第9話 夕暮れの少女
茜色に染まった空の下を槇志はぼんやりと歩いている。気温は日中に比べて適度に下がっており、吹きつける風が心地よい。夕暮れ時は悪夢と重なる時間帯ではあるが、不思議なことに、彼は昔からこの時間が嫌いではなかった。
土手の上から見える街並みは、どこか郷愁にも近いせつなさを感じさせる。もしあの悪夢が本当に前世の記憶であるならば、彼の郷愁はそこに向けられたものなのかもしれない。
「けど、どうにもピンと来ねえよなぁ。あの天咲が世界を滅ぼすなんて……」
足を止めて緩やかな川の流れを見つめる。涼しげな水面が陽射しを反射して、きらきらと輝いていた。河川敷ではどこかの小学生たちが草野球をしており、甲高い声が、ときおり土手の上にまで響いてきている。
実に穏やかで平和な光景だ。こうしているだけでも、不思議とやさしい気持ちになってくる。
きっとこの意見には空色も同意してくれるはずだ。普段の彼女を見ていればよくわかる。天咲空色は間違いなくやさしい人間だ。
ひと月あまり前、槇志はその事実に目を向けようともせず、悪夢に振り回されて彼女を傷つけてしまった。その愚行を再び繰り返そうとしているような気がして胸が痛む。
あるいはすべてを打ち明ければいいのかもしれない。あの悪夢のことも空色に話せば、他ならぬ彼女自身がその謎を氷解させてくれるのではないだろうか。しかし、そう思う度に相反する考えが脳裏をかすめる。一歩間違えれば取り返しのつかないことになるのだと。
槇志は空色を信じ切れない自分が、どうにも歯がゆく情けなかった。
「ったく、俺ってヤツは……」
ため息を繰り返しながら、帰り道を進むと、やがてコンクリートの階段が見えてくる。
いつもよりやや遅い時間帯、児童公園へとつづく斜面は、傾いた西日に照らし出されて金色に輝いていた。眩い光に目を細めながら階段を下りると、公園の中から、かすかにブランコが軋む音が聞こえてくる。
何気なく視線を移せば、見知った少女がそこに腰かけていた。足下にカバンとスポーツバッグを置いたまま、ブランコを漕ぐでもなく、どこか遠い目で夕暮れの街並みを見つめている。
「彩河……」
槇志がつぶやくと、その声が聞こえたのか、彩河綾子がそのままの姿勢で話しかけてきた。
「笠間くん、また空色をいじめたでしょ。さっき泣きながら走り去っていったわよ」
「えっ――いや、それは……」
慌てて弁明しようとしたが、どう話すべきか、咄嗟には思いつかない。ヘタをすれば、またやぶ蛇になりかねないだろう。
しかし綾子は詮索もせずに、意外に寛容な言葉を発した。
「まあいいわ。ケンカするのも青春だしね」
「彩河……」
槇志はやや戸惑いながら綾子の横顔を見つめた。彼女はべつに落ち込んだ様子でもなく、むしろ明るい笑みさえ浮かべていたが、なぜかひどく寂しげに見える。
「彩河……。何かあったのか?」
槇志が気遣うように問うと、綾子ははじめて彼に顔を向けた。
「何かって、どうして?」
「いや、なんだか……寂しそうに見えるからさ」
「意外に鋭いわね」
寂しげな笑みを浮かべたまま、綾子はわずかに目を細めた。
「でもべつに大した問題じゃないのよ。ただね、わたしはときどきもの凄く寂しい気持ちになるの。決して帰ることのできない場所に帰りたくなるような……こんな気持ち、たぶん笠間くんにはわからないでしょうね」
拒絶するのではなく、ただ事実を述べるような口調だった。いつもどおりの可憐な顔が、いまはひどく大人びて見える。なんだか放っておけない気がして、槇志は口を開いた。
「なあ、彩河。俺で良ければ話し相手ぐらいにはなるぞ。どうせ年中暇だしさ」
「ありがとう。でも遠慮しておくわ。空色がヤキモチ焼くでしょうから」
「いや、それはないだろ」
「そうかしら」
綾子はからかうような笑みを向けてくる。誤魔化すように槇志は頬をかいた。彼にとって恋愛対象としての空色というのは、どうにも考えにくい話だ。もちろん魅力的な少女だとは思うが、彼女を取り巻く事情は特殊すぎて、そんな気持ちを感じる余裕がない。おまけに今日の一件で、空色は彼のことを変態だと思い込んでしまったはずだ。このままでは恋愛以前に友情の危機である。
「なあ、彩河」
「なに?」
「天咲の家って知ってるか?」
「山の手のほうだけど……。それがどうかしたの?」
「実はさっき冗談を言ったら、本気にされちまってさ。早めに誤解を解かねえと、明日またマラソンするはめになりかねないんだ」
槇志の言葉に、その光景を思い浮かべたらしく、綾子はくすくすと笑った。
「それは大変ね」
「いや、笑い事じゃねえんだよ」
「だったらわたしから説明しておいてあげるわ。あなたが直接行ったら、今度はあの娘、家ごと逃げるかもしれないから」
空飛ぶ一戸建てが脳裏をよぎり、槇志は顔をしかめた。いくらなんでもと思ういっぽう、空色ならやりかねないという気もする。
「じゃあ彩河に任せるよ。電話でもなんでもいいから、なるべく今日中になんとかしておいてくれ」
「ええ、任せて」
綾子の言葉に、ほっと胸をなで下ろす槇志。
「それで、その事情っていうのは?」
「えーと……」
ほっとしている場合ではなかった。まずは綾子を納得させなければ話にならない。
槇志は頭をフル回転させて、言い訳を考えた。先ほどよりは冷静だったおかげか、比較的マシな言い訳を思いついた気がする。
つまり、空色のカバンを漁ったのはまったくの第三者であり、しかもその犯人は不明という実に都合のいい設定だ。事件が起きたのは、槇志がトイレのために教室を開けた、ほんの十分程度。さすがにトイレに十分もかかるわけがないので、そのあと食堂の自販機までジュースを買いにいったことにしておいた。
警察にでも調べられれば、即座にぼろが出そうな嘘ではあるが、同級生を煙に巻くにはじゅうぶんだろう。槇志が自信を持って、虚偽の説明を終えると綾子は笑みを消して言った。
「笠間くん、あなたね……。世の中、やっていいことと悪いことがあるのよ」
「少しは信じろよっ!」
槇志の声は虚しく茜色の空にこだました。
その後、彼がようやく綾子に、いまの説明を信じてもらうことができたのは、喫茶〈そるな〉にて特製ミックスパフェ――千六百円を奢ったあとだった。
本当に信じてもらえたかどうか甚だ疑問だったが、空色を説得してもらえるのだから、これでよしとするしかないだろう。札が減って硬貨が増えたことにより、逆に重たくなった財布がなおさら悲しかった。
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