第10話 脅迫状に書いてはいけないもの
結局のところ槇志は、謎の少女の言葉よりも空色の機嫌が気になっていた。普段より早めに家を出た彼が、水道橋の手前で待っていると、空色はいつもどおり綾子と並んで姿を現した。
「ようっ」
内心の不安を一切隠して明るく声をかけると、ふたりはすぐに笑顔を返してきた。槇志は正直ほっとした。綾子はちゃんと空色に話をしてくれたようだ。
「笠間くん、昨日はごめんね。冷静に考えたら、笠間くんがあんなことするわけないのに」
申し訳なさそうな顔をする空色。
「いいって、気にしてないからさ」
軽い口調で答えると、槇志は彼女たちの隣に並んで歩きはじめた。
「けど、やっぱり頼もしいわね、笠間くんは」
「え?」
「犯人を捕まえて、とっちめてくれたんでしょ」
嬉しそうに笑う空色。その向こう側で、綾子が軽くウインクしてみせた。
「ま、まあな……弱っちょろいヤツだったし」
とりあえず適当に話を合わせる。
「それなのにわたしったら、笠間くんのことを変態だなんて……」
「それは事実よ。この歳であんな本を読んでるんだから」
澄まし顔で言う綾子。
「彩河、いったいどこで、それを見たんだ」
常々疑問に思っていたことを、槇志はようやく本人に訊いてみた。
「えーとね、まずは駅の裏側でしょ。それから西公園の近くにある古本屋さんに、土手を南に下った先にあるスーパーの裏手の小さなお店」
指折り数えながら告げてくる。
「あ、あのな彩河。おまえ、もしかして俺の動向を監視してるのか?」
「バカ言わないで。いまはそんなに暇じゃないわよ」
「いまは……?」
どうにも引っかかる物言いだが、綾子は黙って笑みを浮かべるだけで、それ以上は何も言ってこない。
「ねえ、綾子」
ふいに空色が怪訝な声を発した。
「あなたたち、なんだか仲良くなってない?」
綾子はその言葉には答えず、槇志に顔を向けて軽く肩をすくめた。
「ほらね笠間くん。この程度で妬いてるでしょ」
「ち、違うわよっ」
空色は拗ねたようにそっぽを向いた。一見すると大人びた美少女なのだが、中身は意外なほどに子供っぽい。そんなギャップもまた彼女の魅力のような気がして、槇志は自然と頬を綻ばせた。
「ほら空色、彼に笑われてるわよ」
親友にからかわれ、頬を朱に染めながら、空色はちらりちらりとこちらを覗き見てくる。愛らしいその仕草は実に微笑ましく、見ていて飽きが来ない。
そんな空色をじっくりと観察しながら、槇志は学校までの道のりを歩いていった。
校門を抜けると、シックな校舎がいつもどおりに一行を出迎えた。ガラス張りのドアを開ければ、すでに空調が効いており、ひんやりとした空気が漂っている。少し汗ばんでいた体にはちょうどいい感じだ。
「彩河」
槇志は綾子を呼び止めると、そっと耳打ちするようにして話しかけた。
「なんで筋書を変えたんだ?」
「そうしないと空色が犯人を突き止めようとするからよ。普段は大人しく見えるでしょうけど、怒ると結構怖いのよあの娘」
綾子の説明を聞いて納得する槇志。実際、夏生をひき殺しかけた相手に、空色が見せた表情は得も言われぬ迫力があった。
(うん?)
槇志はふと思った。
(まさか空色が前世であんなことをしたのは、俺がどうしようもなく、あいつを怒らせたからとかいうオチじゃないだろうな……)
なんとなくその光景が脳裏に浮かび上がってくる。
黄昏のテラスで向かい合うふたり。槇志は必死で弁解していた。
「ま、待て、空色。俺が悪かった、綾子(仮名)とはちゃんと別れる!」
「綾子(仮名)だけじゃないでしょ」
空色はもはや怒りさえ通り越して、笑みさえ浮かべながら槇志を見据えている。
「じ、じゃあ、綺理華(仮名)か? それとも赤毛の少女(仮名)なのか?」
「全部に決まってるでしょ! わたしはもううんざりよ。あなたもこの世界も消えて無くなってしまえばいいんだわ!」
「よ、よせ、空色! 後生だ、俺だけでも殺さないでくれ!」
「ダメよ、死になさい浮気男!」
空色は聞く耳持たずに首を振ると、黒い宝石を力任せに握りつぶした。
「ぎゃあぁぁぁっ」
ガラス細工のように砕け散る世界と槇志。
こうして愚かな男のせいで、ひとつの世界が朽ち果てたのだった。
「………………」
槇志は自分の想像に目眩を覚えて座り込んだ。
(こんな理由だったら目も当てられねえ)
絶対に違うという自信はあったが、もしあれが現実の光景だったとしても、自分が善で空色が悪だとは限らない。今さらながらに、その事実に気づいていた。
「どうかしたの笠間くん?」
綾子が不思議そうに声をかけてくる。
「いや、ちょっと立ち眩み。気にしないでくれ」
槇志は頭を振って立ち上がった。
「あれ?」
すぐ傍らで空色がどこか拍子抜けしたような声をあげた。下駄箱の蓋を開けたまま、中を不思議そうな顔で覗き込んでいる。
「なんだ、またラブレターの山か?」
「ううん」
空色は首を横に振った。
「今日は一通も来てないの。これまでは少なくても一日、三通は来てたのに」
「おまえ、ブスになったんじゃないか?」
ふざけて言うと、空色は心外そうに口を尖らせた。
「そんなはずないわよ。二百年前から髪型だって変えてないんだから」
「…………」
絶句する槇志。
「じ、実は老婆か、おまえって……」
「もうっ、笠間くんって本当に意地悪ね。女の子に歳の話をするなんてサイテーよ」
空色は靴を履き替えながら理不尽な台詞を言うと、槇志をその場に残したまま、先に教室に向かって歩いていってしまった。
「歳の話はおまえからしたんだろうが……」
「べつに本気で怒ってないわよ」
綾子は励ますように言って、空色のあとを小走りに追いかけていく。その背中を見送りながら、槇志はまたもやため息を吐いた。
(これでまた前世説が濃厚になっちまったか……)
悪夢が前世だとすれば、空色はそのときから歳を取っていないことになる。もしいまの言葉が真実ならば、彼女は不老長寿か、それに近い存在ということになり、謎のひとつが解けたことになるだろう。
憂鬱な気持ちを堪えながら、槇志は自分の靴箱を開いた。
「え……」
思わず目を疑う。上履きの上に一枚の書状が載せられていた。
だが、それそのものは大した問題ではない。問題なのは、それがなんだか不気味な朱い色彩を帯びているということだった。
恐る恐る取り出してみると、剥き出しのその書状には血で書いたような文字で、実に簡潔な文章が綴られていた。
〝天咲空色に近づくな〟
表に書かれているのはそれだけだ。
槇志の脳裏に昨日出会った赤毛の少女の顔がよぎったが、どうにも違和感を感じる。
「槇志、なんだいそれは?」
タイミング良く廊下側から歩いてきた夏生が、驚いたように血染めの書状を見つめた。
「見てのとおりだよ。誰のイタズラかは知らねえが悪趣味な……」
槇志は夏生に書状を見せようとして、裏側に書かれた別の文字に気がついた。
「――八条夏生より、笠間槇志さまへ」
書かれていたとおりに読みあげると、夏生は途端に頭を抱えた。
「しまったぁーっ、差出人の名前はいらないんだった!」
「――てことは、マジでおまえの仕業か、夏生!?」
「違う、人違いだ、僕は夏生じゃない!」
無理があり過ぎるとぼけかただ。当然納得するわけもなく、槇志は目を吊り上げて怒鳴りつけた。
「どういう了見だ、説明しろ! 事と次第によっちゃあ紫葉に言いつけるぞ!」
「うわぁぁぁっ、それだけはご勘弁を!」
いきなり土下座すると、夏生はヘコヘコと頭を下げて懇願してくる。よほど綺理華が怖いらしい。
「……手遅れよ。もう聞いちゃったわ」
夏生にとって破滅的なその声は、槇志の背後から聞こえてきた。振り返ると、たったいま寝ぼけ眼で登校してきたらしい金髪の美少女が、寝癖だらけの髪をかきあげながら、冷たい目で夏生を見おろしている。
「ハチ……」
「ひょえええっ!」
夏生はガタガタと震えながら、槇志の背中に身を隠した。
「短いつき合いだったな、夏生」
沈痛な表情で告げると、槇志はくるっと体勢を入れ替えて、夏生を綺理華のほうへと突き飛ばした。
「う、裏切り者ーっ」
己の行いも省みもせずにわめく友人に、槇志は哀悼の意を表する。
「アデュー」
「そ、それは死者への永遠の別れの言葉あああっ!!」
絶叫に近い悲鳴をあげる夏生に背を向けて、槇志は悠然と廊下を歩いていく。なにやら背後でもの凄い音が聞こえていたが、見ないほうがいい気がしたので最後まで振り向くことはなかった。
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