第11話 悔しいけど僕は男なんだ

 夏生は生きていた。死にそうな顔こそしていたが、なぜか五体満足で授業を受けている。

 いっぽうの綺理華は、昨日夜更かしでもしたのか、ずっと居眠りしており、ときおり大きなアクビをするさまは百獣の王を連想させた。このまま眠れる獅子が目覚めなければ、ごく平穏なままに、この一日は終わったことだろう。

 だが、もちろん綺理華が朝の一件をこのままうやむやにするわけがない。

 昼休み、午前中に睡眠不足を解消した彼女は、食後に屋上まで来るようにと、槇志に告げてから教室を出て行った。

 よりによってなんて暑いところに呼び出すんだとは思ったものの、当事者である以上無視するわけにもいかず、槇志は従姉の作ってくれた弁当をきれいに平らげてから、ゆっくりと待ち合わせの場所に向かうことにした。

 踊り場は一面のガラス張りで、外の景色がよく見える。グラウンド越しに覗く街並みは、とてもまだ六月だとは思えないほどに陰影が濃く、気温の高さを確信させられた。そこでセミが鳴いていても違和感がないほどだ。

 うんざりとした気持ちで、槇志はだらだらと階段を上っていく。屋上へとつづく扉は鉄製ではなく、正面玄関と似たようなガラス扉だ。そこを開けると途端にもわっとした熱気が漂ってきた。


(よくもまあ、こんなところで飯を食えるもんだ)


 槇志は手すりの影に隠れるようにしながらパンをかじっている綺理華を見て、内心呆れながら歩いていった。彼女の隣では、すでに昼食を終えたのか、夏生が手すり越しから見える街並みを、何やら真剣な表情で見つめている。内面にまったく釣り合っていない女顔に涼しげな表情が浮かんでいた。心頭滅却の境地にでもあるのか、汗ひとつかいている様子がない。

 綺理華は槇志に気づくと、勢いよく立ち上がって、非難がましく叫んだ。


「暑いよ、マキちゃん!」

「だったら、こんなところに呼び出すな!」

「考えてなかったんだよ、ここがこんなに暑いなんて!」


 常にエアコンの中にいる弊害だろう。あるいは寝ぼけていたためかもしれない。


「それなのにマキちゃんたら、ゆっくりとお弁当食べてから来るなんて。おかげでどこにも避難できなかったじゃない!」

「出入り口はひとつしかねえんだから、そこの踊り場で待ってりゃいいじゃないか。あそこにもちゃんとエアコンの吹き出し口があって快適だぞ」


 槇志としては、もっともなことを言ってやったつもりなのだが、綺理華は反論してきた。


「でも、もしマキちゃんが意表を突いて校舎の壁をよじ登って現れたら、わたしがすっぽかしたことになっちゃうじゃない!」

「んな変なことするのは、おまえぐらいのものだ」

「そんなことないわよ、現にさっきハチはそうやってここに来たもの!」

「…………」


 槇志は呆れてものが言えなくなった。空色の魔法よりも、このふたりのほうが、ある意味、現実離れしているのではないだろうか。


「とにかくだ。暑いと思うなら、いつまでもこんな場所にいないで、踊り場まで退避しようぜ」


 槇志が提案すると、綺理華は即座にうなずき、食べかけのパンとコーヒー牛乳を手に立ち上がった。


「いくぞ、夏生」


 ひとり物思いに耽っていた友人に声をかけると、夏生はなぜか素早く綺理華の前に回り込んで両手を広げた。


「させるかっ!」


 その声にかぶるように、何か固いものが空気を貫く音が響き、夏生の体が宙を舞う。

 隣を見ると綺理華が真っ直ぐに拳を天に突き上げていた。どうやら、いまのは綺理華の拳が発した轟音だったようだ。

 綺理華は熱く焼けた床の上にどさりと落ちた幼なじみを気遣うこともなく、それどころか思いっきり頭を踏みつけながら踊り場へと歩いていった。


「おまえなぁ……。機嫌が悪いあいつの前で勢いだけの行動に出るなよ」


 呆れた声で槇志が告げると、夏生は案外平気そうに身を起こした。ただし焼けたコンクリートに押しつけられたせいか、顔だけは見事に赤くなっている。


「最近癒し系って言葉をたまに聞くけどさ、紫葉はイタイ系だよね」

「おまえって呆れるほど頑丈だな。あのまま車に轢かれてても平気だったんじゃないのか?」


 槇志は結構本気でそう言った。

 とりあえず夏生を連れてエアコンの効いた踊り場に戻ると、綺理華はそこに設置されていた長イスの上で幸せそうにパンの残りをかじっていた。槇志が隣に腰を下ろすと、そのさらに隣に夏生が腰かけてくる。


「おい、狭いじゃねえか。紫葉の横に回れよ」

「それはダメだよ」


 夏生は真剣な表情で首を振った。


「なんでだ?」

「僕は顔がいいからね。紫葉と並ぶとどうしても、お似合いのカップルに見られてしまうんだ」


 意味不明の台詞を口走りながら、美少年らしく前髪をかきあげている。半眼でそれを見つめながら、槇志がぽつりと言った。


「身長はぜんぜんお似合いじゃないけどな」

「それは言わない約束だろっ」


 夏生は悲鳴じみた声で抗議してきた。

 身長一六八センチの綺理華に対して夏生の身長は一六〇ジャストである。ところが実際にふたりが並んで立つと、身長差はほとんど感じられない。その秘密は夏生の愛用している特殊な靴にあった。いったいどこで購入しているのか、通学用の革靴をはじめ、体育用の運動靴、そして校内で使う上履きまでもが、踵が八センチも高くなっており、彼のコンプレックスの元凶を見事にカモフラージュしている。しかも、それらの靴は極めて精巧にできており、一見しただけでは普通の靴と見分けがつかない。

 だが、さすがに水泳の授業では踵を継ぎ足す術もないために、クラスメイトからは水に濡れると脚が縮む男と呼ばれていた。

 ちなみに槇志は踵を継ぎ足した夏生よりも長身だ。


「とにかく僕と紫葉は恋人でもなんでもないんだ」

「いや、んなこと誰も疑ってねえって。みんなそろって親分子分だって理解してるよ」


 槇志が事実を告げてやると、夏生はなぜか呆れ顔になった。


「やれやれ、槇志って冗談のセンスだけはないよねえ」

「血染めの書状を送りつけてくるおまえほどじゃねえよ」

「あれは冗談じゃなくて本気だよ」


 まったく悪びれることなく言ってくる。槇志は綺理華に向き直って尋ねた。


「このバカを思いっきり殴っていいかな?」

「うん」


 即答。


「紫葉、僕を裏切る気か!?」

「裏切り者は夏生でしょ。今朝はわたしを迎えに来なかったし」


 綺理華は横目で夏生を睨んだ。そういえば今日はめずらしくふたり一緒ではなく、別々に登校してきたようだった。


「だから、すべては愛のためなんだよ!」


 夏生の言葉は相変わらず要領を得ない。


(いや、待てよ……)


 バラバラのパーツを組み立てるように、槇志は頭の中で夏生の意味不明の行動と言動を整理してみた。空色に近づくなという血染めの書状。綺理華との仲を誤解されたくないという考えすぎの行動。そしてすべては愛のため。


「そうか」


 ぽんっと手を打ち鳴らす槇志。


「わかってくれたみたいだね、槇志」

「ああ、わかったぜ。おまえ、やっぱり気が狂ってたんだな」

「わかってなーいっ。僕はまともだーっ!」


 頭を抱えて絶叫する夏生。よほど納得がいかないのか立ち上がって地団駄まで踏んでいる。


「おかしいヤツはみんなそう言うのよ」


 素っ気なく綺理華が告げた。それを聞いて、夏生はさらに声を張り上げた。


「くそぅー! なんて察しが悪いんだよ君らは! シャイな僕に全部喋らせる気か! 天咲さんに恋をしたって、口に出さなきゃわからないのか!」

「な、なんだと!?」


 槇志は驚きのあまり、反射的に立ち上がったが、綺理華は平然としたままつぶやいた。


「やっぱりね。そんなことだと思ったよ」


 本気で気づいてなかった槇志と違って、彼女はとぼけていただけのようだ。言いたかったことを勢いに任せて口走った夏生は、そのまま開き直ったようにつづけてくる。


「そうだよ。僕はあの日、彼女に命を救ってもらった瞬間から、ずっと彼女に恋をしてたんだ。一目惚れってやつさ」

「いや、天咲とはそれ以前から知り合いなんだから、一目惚れじゃないだろ」

「それは理屈だ!」

「ああ、理屈だから正しいんだけどな」


 槇志のツッコミも、いまの夏生には効果がない。


「僕は彼女を愛している。英語で表現するならばラブラブだ!」

「それ、本当に英語か?」

「これまで僕は、なまじ紫葉なんていう容姿だけは超一流の幼なじみがいたせいで、クラスの女子はみんなブスにしか見えなかった」


 失礼極まりない発言だ。


「しかし天咲さんは別だ。彼女だけは紫葉にひけを取らない。いや、はっきりと凌駕している!」


 拳を握りしめて力説すると、夏生は突然こちらに向かって、人差し指を突きつけてきた。


「槇志、この際だからはっきりと言おう。たとえ親友の君にでも、彼女だけは渡さない」


 いつになく厳しい表情をしている。その姿を見て綺理華が嬉しそうに拍手した。


「えらいわ、ハチ。それでこそ男の子よ」

「ああ、悔しいけど僕は男なんだな」

「悔しいのか?」

「うん、できれば女の子に生まれたかった」

「そうか……。まあ人それぞれだからなにも言わんが」

「しかし、それも過去のことだ。いまは男で良かったとさえ思っている!」


 夏生は自分に酔ったように話し続ける。


「昨日の夜、ついうっかりと机の上に赤インクをぶちまけてしまったとき、僕はようやく決意した。たとえどんな姑息な手を使っても、必ず彼女をものにしてみせると!」


 それを聞いた途端、綺理華は顔をしかめた。


「訂正、ぜんぜんえらくないわ、ハチ。そもそも姑息っていうのは〝一時しのぎ〟って意味だから、あんた言葉の使いかた間違ってるわよ」

「じゃあ卑猥な手段と言い直しておこう!」

「もっと変でしょ、それじゃあっ!」


 綺理華は眉を吊り上げた。


「ようするに卑怯な手って言いたいんだろうけどさ。だからって天咲に来ていた他人のラブレターを捨てちまうっていうのはやりすぎだろ」


 槇志が口にしたのはただの憶測だったが、あからさまに強張った夏生の表情を見たところ、どうやら図星だったようだ。


「な、なんのことかな……」


 視線を逸らし、とぼける夏生。


「ハチ」


 綺理華の声は永久氷壁よりも冷たかった。


「ひょえぇぇぇっ、ゆるしてーっ!」


 夏生は陸上部の顧問が感嘆しそうな、素晴らしいダッシュで屋上に飛び出していく。それを凌駕する勢いで、綺理華は床を蹴った。


「逃がすかーっ!」


 反響する声だけを残して、二人の姿はあっという間に視界から消える。

 槇志はひとり長椅子に座り直して、深々とため息を吐いた。屋上からは朝の再現のような騒音と、この世のものとは思えない夏生の悲鳴が響いているが、見かけによらず頑丈な夏生のことだ。すぐにけろっとした顔で戻ってくるだろう。

 それにしても、空色がモテることは知っていたが、自分の友人までもが恋に落ちるとは予想外だった。夏生は悪ふざけが行き過ぎるときもあるが、根は決して悪い男ではない。しかし、だからといって彼と空色がつき合うとなると、槇志はどうにも心穏やかではいられない。


「くそっ、なんでよりによって天咲なんだ。他の女だったら、素直に祝福してやれるっていうのに」


 愚痴りながらも槇志は考える。これは嫉妬なのだろうか。だとしたら自分は空色に恋をしているのかもしれない。たしかに空色が夏生と抱き合うような場面を想像すれば、胸が張り裂けそうなほどに痛む。しかし、もしこれが空色ではなく、たとえば綾子だったりしたら……。


「あれ?」


 槇志は、はたと気づいた。やはり同じように不快な気分になるのだ。では日頃から夏生と仲のいい綺理華であればどうか?

 結果は同じだった。

 ついでに従姉の陽と月子でシミュレートしてみたが、やはり結果に変わりはない。


「ようは夏生が悪いんだな。誰であれ、あいつとつき合うことで幸せになれる女なんていないから、義憤を感じるんだ」


 槇志は自分が女好きであるとか、独占欲の塊であるという可能性は考慮せずに、そう結論づけた。ちょうどそのタイミングで、綺理華が戻ってくる。片手を夏生の顎にかけ、仰向けの体をずるずると引きずっていた。


「ただいま、マキちゃん」

「お帰り」


 軽く返事をして夏生に視線を移すと、ぐったりとしているだけで、やはり外傷は見あたらない。


「もしかして顔を避けて殴ったとか?」

「ううん、顔しか殴ってないよ。制服は破れたら縫うのが面倒だし」

「うーん、やはり怪奇現象か……」


 しみじみとつぶやく。


「それよりマキちゃん、ひとつだけ確認しておくね」


 綺理華は急に真面目な顔になっていた。


「マキちゃん、空ちゃんに恋してない?」

「えっ……」


 一瞬、心音が跳ね上がる。


「もしマキちゃんが空ちゃんのこと好きなら、わたしは手を退くわ。けど、もしそうじゃないなら、わたしはハチの背中を押してあげたいの。たぶん、この子にとって、これは初恋でしょうから」


 綺理華は澄んだ瞳を真っ直ぐに向けてくる。それを避けるように、槇志は視線をさまよわせた。


「そりゃあ嫌いじゃないけどさ……べつに恋してるわけじゃねえよ。正直言って、もともと苦手なタイプだったし」


 答えた瞬間チクリと胸が痛んだ。後悔にも似た不快感が、心の中に染みのように広がっていく。綺理華はしばらくの間、無言で槇志を見つめていたが、やがてほっとしたように笑みを浮かべた。


「そっか、良かったよ。マキちゃんとハチが恋敵にならなくて」

「ああ」


 視線を合わせることなく頷く。


「よかったら、マキちゃんもハチの恋に協力してくれる?」

「ああ」


 一度頷いた以上、もう一度頷くしかなかった。


「それじゃあ、早速今日の放課後なんだけど」

「いきなりかよ」


 さすがに驚いて顔を上げる。心の準備どころか、自分の中に生まれたもやもやとした気持ちを整理する暇もない。


「空ちゃんは美人だから、競争率高そうだし、少しでも急いだほうがいいでしょ」

「そりゃそうだけど……」

「だったら善は急げよ」

(善か?)


 心底疑問だったが、まさか口に出して言うわけにもいかない。


「今日の放課後、空ちゃんを商店街に誘ってちょうだい。四人で遊びに行こうって」

「俺が?」

「それが自然でしょ。この中で一番空ちゃんと仲良しなんだから」

「……わかったよ」


 気は進まなかったが、こうなってしまった以上、断る理由が見つからない。


「マキちゃん、ハチの恋、絶対に成就させようね」


 綺理華は爽やかな笑みを浮かべながら、槇志の手を取って、ぎゅっと握りしめてくる。


「……あ、ああ」


 けっきょく、またもや押し切られる形で頷いてしまった。色んな意味で自分が情けないのと同時に、なぜか空色に対して後ろめたい気持ちが込み上げてくる。

 このとき槇志は空色が世界を滅ぼす魔女であるかも知れないという不安も忘れて、ひとりの少女としての彼女に激しく心を揺さぶられていた。

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