大家族なんです、あの一家は」
赤毛の少女は肩をすくめて答える。
「君はいったい何者なんだ?」
「わたしは
「
槇志は目を丸くした。魔女の実在でさえ本来信じ難いものではあるが、天使という存在は、それに輪をかけて信じ難い。なぜならそれはこの世における最大の超常――すなわち神の存在に直結するものだからだ。
「信じられないなら信じる必要はありません。わたしがあなたの立場ならたぶん――いえ、絶対に信じません。きっと両手を広げてバカにします」
詩弦は真面目くさった顔のまま自分で両手を広げてみせた。それがなんだかおかしくて、槇志は軽く笑った。
「けっこう面白いヤツだな、あんた」
「褒め言葉と受け取っておきましょう」
詩弦は澄まし顔で答える。
「けど天使って言うわりには羽根も輪っかもないんだな」
「それはまあ、人間の考える天使と、わたしたちはまるで違うものですからね。もっとも翼はないわけでもありませんが」
詩弦の言葉に槇志は彼女の背中を覗き込んだが、とくにそれらしきものは見あたらない。
「ここでは見せられませんよ。他人に見られれば面倒なことになりますから」
どうやら何らかの方法で隠しているらしい。あるいは出し入れ自由なのだろうか。
「なあ円城。君が天使だっていうのは正直半信半疑だけどさ。教えてくれないかな。天咲のこととか、彼女と君らの関係を」
「それは構いませんが、当人からは何も聞いていないんですか?」
「関わるなって言ったのは君だろ」
「そうでしたね」
詩弦は視線を逸らしながら頷いた。なにか考え込むように水面を見つめたあと、ゆっくりと口を開く。
「天咲空色はこの世を統べる魔女の娘です」
「この世を統べる魔女?」
スケールの大きさだけは感じるが、なんだか漠然としすぎていてピンと来ない。
「笠間くん、世界というものは実はひとつではないんです。この世には多種多様な異なる世界があって、そのひとつひとつが神王樹と呼ばれる巨大な神木の、木の葉の中に収められています。ラピス・ラズリの母親は、この大樹のすべてを支配する、この世で最強の
「
「森羅万象とはこの世のすべての現象を意味します。つまり、
「天咲が……」
のほほんとした普段の彼女の姿からは想像がつかない。
「本来、神王樹は天使によって管理されるはずでした。ですが神王樹は自らの意志で、天使ではなく魔女を管理者に選んだのです」
「なんでだ?」
「魔女のほうが天使よりも優れていたからです。ですから神々もまた神王樹の意思を尊重しました」
「天使より優れてるって――いったい何者なんだ、その魔女ってのは?」
「魔女は魔女です。ですが、その質問が種族について問うているのであれば、答えは人間です」
「人間!?」
槇志は目を丸くした。
「なんで人間にそんなとんでもない力があるんだ?」
「こういった平凡な世界に生きていれば、信じられないのも無理はありませんが、平行世界全体で見れば、生まれながらに異能の力を持つ人間なんて珍しくないんですよ。超能力者や魔法使いが当たり前に存在する世界もありますし、ときにはそれ以上の規格外者が出現することもあります」
「規格外……」
一瞬、槇志の脳裏に綺理華の顔が浮かんだが、彼女はべつに手を触れずに物を動かすこともなければ、目から光線を発するわけでもない。
「天使は神の意に従って魔女と盟約を結び、ともに世界を守っていくための機関〈天使連盟〉を設立しました。わたしもまた、そこに属するエージェントです」
どうやら空色の一族と詩弦たち天使は、べつに敵対しているわけではないようだ。
「もっとも、古参の天使たちは魔女の一族に対して嫉妬に根ざす悪感情を抱いているので、必ずしも仲がいいわけではありません。わたしの任務も実はラピス・ラズリの監視でして、こうして毎日つかず離れず動向を窺っているんですが……。正直気が進まないので、かなりいい加減にやってます」
微かに苦笑を浮かべて詩弦は言った。
「つかず離れずか……。うちの生徒じゃなかったんだな」
以前会ったときは星輪の制服を着ていたのだが、どうやらニセ生徒だったようだ。
「それにしても世界の支配者の娘とはな……」
槇志はなんだか気が遠くなりそうな気分だった。はたして夏生は、このことを知っているのだろうか。
「そもそも何でそんな奴が、こんな世界で女子高生のまねごとなんてしてるんだよ」
「それは……」
詩弦は何かを言いかけたあと、少し迷ってから、あらためて口を開いた。
「魔女の娘たちは、基本的に自由気ままに世界から世界へと渡り歩いていますが、ときおり個々の世界の状態を調べるために、人間社会に紛れ込むことがあるんです。
詩弦はどこかぎこちなく視線を逸らしていた。嘘は言っていないまでも、何かを隠しているようにも見える。
「円城、君は気が進まないって言ってたけど、それでも監視がついてるってことは、天咲には何か危険な一面があるんじゃないのか?」
結局一番気になっていたのはこれだ。槇志が素直になれなかった理由、あの悪夢の真実。それをずっと知りたかったのだ。
しかし、詩弦の答えは拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。
「ありませんよ」
「え……?」
「見てのとおり、彼女はただのお人好しです」
「…………」
意外な言葉に、槇志はぽかんと口を開いたまま固まっていた。
「どうかしたんですか?」
詩弦は不思議そうな顔を向けてくる。
「いや、だって言ったじゃないか、円城。天咲空色には関わるなって」
「言いましたっけ?」
詩弦はそっぽを向いた。
「言ったぞ、はっきりと!」
槇志が強い口調で言うと、詩弦はきまりが悪そうな顔でため息を吐いた。
「実を言うとですね……あれは天咲さんへの嫌がらせなんです」
「嫌がらせ!?」
思わず声が裏返っていた。
「ええ。あんまりにも彼女があなたと仲良くしていて、腹が立ったから嫌がらせしたんです」
「な、なんだよ、そりゃ……!?」
「すみません、反省してます」
詩弦は立ち上がって槇志に向き直ると、深々と頭を下げた。
「お詫びにはっきりと保証します。天咲空色は善人です。近づいても抱きついても絶対に危険はありません」
「………………」
槇志は茫然としていた。
「あのぅ、笠間くん?」
詩弦は困ったような顔で声をかけてくる。
「遅いよ……」
「え?」
「天咲は……」
どうしようもなく惨めな思いが込み上げ、喉をつまらせる。それでも槇志は勢いに任せて叫んでいた。
「天咲はもう、他の男のものなんだぁぁぁっ!」
叫ぶと同時に槇志は逃げるように走り出していた。
「笠間くん!?」
背後で詩弦の慌てる声が響いたが、立ち止まるわけにはいかない。いまやさしくされたら、きっと泣いてしまうだろう。失恋して涙を流すなど、そんな格好悪いことは槇志のプライドが許さない。
しかし、もし泣けば空色が自分に振り向いてくれるというのなら、槇志は即座に涙を流して泣き叫んだだろう。好きな娘のためならばプライドを投げ捨ててもいい。そう思えるほどに彼は空色が大好きだった。これほどまでの思いをつまらない悪夢に振り回されて、ふいにしてしまったのだ。槇志は自分の愚かさが恨めしくてたまらなかった。
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